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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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目標

 それにしても嵯峨野の院様の御恨みの根深いこと。これほどの時が経ち都の人々に恐れられ、御自身が仏門に入られてもその恨みは直接お立場を追い落とされた中納言様だけにとどまらず、娘のお方様や、行動をお諌めした私の祖父やその娘の叔母、果ては孫の私にまで至ってらっしゃる。仏の慈悲もこの方には届く事が無かったのだろうか?


 いやいや、それどころじゃない。末代の私にまで恨みを持たれる方だから、もっとお恨みになってらっしゃる方がいる。


 恐ろしいことだけど、院が本当に御恨みになっているのはおそらく今上の帝に違いない。


 院は安心できる後ろ盾もないまま帝に立たれたのに誰を信じて良いのかも分からず、孤独の中でやっと手になさったであろう心安らげる方を亡くされ、ついには中納言様達の策略に乗せられてその地位を東宮に譲られた。


 それに比べて今上はごくごく幼い時に帝におなりになったので、御母上である元の中宮様、今の大后様に守られ、御政務も心強い大納言様や中納言様のお力のもと良い卿や学者たちを集められて、御成人後も順調に滞りなく務められている。


 後宮においても中宮様との御仲も何ら問題は無く、女御様、更衣様ともそれぞれ御立場を難しくすること無く(梅坪の更衣様みたいに我慢してらっしゃる方もいるだろうけど)、次の東宮もお生まれになってその御世はしばらく盤石なように見える。


 院が帝でいらっしゃった時とは何と言う違いだろう。そりゃ、恨みもあるだろうし、妬みもするわ。ついにはその帝に幽閉同然の身にされて仏門に入るしか無くなっていたんだから。


 帝も今までは御身内の方の事だからと甘いと言われるほどに院の事には目をつむっておられたけど、あの行列襲撃にいたっては役人たちまで悪事に加担させて、都人に帝の信頼を揺るがせようとなさった。ここまで来るとさすがに帝も黙ってはいられなかったんだろう。


 帝のとった処置は当然の事だ。そうでなくては都の治安は守られない。


 でもこれで、院にとっては唯一自分の行動を許し続けてくれた人を失った。自業自得ではあるけれど院の様な御気性の激しい方にこれは堪えたんじゃないかしら?



 そんな事を考えたのは何も私ばかりではない。当然帝をお守りする役人たちだってそう考える。そして、殿もそうお考えになった。当然だ。殿、大将様は帝を直接お守りするのが一番の御役目なんだから。


 だから殿は帝をお守りする陣頭指揮を取らなくてはならない。今までの経緯から考えればお方様の身だって十分に危ないのだけれど、御自分の役目を後に回して妻を守る様な訳にもいかないのだろう。


 私が京に入った日は私達が何も知らなかった事を考慮して出迎えて下さったが、その後はずっと御所での宿直が続いている。それも仕方が無い。あの、院の恨みのこもった文は御所の奥深く後宮にまで届いたのだから。


 それも不自然とは言えない。院は幼い時から後宮でお育ちになったのだ。後宮の事は誰よりもよく知っている。



 都では院は恐ろしい人のように言われているが、後宮の中では今でも院に御同情を傾ける人も少なくないと言う。幼い頃の院は利発で何でも素直に応じる事が出来る、可愛らしいお子様だったそうだ。御心が純粋な方だったらしい。それだけに周りの大人に振り回され傷ついていかれるお姿は、院をよく知る女房達には見ていていたたまれない程だったと言う。

 

 そんな姿を見ながらも後宮勢力の流れに逆らえなかった方々は、今でも院にこっそりと御同情しているらしい。院は意外に御所の中にお味方を持っているようなのだ。


 そして私の叔母が仕えているのは御立場の弱い更衣様。更衣様は帝の御寵愛が多いとは言えないものの、お気に入りな方とされている。それは何かと後宮内の嫉妬を呼びがちだ。


 そういう更衣様に仕える叔母にああいった文を忍ばせるのに躊躇をしない人も中にはいるかもしれない。後宮の中は外からはうかがい知れないものがあるようだし。


 そうなると殿が躍起になって帝の警護に取り組むのも当然のこと。御所の内にどんな内通者がいるとも分からない。特に殿は帝の事を臣下としての敬意だけではなく、幼い頃から親しまれた、御親友の様なお気持ちも持っていらっしゃる。お方様の心配はしていても、やはり主上の安全が何より大事になってしまう。


 そんな殿のお心を想うと私も精いっぱいお方様をお守りしたいと思う。本当なら殿がおられなくて一番不安なのはお方様だと思うのに、殿の御無事も日々願っておられると思うのに、お方様が御自分の思いよりも私を心配して出迎えて下さった気持ちを考えると、その思いは一層強く湧き上がる。


