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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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逃走

 何故? 何故、お方様や叔母や更衣様ではなく、康行が連れ去られるの?


 私は文に書かれている言葉が信じられなかった。騒ぎに気付いてやってきた侍の一人に康行はどこかと尋ねてみる。


「康行? そういえば見えないな。騒ぎが起きる前まで近くにいたのに」


「厩にいるのかもしれないわ。見て来る」


 私はそう言って厩や侍所などを見て回ったが康行の姿は無い。本当に何者かに連れ去られてしまったらしい。


 康行は私に言われて一人で正成を見張っていた。正成が小雪とお方様の寝所に入ろうとしている所を、仲間と離れて一人で隠れ見ていたに違いない。おそらくそこを狙われたのだろう。


 失敗だったわ。正成の事に気を取られて私ならともかく、まさか康行の身が狙われるなんて考えていなかった。普通に仲間と一緒にいたら康行はこんな目に遭わなかったのに。


心の中が後悔の渦でかき乱されながらも、なるべく人目につかないように邸の庭を駆け抜ける。一人で邸を抜ける事に戸惑いが無いわけではなかったが、康行の無事が確認できない以上、私に迷いはなかった。


 私は急いで西門に向かった。門番には、


「知り合いが急な病で」


 と言い繕い、暗闇の中に僅かな松明の灯りと網代車を見つけると、躊躇なく乗り込んだ。


「花房殿、ですね?」


 車の中には顔を隠した男が二人乗っていた。その物腰や牛車に乗り慣れた様子から、それ相応の身分の人だと分かる。これはやはり院の一派の仕業か。


「康行は無事なの?」


 康行が素直に連れ去られる訳が無い。大きな馬でもたやすく扱う彼は、動きが機敏で力も強い。私が連れ去られた時は男を一太刀で斬り殺したし、襲われた私を助けた時も、太刀を合わせた相手に力勝ちしている。そんな康行がやすやすと連れて行かれたとは思えなかった。


 かなりの手ひどい目にあわされたか。それとも……


「無事ですよ。多少抵抗があったようですが、あなたの傍にいる役人に声をかければあなたをどうにでもできると言ったら、素直に従ったそうです。院を追いながらも内心院に目をつけられたくない役人は、意外に多いものですから」


 良かった、無理な真似はしなかったらしい。そうよ、康行は約束したんだから。簡単に太刀を抜いたりしない。お互いが苦しむようなことはしないって。


 今は互いの身の安全が第一だわ。おとなしく言う事を聞いておこう。


 男の一人が外の様子をうかがっている。その時、この車は御簾の内側に大きな布がかけられていて、外の様子が見えないようになっている事に気がついた。その布を男が降ろしてしまうと中は全くの闇になった。一気に不安が強くなる。


「約束は守られたようですね。追手がいる気配はないようだ。……行っていいぞ」


 男の言葉に反応して、牛車がゆっくりと動き出す。邸からどんどん離れていく。


「私をどこに連れていくの? 康行はそこにいるの?」


 たまらず、私は聞いた。


「とある山寺にお連れします。どのあたりのどのような寺かは申せません。康行もそこにいます。行けば顔くらいは見られますからご心配なく」


 顔だけ見せてもらってもちっとも有り難くないんだけどね。そう言ってしまうわけにもいかず、私はむっつりと黙りこんだ。


 大体のんきに話ができるような心情にはなれない。こんな真っ暗闇の中で男二人に囲まれた経験など無い。嫌でも緊張する。


 以前、さらわれた時は薬を盛られて身体は痺れ、ついには意識のないままに何も分からずに連れ去られた。気がついた時にはあの小屋の中だったから、恐怖を感じる暇が無かった。


 だが、今は自分の足で乗り込んだ真っ暗な牛車の中にいる。何をされるか分からない恐怖と、どこに連れていかけるか分からない恐怖。そして康行の無事を一刻も早く確認したい気持ちが自分の中でせめぎ合う。


 せめて、康行の顔を見るまでは無事でいたい。


 だが女一人の身ではどうする事も出来ず、ひたすら祈るよりほかなかった。



 牛車は忍びやかに町の中を進み、いずこかの橋を渡り、町から離れていく。すると牛車は速度を上げ、時が移ったせいか町から離れ山が近付いているせいか、空気が変わってひんやりとして来た。どっちにしても人の多い所からは大分離れてしまったのだろう。


