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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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正成

「康行、どうしたのその格好? 侍は辞めるって言っていたのに」


 あれから康行は侍を辞めると言っただけでなく、私とも人を傷つけるような真似はしないと約束をしていた。あれだけどうしようもない状態で私の身を守った康行なのに、人の命を奪った後の彼の苦しみようは、大変なものだった。もう、二度と康行のあんな姿を私は見たくなかったのだ。


「やはり俺は侍に戻るよ。若殿の許可も得ている」


 康行は目も合わせずに言った。


「殿の許可は関係ないわ。私との約束はどうなったのよ」


「すまないが事情が変わった。この邸に若殿はほとんどいないし、お前だけじゃなくお方様の事も心配だ。今度は戸締りをよくすればいいってわけじゃない。御所の人間まで利用する事が出来るのなら、どんな人間が誰をここに忍ばせてもおかしくないじゃないか。見張る人間は一人でも多い方がいい」


「でも、大将様が侍を増やしてくれるって」


「新参者には注意が必要だ。役人が保証した身元は信用しない方がいい。出来るだけ長く大納言家や中納言家に飼われている、見知った顔で警護を固めた方がいい。俺は大納言家に結構長く飼われているからな」


 そう言われても私はいい顔はできない。腰に差した太刀にばかり目が行ってしまう。


「そんな顔をするな。簡単にこの太刀を抜いたりはしないから。そんな事にならないようにするために、一人でも多くの目で邸を見張りたいんだ」


「でも……」


「何だよ、文句も言わずにためらうとはお前らしくもないな。しおらしく心配されると調子が狂うじゃないか」


 康行はからかうように笑って言う。こっちが本気で心配しているのは分かっているくせに。私はつい、むくれてしまった。


「そうだそうだ。そうやってむくれている方がよっぽどお前らしい。心配はいらない。俺は見張り役をしたくてこんな姿をしているだけだ。それにこの邸の侍たちとは長い付き合いだ。彼らが懸命に邸を守ろうとしている時に同じ邸にいる俺が黙って厩に引っ込んでなんていられないんだ。じっとしていられないんだよ。分かるだろう?」


 こんな話をしている時だと言うのに、私はふと、懐かしさを感じてしまった。初めに上京したての時、康行をこうやって縁から見下ろしながら良く口げんかをしていたっけ。


 康行もどこか嬉しそうな、懐かしそうな目をしている。そう、私達はこの世界に戻りたくて都に戻って来たんだっけ。


「しかたのない人ね。分かったわ。でも、十分に気をつけてよ」


 言葉ではこう言ったけど、きっと顔はほころんでしまっていたに違いない。康行も頷くと、


「お前の方こそ気を付けろ。特に、同胞の女房に」


「それは大丈夫。みんな中納言家の時から一緒にいる人たちばかりだし、お方様をお守りしようと心を合わせているんだから」


「だといいが。女心は分からないからな。後宮にだって院に同情している女房がいるくらいだ。もし、御所に勤める男君と通じている女房がいればどんな裏切りがあっても不思議じゃないからな」


「まさか」私はギョッとした。


「ないとは言えないだろう? やんちゃ者のお前でさえ、俺が太刀を持っただけで妙にしおらしくなってしまった。普通の女人ならなおさらだ。下男下女や使用人が小金のために動いても、そんなのほんの小細工程度の事だろうし、良く見ていればすぐにばれる。だが、お方様に心からの信頼を寄せている女房が男君にそそのかされたら、どんな思いきった事をするとも限らない。近しい人間を疑えとは言わないが、せめて気をつけてほしいんだ」


「お方様を御信頼しているのに、それでも裏切る人がいるって言うの?」


「分からない。女心は俺には分からないよ。でも、誰もがお前と同じように考える訳じゃないだろう。実は都で姫君がさらわれる時は、そういう女房の裏切りが一番多いらしいんだ。とにかくこういう時に一番怖いのは信頼できる人間に裏切られることだ。用心するに越したことは無い」


