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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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わがまま

「会って来るだって? お前正気か? 狙っている奴のところに、自ら捕まりに行くって言うのか? やっとここまで逃げたって言うのに」

 

 康行は怒るのも忘れたように目を丸くしてそう聞いた。


「院様の狙いが私にあるのならいくら逃げても無駄だわ。殿のお邸に戻れば今度はお方様や叔母を危険にさらしてしまう。中納言様や御爺さまへの恨みは過去の物だけど、私への興味は院様が今強く持っているものだろうから」


「中納言様達への恨みはもとからあるものじゃないか。お前がいようがいまいが、あの方々は狙われている。お前が院と会ったからと言って、あの方々への恨みが消えるわけじゃあるまい。ただ、お前が危険な目に会うだけだ。馬鹿なことは考えるな」


 今度こそ康行は怒っていた。いや、怒ると言うより、私の勝手は許さないとその眼が言っている。その両手もしっかりと私の手をつかんでいた。


「馬鹿なことじゃないわ。院様がいまだに恨みを持っておられるのは、昔の傷が癒えないからじゃない。そんなのあまりにも長すぎるし不毛だわ。きっと、今の帝への嫉妬や私への何かの感情が院様を動かしているのよ。それなら私、そこから逃げるわけにはいかないわ」


 康行の心配はもっともだ。きっと私より康行の言っていることの方が正しい。でも、私はここで康行に折れるわけにはいかない気がした。私は院様から逃げるために都に戻った訳じゃない。


「その感情が危険だと言っているんだ。分からないのか?」


「分かってるわよ。分かっているけど逃げたくないの。院様と一度話をしておきたいの。だって御爺さまは院様を立ち直らせようとなさっていたんだから。私、御爺さまの心を院様に知って頂きたい」


「院の回りには欲の塊のような貴族や僧たちがべったりとくっついている。お前の声が届くかどうか分からないぞ。それなのにお前は自分の祖父のために、俺の心配をよそにして院を説得しようって言うのか? 無茶なことだと分かっているのに」


 私は御爺さまの事なんて知らない。顔すら分からない。ただ、慈しんで下さったと言う話を聞いただけ。康行の心配してくれる心はよく知っている。それでも。


「ごめん、康行。これは私のわがままなの。それでも私、院様と向かい合いたい。康行は絶対に私を助けに来てくれるでしょう? だから、康行に甘えさせてもらいたい。康行が来てくれるまで、私が院様を足止めしておくから」


「何がお前をそこまで突き動かすんだ? 俺はお前を院のところに行かせるわけにはいかない。そんなに言うなら俺が院のところに行く。お前は殿に助けを呼んでもらって来い」


 康行はどうあっても私を行かせるものかと言わんばかりに、私の腕をしっかりとつかんだ。それ以上に目の光が鋭くなって、私を行かせないためならなんだってしかねない顔をする。


「それはできないわ。院様が興味を持っているのは私。私となら言葉をかわしたいと思われても康行を行かせたなら、院様はあんたを容赦なく斬って捨てると思う。院様と話ができるのは私か帝しかいないの。それに私、真っ暗な車に乗せられていたから、帰り路も分からないし」


 私も康行に負けないように視線を送る。康行ならきっと分かってくれる。


「何より私も院様と話がしたいのよ。このまま院様に追われ続けながら都で暮らすなんてまっぴらだわ。言いたい事は言わせてもらう。今そうしなきゃ後悔するわ。約束したわよね? 私達は幸せになるために都に戻るんだって」


「……院は俺のようには説得されない。命だけじゃない。何をされるか分からないぞ」


「何もさせないわ。心配なら一刻も早く迎えに来て」


 私は笑って見せた。その方が康行には覚悟が伝わるのを知っているから。


「ええいっ。こんなじゃじゃ馬、俺でさえ扱いかねる。いいか? それならせめてしばらくはどこかに身をひそめて時間を稼いでくれ。向こうも必死で探しているはずだから隠れていてもいずれ見つかるだろう。だが、その間に少しでも山を下りておきたい」


「分かったわ。康行」


 私は康行を見つめた。本当はもしかしたら彼の顔が見られるのが最後かもしれないと、心のどこかで思っていた。出来るだけしっかりとその顔を目に焼き付けたい。でも、そんな気持ちが伝わっては困る。見つめながらも笑顔が崩れないように、懸命にこらえる。