 やがて速度を早めていた車がまたゆっくりと進みだした。さらに坂道を登る気配がする。山の中に入って来たらしい。暗い車中がさらに暗さを増して、私は余計に身を固くしてしまう。


 車は小石を踏み、草を踏み分けて進んでいるらしい。時折激しく揺れ、道端の草が轢き潰された匂いが漂っている。時折車に小枝が引っ掛る音がするから、普段牛車が通るところではない事が分かる。


 牛飼いが持っているのであろう松明の明かりが、車の前の隙間からチラチラと差し込んできて、かろうじて自分たちのいるところが分かる程度で、後はすべて深い闇に包まれている。夜の山中とはこれほど不気味なものなのかと、私も言葉を失ってしまっていた。


 一緒に乗り合わせた男達も特に私に話かけて来る様子は無い。どうやら彼らも無事に目的の場所まで私を運ぶまでは安心できずにいるようだ。緊張を強いられているのは私だけではないらしい。


 そんな中で山道を進むうちに白々と夜が明けてきたようだ。車の中にもうっすらと朝日が差し込み、物の姿が見えて来ると少しだけホッとする。闇はそれほど心に恐怖を宿らせるのだ。


 ところが突然、「わあっ!」と言う男の叫びが聞こえたかと思うと、いきなり牛車が止まり、車の中が大きく揺れて私も男達も身体を投げ出されてしまう。


 何が起こったのかも分からないまま何とか身体を起こそうとすると、車に飛び込んできた誰かにその身を助け起こされた。


「花房、怪我は無いか?」


「康行!」


 驚く暇もなく、康行は私を車から引っ張りおろす。一緒に乗っていた男達はまだ、身体を起こせずにいた。


「逃げるんだ、早く」


 そういう康行に引っ張られて私達は木々と草むらの中に飛び込み、駆け出した。


「康行、どうしてこんなところに? 捕まっていたんじゃ無かったの?」


「逃げだしたのさ。連中、俺の太刀を取り上げるのに気を取られて、腰に馬の蹄を削ってやるための小刀を下げているのに気がつかなかったんだ。俺を縛りあげて閉じ込めたはいいが、俺は小刀を使って縄を斬り、物入れの戸を壊してまんまと抜けだしたんだ」


 そう言う康行に顔には大きなあざができていた。手からも血が流れている。


「ひどいあざ。あいつ、康行は無事だって言ったのに嘘つきだわ」


「命があったんだから十分さ。この手は強引に縄を切ろうとしたんだから仕方がない」


 康行は苦笑している。


「でも、どうして康行が狙われたのかしら? 院とは何の関係もないのに」


「それを言ったら孫のお前だって関係ないはずだ。だが、院の狙いはとりあえずお前にあるらしい」


「私? そんなに私って狙いやすいのかしら?」


「文一つでまんまとこんなところに連れて来られていちゃ、文句は言えないな。俺も捕まったんだからお前の事は言えないが。ただ、なんだかお前には恨みとは別に興味を持っているような口ぶりだった。ああいう奴にはお前のように人の身代わりになったり、晒し者になってでも琴を弾き続けたり、俺をかばって太刀の前に身を投げ出したりするようなことは理解できないだろう。お前の様な人間の考えている事を知りたがっているらしい」


「私自身に、興味があるって言うの?」


「そんな事を言ってたな。だが、良い感情ではないことは確かだ。そんな奴のところにお前が連れて行かれる前に助ける事が出来て良かった。俺のせいでお前が危うい目に遭ったんでは、俺も立つ瀬がない。お互い無事でよかった。早くお邸に戻ってお前の警護も固めてもらおう」


 私は逃げる足を止めた。康行が訝しげに立ち止まる。


「どうした、怪我でもしたか?」


「ね? さっきの道の先に院様がいらっしゃる山寺があるのね?」


「そうだが」


「康行。私、院様に会って来るわ。あんたは殿やお方様に助けを呼んで来て。私は院様を足止めしておくから」






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