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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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女主(おんなあるじ)

「それなら俺が行く。忠長様を呼びだしてもらえば間違いが無いだろう」


 仲間の男はそう言ってくれる。あり難い。少しでも早く殿には知らせて欲しかった。


「ああ、忠長様なら安心だ。やすらぎさんの名前を出すといい。あまり役人に気取られたくないんだ。なるべく何気なく呼んでもらってくれ」


「急ぎで何気なくか? 注文が多いな。分かった、やってみよう」


 花房の危険は察していても役人がどれほど信頼できない状況か、あまり伝わってはいないのだろう。笑いながら答えている。だが、忠長様と殿には分かるはずだ。正成様でさえ油断の出来ない状態だったことを二人は知ってくれている。


 康行は伝言を任せるとまた馬を走らせ、真っ直ぐ邸に向かった。事情を知る康行がようやく帰ったので、門番もすんなりと通してくれ、早くお方様に説明するようにと促される。


 馬を下りると直接やすらぎが出迎えて、お方様のところへ引っ張って行く。


「俺がこんな奥に入っちゃまずいんじゃないのか?」


「何言ってるの。以前はお方様の寝所の塗り込めの中にに隠れたことだってあるじゃない。花房さんの身が危険なんでしょう? あなたから直接話を聞けなければお方様だって納得して下さらないわよ」


 康行の躊躇などかまうことなくやすらぎは、邸のもっとも奥まった所にあるお方様のお住まいになる北の寝殿の庭に連れて来ると、康行をそこに控えさせ、自分は身も隠さずに(隠しても今更だが)すのこの上で御簾と几帳の向こうにいらっしゃるお方様に声をかけた。そして、


「さあ、詳しく説明してちょうだい。昨夜から何があったの?」と、質問する。


 気は焦ったがとにかく邸の主に事の次第を理解してもらわなければならない。康行は出来るだけ手短に正成が小雪の手引きでお方様の寝所に近づいたこと、花房がそこに役人に待機させていたこと、だがその役人は院の息がかかっていたこと、自分たちが院にさらわれ、花房だけが院のところへと向かった事を説明した。


「それじゃ正成たちと役人が姿を消したのも皆、院の手の内だったと考えていいのかしら?」


 やすらぎが康行に聞くというより、自分が確認するように言った。


「おそらくそうでしょう。このままでは花房の身が危ない。だが、ここの役人はどこまで信用して良いか分からない。殿には連絡しましたが、信用のおける人物をそろえるには時間がかかるでしょう」


「そうかもしれないけど、早く助けに行かないと花房さんの身が……」


 やすらぎの声にも焦りが混じる。奥のお方様も息を飲んでいる様子が感じられた。


「そこでお方様にお願いがあるんです。ここの邸で飼われている侍を全員、院のいる山寺に俺に連れて行かせてもらいたいのです」


 康行は深々と頭を下げながら言った。


「侍たちを全員? 役人も連れずに康行達だけで行くというの?」


 さすがにやすらぎも驚いた顔をする。そんな事はおそらく前例がないだろう。


「申し訳ありませんが、正直お役人はこの場合あまり信用できません。相手が院では最後までこちらの味方でいてもらえるか分かりませんし、本当に花房の身を守ってもらえるかも分からない。最悪、院の方に寝返られたら花房に何が起こるか分からないのです。この邸の侍たちは私が大殿に飼われていた頃からの顔なじみばかりです。皆、気心が知れていて信用できる。どうか俺達に花房を助けに行くことを許してもらいたいのです」


「でも……。そんな特別な事を、殿の御許しもなく決めてしまうなんて」


 やすらぎは顔色を変えていた。そんな事を許可してもし、侍たちが何か問題でも起こそうものなら、責任は大将様が問われる事になる。しかもお方様や更衣様のために動くのではなく、お方様が個人的に使っている女房のためにそこまでするというのは、何かあったらどれほどの非難を受けるか見当もつかない。


 お二人の立場が重たいだけに、やすらぎには花房を心配する心とは別に、戸惑う心が強く出てしまった。それほど康行は難しい願いを言って来たのだ。



「かまいません。康行、早く花房を助けに行きなさい。殿には私からお伝えします。こちらの守りは役人と下男たちがいれば大丈夫。役人も主上に召しあげられている更衣様や、近衛の大将夫人である私を危険な目に会わせるわけにはいかないはずですから」