「どうした?」


「必ず、助けに来てね」


 言葉ではそう言った。


「行って」


 そう言って康行の手を払うと、康行はふもとに向かって駆け出した。その姿を見届けると私は今逃げてきた道へと戻って行く。康行にはああいったけれど、私は隠れる気はなかった。


 私が隠れると言っても山の中でのこと。右も左も分からないところでたいして動く事も出来ない。そんな事なら早く院様のところに行った方がいい。そして康行を追わせないようにした方が安全に康行を逃がす事が出来る。あとのことは私次第だ。

 

 道に戻ると車の姿こそなかったが、轍の跡がくっきりと残っている。この後をたどって行けば誰かに出会うなり、山寺まで辿り着くなりするはずだ。私はできるだけ急いで、車の轍を見失わないように注意しながら山道を登って行った。




 一方康行は山の道なき場所を駆け下りていた。花房に身を隠せとは言ったが、こんな山の中では道に迷ったり、獣に襲われたりしないとも限らない。だが、ああまで院と話がしたいと花房が言う以上は、引きとめることは無理だ。そんな事が出来るなら、最初から花房は都に出て来ることなど無かっただろう。彼女がわがままを言いだしたらどうする事も出来ない。


「まったく、どうしようもない強情者だ」


 あの調子では院の前でも言葉を選んだり、しおらしく見せたりなどはしないだろう。そんな花房が自分との別れ際に、「必ず助けに来てね」などと、彼女らしくもない言葉を言ってきた事が気になっていた。もしかしたら良からぬ考えでもあるのかもしれない。ぐずぐずはしていられない。


 逃げ出す時に使った小刀で、目の前に伸びる小枝を払い、草をかき分け、時には岩に捕まり、崖地を滑り降りる。出来うる限り距離を縮めて山を下って行く。


 もう少しで山を下りきることができる。連れ去られた時は殴られた揚句馬の背に乗せられ、あれよと言う間に寺に連れて来られたが、山を強引に下りた事で行きとそう変わらぬ時間でふもとに出られそうだ。


 だが、ここからは人の足で走るのだから時間がかかる。一刻も惜しいと言うのに。こんなことなら逃げる時に寺から馬を盗んでおけばよかった。


 ……待てよ。この辺は農地だ。耕す馬くらい、農家にいる筈じゃないか?


 そう思ってふもとの農家を覗くと、まさしく今、朝の作業のためだろう。厩から馬を連れ出そうとする農夫の姿が目に入った。全力で農夫に向かって行くと、


「すまない。この馬、貸してくれ!」


 そう言うが早いか馬の背に乗り、その腹を思い切り蹴る。馬は驚いて走りだした。


「ど、泥棒! 馬泥棒だー!」


 農夫は慌てて追いかけようとするが、馬の脚には敵わない。見る間に離されてしまう。


「悪い、必ず返すから!」


 よりによってこの俺が馬泥棒する羽目になるとは。親父が聞いたら嘆くだろうな。いや、それ以上に今の状況を見たら花房の両親は息も止まるほど驚く事だろう。郷里が遠く離れていて本当に良かった。俺達は二人揃ってとんでもなく親不孝者だから。


「お前も驚かせて済まないな。だが、俺の大事な人の命がかかっているんだ。少しだけ我慢して言う事を聞いてくれよな」


 康行は馬にそう語りかけたが、驚いている馬はただ、狂ったように走り続けるばかりだった。


 鞍もない馬の背に乗っているのはなかなかつらいが、仕方がない。全力で駆ける馬にしがみつくように乗って、ひたすら邸を目指す。その辺の役人に頼むのでは事情の説明が面倒だ。邸の人間に殿に言づけてもらった方が早いはずだ。


 そう思っていたのだが、京の町にようやく入ったところで見慣れた顔を行く先に見つけた。同じ邸にいる侍者だ。慌てて馬を止める。


「康行! どこにいたんだ? 花房さんもいなくなるし、役人の二人と正成様と女房の一人も姿を消して邸は今、大騒ぎだ」


「正成様達が? 殿やお方様の許可なく連れ出したのか?」


「なぜ、正成様が役人に連れ出されるんだ? お方様は事情は花房とお前が知っているとおっしゃったが、肝心のお前達が姿を消したから俺達には何が何だか分からないんだ」


 役人が勝手に姿を消した。おそらくその役人も院の手の者に違いない。正成を逃がしてしまったか。これでは役人は当てにはならない。


「侍仲間を至急集めてくれ。花房が嵯峨野の院のところにいて危ないんだ。役人には院の息がかかっている。あてにできない。だれか、直接殿に知らせてもらわないと」






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