 確かに。桜子さんの時の事もあるし。身近な人の裏切りが一番怖いのは確かだわ。


「今は俺の心配より、自分とお方様の心配をした方がいい。俺はいい仲間に恵まれているから、大丈夫だよ。安心してくれ」


 これは、半分は本当の事で、半分は私を安心させようとして言っている言葉なのだろう。康行のそういうところが私はなんとなくわかるようになって来ていた。でも、きっと私達は大丈夫だ。お互いが相手に何かがあった時、どれだけ苦しい思いをするのかを知っているから、決して無茶はしない。私だっていつまでもやんちゃ者じゃないわ。




 御所の内で火事があったという知らせを聞いたのは、康行と話をしたほんの数日後の事だった。出火したのはあの梅坪で、火の気のないところから火が出た不審火だと言う。


 幸い人的な被害は無かったが、梅坪の半分ほどが被害を受けてしまい、そこに住まわれていた更衣様はどこかほかのお邸に仮住まいされなければならなくなった。

 

 本来なら御実家に戻られるべきところだが、更衣様のお父様が勢力的に厳しいお立場にあるため、更衣様の御勤めにそのお力をすべて注がれてしまっていたので、お邸はかなり貧窮しておられた。この春にも急なお里下がりされたばかりで、こう立て続けに更衣様をお迎えできる状況ではない。


 他に外威もなく、院に狙われている私の叔母を召し使っている事などもあり、他の邸に仮住まいを申し出てもどこも良い返事は無い。更衣様のお立場は御所でも苦しいものだが、御所の外に出て主上の木陰を頼りにできなくなると、一層厳しい物になってしまう。


 そこに御声をかけて下さったのはお方様だった。だが、お方様自身も院に狙われている身。大将様は勿論、御父上の中納言様も大反対なさったのだが、


「更衣様は私の使っている花房が大変お世話になった方。どうしても見捨ててはおけません。それにこの邸が受け入れるならばもったいなくも、主上から警護の方々を直々にお遣わし下さるとおっしゃって下さっています。むしろこの邸の警護を固める良い折ではありませんか。主上の御信頼を得ることもできます。梅坪の修理が終わるまでは殿も気の張る日々を送らねばなりませんし、こちらの守りが固められる事は良いことなのではありませんか?」


 そうおっしゃって、中納言様を納得させてしまわれた。


 私は康行が言っていた、


「新参者には注意しろ」


「御所の人間に気を付けろ」


 という言葉が引っ掛っていて不安も憶えてはいたのだが、私がお世話になった更衣様がお困りのところをお方様が助けて下さっているので、とてもお方様をお止する訳にはいかなかった。


 仕方が無いのでやすらぎにだけ、こっそりとその辺の話を伝えておく。やすらぎも殿の従者で夫の忠長様に伝えてくれたから、忠長様も殿に進言して下さったはずだ。


「殿に御心配事を増やしてしまったわね」


 私は申し訳なく思っていたが、


「大丈夫よ。忠長の事だからその辺は上手く伝えてくれたでしょう。こちらの警護ももともと固いのだし、使わして下さる方々の人選さえ気を配っていただければいいのだから。むしろ殿も御自分で選ばれた方を遣わせるのだから御安心でしょう」


 と、やすらぎは言ってくれた。


 ところが使いにやってきた忠長様が、お方様には内緒で私達に耳打ちされる。


「殿は今度お遣わしになる役人の正成に気をつけるようにとおっしゃるんだ」


「気をつける? そんな、殿が御信用できない方をこちらに遣わすなんて」


 やすらぎはひそひそと信じられないと言った声を出す。


「いや、そんな事は無いんだ。正成は真面目実直で殿は勿論、お方様の事もとても尊敬している。誰が見てもお方様をお守りするには一番の適任だと思うんだが、何故か殿はあまりいいお顔をなさらないんだ。彼の熱心さは御認めになっているから彼を遣わしたと思うのに、何故なのか俺にも分からない。でも、殿なりに訳があるのかもしれないし」


「信用できるけど、気を付けろっておっしゃるの? 変な話ねえ」


 やすらぎは首をひねるが、私は康行の言葉を思い出していた。


「怖いのは信頼できる人間に、裏切られることだ……」





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