 戸惑うやすらぎをよそに、初花の上は自分からそう声をかけた。きっぱりとした、何者にも反論を許さない言い方だった。


「花房は私に命懸けで仕え続けてくれたわ。何の他意も打算もなく、私への好意だけで自分の役目以上の事をしてくれた。彼女はそれほどひたむきに私に向かってくれたの。康行はそんな花房の心を知っている。そして、それを私も知っているから頼んで来たのよ。私と花房の間には確かな信頼がある事を信じてくれたの。単に花房の主人としてではなく、人としての信頼を寄せてくれているの。私はこれに応えなければならないわ」


 そしてやすらぎにそばに来るように言うと、


「邸中の侍を集めて皆に馬を与えなさい。康行に協力してやるのです。役人たちには使用人と共に各門をしっかりと守らせなさい。たとえ何人たりとも私の許可なくこの邸に立ち入らせないようにするのです。役人が勝手に邸を出る事も許しません。康行達を送りだしたら、誰も門を出入りする事が無いようにしなさい。殿がお留守の時は私がここの女主おんなあるじです。私の言葉には皆に従ってもらいます」


 と、おっしゃった。


「康行、必ず花房を無事に連れ帰るのですよ。さあ、急いで」


 そうお方様が言うとやすらぎは侍所へ、乳母は役人のところへと急ぐ。康行は深々と頭を下げた後、厩へと急いだ。




 康行が邸に飛び込んだ頃、正成と小雪は身体を縛られ車の中にいた。てっきり検非違使達のいる所か、大将様の前に突き出されるものと思っていたが、どうやら方角が違う。明らかに都からは離れようとしているらしい。


「一体どこに連れて行かれるのだ? いくら私が罪人同然とはいえ、ぞんざいに扱って良いというものでもあるまい。確かに私は主の許しを得ずに寝所に入ったが、それ以外は何もしていない。初花の上様の御姿さえ見てはいないのだ」


 正成はまだ、心惜しげにそう言った。こんなことになるのなら、いっそ一度は強引にでもその御姿を垣間見ておけばよかった……。


「そうだ、お前は肝心の大将様の妻の姿を見てはいない。このままでは未練も残るだろう。それならいっそ、大将様に逆らって見てはいかがかな?」


 正成の隣にいる役人がそう言った。一体何を言っているんだ? と、正成は思ったが、


「実は俺達は嵯峨野の院様にご同情申し上げている。院様の御退位がもとで不遇の身になられた方々にもだ。どうだ、ここで俺達に協力をしないか? このままではお前は罪人同然に扱われた上、大納言様にも中納言様にも遠ざけられ、お前の一族は二度と日の目を見る事が無くなってしまうだろう。だが、世の中が変わればお前の立場は一変する事になる」


「世の中が変わる?」


「今帝が御退位し、院がもう一度帝に立たれれば、世の中は全てが変わるさ」


「そんなバカなこと、出来る筈がないだろう」


「出来るかどうかはやってみなければわからないぞ。院が直接帝になる事が出来なくても、大納言や中納言、大后に関わる者らをすべて排斥してしまえば院の力が返り咲いてもおかしくは無い」


「たとえ帝が御退位なさっても東宮様がいらっしゃるじゃないか。東宮様の母上は大納言家の御長女だ。大納言家の権力は揺るがない」


「東宮はまだ赤子だ。赤子が突然亡くなる事はよくあること。東宮と言えど人の子。無事に成長なさる保証はないだろう」


「まさか、東宮様の御命を狙っているのか?」


「俺達が狙うわけではない。後宮の中には色々な事があるのだろう。だが、必ず院様の世は来る。あのような強引な御国譲りが許されていいはずがない」



 正成は目が覚めた。初花の上への恋情はあるものの、それによって帝への忠誠や自らが今まで勤めてきた役目への誇りまでも失ったわけではなかった。しかも幼い東宮様の命を奪おうなどとは露にも思わない。それこそ神や仏すら恐れない、非道な御国譲りではないか。


「人を見下すのも大概にしろ。確かに私は罪を犯したが、それでも帝に忠誠を誓ったこの国の役人だ。どんな事があろうとも帝と東宮様をお守りするのが私の使命。お前達の様な日和見の悪党と一緒にするな!」


 そう言って正成ははねつけた。腹に力を込め、奥歯を食いしばって役人を睨みつけた。


「ほう、そこまで言うなら仕方がない。この女がどうなってもかまわんのだな?」


 役人がそう言うともう一人の男が小雪の首に細い紐を回した。そしてその首を締めあげる。






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