 だって私はこの方を守り、この方の思いを琴の音に乗せて多くの方に知って頂くために、ここに戻って来たのだから。



 でも、お方様の住むこのお邸は、そんな緊張感や暗さとは遠い世界が繰り広げられていた。


 私のいない間にこの邸は都人の注目の的になっていた。お方様が院に狙われた事があるからではない。お方様が御自分で作られたこの邸の持つ華やかさ、楽しさ、魅力を誰もが認めたからだった。


 お方様にはお父様の中納言様の後ろ盾があるし、近衛の大将である殿の御協力もある。何を手に入れるにしろ、財力も人脈にも困る事は無い。


 でも、それだけでは人々が認めない事は誰もが知っている。どんなに物をかき集めてもかえって眉をひそめられる方々だっていっぱいいる。けれどお方様が作った世界はそういうものではなくて、このお邸にいればどんな素晴らしい事が起こるか? どんな良い物が生まれて来るか? と、明るい期待を持つ事が出来る世界をこの邸にもたらしたのだ。


 私はすっかり感心してしまい、お方様にその感動を懸命にお伝えした。


「あなたはきっと褒めてくれると思ったの。あなたならこういう雰囲気の良さを分かってくれると思ったのよ。花房がいない時だからこそ、私はあなたが帰った時に琴を弾くに値する世界を作っておきたかったの。明るく、楽しく、豊かな世界。この邸で生まれた物に誰もがほほ笑んでくれるような世界を」


 そうおっしゃるお方様は僅かの間にずっと大人びていて、私には眩しいくらいだった。よほど素晴らしい事があったのかとお方様に尋ねたが、お方様はほほ笑まれるだけで教えてはくれない。


 私がいない間の事情を知ったのは、後からやすらぎと二人で話をした時だった。



「殿もしょうがないわね。いつも素晴らしい女人に囲まれてばかりおいでだから、お方様の素晴らしさが分からなくなったのかしら?」


 私はつい、不満が先に出たが、


「そんな事は無いわ。少し他の方に目移りしてしまわれただけよ。でも、その事でお方様の素晴らしさが一層引き立ったのは間違いないわ。こういう時ってどうしても御心がみだれて、邸の雰囲気もとげとげしくなってしまうものだから男君も余計に戻りにくくなったり、周りから同情や皮肉な目で見られたりして難しくなる事が多いのよ。なのにお方様は邸の雰囲気を一層賑やかで華々しい物に変えられてしまった。誰もが憧れるような世界を御作りになってしまわれた。これはとても凄いことなのよ」

 

 そうだろうな。一番つらく苦しい時に、人が憧れるような世界を作る。こんなこと誰にでもできる事じゃないだろう。


「私達もそれで身が引き締まったの。私達がお仕えしている方は普通の方じゃないわ。本当に豊かな感性をお心に宿していらっしゃるの。殿は今ではお方様の事を『初花の上』とお呼びになっているわ。春の一番最初に誰もが待ち焦がれる、すべての人の心を和ませる白梅の様な方でいらっしゃるから」


 成程。殿は私の事も『藤花』と呼んで下さったっけ。これは親しみだけではなく、誰かを御認めになった時の殿の癖みたいなものかもしれない。


 お方様は何があってもどんなに立場が低い者にも、決して咎めたり、詰め寄ったり、御怒りをあらわになさったりはしない。悲しい事があっても、それをどんな身分の者でも当たられたりなんかしない方だ。それが邸に閉じ込められた生涯を送らねばならない女人にとって、簡単そうに見えてどれほど難しい事か殿も気がつかれたのだろう。そんな御方様に御愛情とは別に尊敬の念をお持ちになったのかもしれない。


 私にとって殿がいい寄って来られた日の事は、もう遠い昔のようになってしまっている。殿に対して尊敬と感謝の気持ちは今でも変わらないけれど、自分の中の何かが大きく変わったのだとこんな時に感じてしまう。同じようにお方様も短い間に何かが大きく変わられたに違いない。


 私は以前都にいる事に寂しさを感じていた。自分だけが取り残されたような気持になった事があった。


 でも今はそれを感じない。私はもう守られるだけの存在ではなくなったからだと思う。自分で自分の誇りを守り、大切な誰かを守る。それを支え合ってくれる人がいる。そういう事が分かった今は、孤独や不安におびえる必要が無くなったのだ。私達はこの素晴らしいお方様を守る事が出来る。その喜びだけで私は都で生きていける。何よりも大切な目標がここにある。



 でも、康行にとっては都の事情が変わっていた事は少なからず厄介な事だったようだ。


 侍を続けることを辞めた康行は、殿の馬達を自分の知恵と経験で素晴らしい名馬にして差し上げる事を新たな目標にしていた。殿の御信頼を得る事で私の事も守って頂けるように、どんな名馬にも負けないほどの馬に育てようと思っていた。


 ところが院の不穏な動きが明らかになってしまい、大将様は御所の御勤めに忙しくなってしまった。厩にいる康行は御簾の内にいる私達の様子を知ることが出来なくなってしまったのだ。


 康行は不安にかられたらしい。ある日私が縁に出るとそこに康行がいた。しかもその姿は腰に太刀を差した、侍の姿だった。






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