表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
51/66

初花

 大将は堀河殿に馬を用意してもらうと、車や共達に目もくれずに一目散に自分の邸へと向かった。忠長は一緒に用意してもらった馬で、懸命に主人の後を追った。


 北の方はまだ幼く頼りない心と身体で懸命に私に導かれようと、心をつないで下さっていた。


 早くに親元からも離されて、私について行くので精いっぱいだったはずなのにいつも微笑んで下さった。


 それなのに私の浮ついた心に振り回され、突然つないだ心を振りほどかれてどれほどの不安にかられたことだろう? どれほどの涙で袖を濡らしたことだろう?


 夜の都路を暑い折と言う事もあって大将は汗まみれになりながら必死で馬で駆け抜けた。暗い中だと言うのに速度を落とそうなどとはつゆほどにも思わず、まるで転がりこむように自分の邸の中に飛び込んだ。


 馬を下りると庭を全力で駆け抜け、誰もが声をかける間もないままに北の方のいる奥の寝所へと急ぐ。女房達は驚き動けず、北の方のお相手をする女童(めのわらわと言う幼い少女たちが慌てて飛び退いて行った。


 そして北の方の御姿を見るや否や、驚く北の方にかまいもせずに駆け寄り、抱きしめる。


「すまなかった! 辛かったであろう……」


 それだけ言うのが精いっぱいだった。早春に誰の心をも和ませる初花の心を持った方、「初花の上」は、果して自分を許して下さるだろうか。


 しばらくは驚きで声も出せずにいた北の方は、ようやく心落ち着かれると大将の胸の中で、


「お帰りなさいませ」と言った。


 そして顔を上げると笑顔でこう言った。


「殿は良い時に戻られましたわ。今宵は私から嬉しい知らせがあるのです」


「嬉しい知らせ?」


「ええ、花房が都に戻るそうです。野分のわきの季節が過ぎたら郷里を立つそうでございます」





 お父様に許された私と康行は、毎日邸に通って来る康行と楽しい時間を過ごしていた。


 けれども都の事は気がかりで、風の噂でも届きはしないかと気をもんでいた。


 だけどやっぱり都は遠くてなかなか武蔵の国にまでその噂は届かない。私は康行の櫛に願いを込めて相変わらず髪をくしけずる日々を送っていた。


 髪が伸びるまで、まだどれほどの時間がかかるのだろうとじれていると、ある日お義母様がこちらにいらっしゃいとおしゃった。


 行ってみるとお母様は蒔絵を施した箱の中から、見事なかもじを取り出してみせた。


「人に頼んでおいたかもじがようやく届きました。あなたの髪の色とあっていればいいのですけど」


 そう言って私にかもじをあてがって見る。


「良かったわ。大丈夫なようね。あなたの髪も少しは伸びて背に広がらなくなってきたことだし、これなら北の方様の御前に出ても大丈夫でしょう。でも、あまり激しく頭を揺らしたりはなさらないように。髪の中でダマになったり、取れてしまわないとも限らないから」


「あの、お義母様。お義母様は私を都にやるのが御嫌だったんじゃないですか? 恐ろしい目にあわされるからって」


「そうね。今だって心配よ。出来ればこのままあなたをここに置いておきたいわ。でも、それはあなたにはつらい事になってしまうのでしょう? あなたには都人の血が受け継がれているのだから。お父様がお苦しみを越えてお許しになった以上、私もあなたをお止するつもりはありませんよ」


「お義母様。お父様と私のお母様の事、御存じだったの?」


 私は驚いた。


「いいえ。お父様からは何も聞いてはいません。でも、あなたのお母様は御身分のあった方。何があったかは知らなくてもお父様があなたのお母様と結ばれるには大変な御苦労があっただろうことは見当がつきます。そして生まれ、お育てしたあなたをそれでも都に行かせる事を許された。どんなにご心配でもそうする必要があるとお父様は考えられたのでしょう。きっとお父様は都であなたのお母様とお幸せにしておられたのだわ。たとえどんな御苦労があったとしてもね」


「お義母様、悲しくはありませんか? お父様が私のお母様をとても慕っていたと知って」


 お義母様は首を横に振った。


「そんな事はありませんよ。若い日にお父様がお幸せだったことは私にとっても嬉しい事です。何より私は今、お父様の傍にいられるのですから」


「お義母様、お父様をこれからもよろしくね」


 お義母様はお父様を想って下さっている。私の事も心から心配してくれている。何より私をここまで育てて下さったのはお義母様だ。


「ええ、大丈夫ですよ。お父様の事は私に任せてちょうだい。私とお父様もここであなたを遠くからだけれど見守っていますからね」


「お義母様、ありがとう。このかもじ、髪が伸びた後も大切にします」


「いいのよ。心配せずに都で頑張りなさい。そして何かあったら文でも書きなさい。子供のいない私にとって、血は繋がらなくてもあなたはたった一人の娘なのだから」


「私も、お義母様の娘でいられて幸せです」


 そう言っておかずにはいられなかった。そしてこの言葉をお義母様に伝えられただけでも、帰ってきて良かったと思った。


「娘って、すぐに大きくなって大人になってしまうのねえ」


 お義母様はそういいながら私の頭を幼子のようになでて下さった。




 お義母様のかもじもあって、私はすぐにでも都へ旅立ちたかったのだが、康行が言うには、


「いや、今は季節が悪い。ちょうどこれから野分(台風)の季節になる。野分は陸でもひどい嵐になって木々を倒したり川の水をあふれさせたりするが、海ではもっとひどい嵐になるんだ。女人のお前が都まで旅をするには、海を船で渡る必要がある。女の足に都は遠すぎるんだ。草枕の旅と言うわけにもいかないし何があるとも分からない。せめて嵐の季節が過ぎるのを待たなくてはいけない」


 と、言う事なのだそうだ。


「せっかくお義母様からかもじをいただいたのに」


「そう不満を言うな。もともと俺達はお前の髪が伸びるまではここにいるつもりだったんだ。俺もこの春に生まれた仔馬たちの成長を見る事が出来る。焦る事は無い。せっかくだからゆっくり待とうじゃないか」


 康行はそういいながら笑っている。それは私を説得するほかに、


「せっかく二人で楽しく過ごせる時間が出来たんだ。慌てる事は無いじゃないか」


 と言う意味もこもっているようだった。


「そうね、焦る事もないわよね」


 私もそう答える。私だってようやく許された康行との時間は、楽しくってしょうがなかったんだもの。




 

 その頃、都の嵯峨野では前の帝がついに仏門にお入りになり、人々からは嵯峨野の院と呼ばれるようになっていらした。


 院はしばらくは嵯峨野の邸で身辺の整理をしながら仏道に励んでいらっしゃるが、時期に奥の山寺に御入門する事になっていて、邸には連日のように山寺からのお使者が来るようになっていた。


 幽閉状態の身とはいえ、元は帝でいらした方が山寺へ仏道修行に入られるのだ。あちこちからお別れのお文が届いたり、お別れを惜しんでの訪問客があったりと最近は邸もにぎやかに、あわただしい様子が続いていた。

 

 警備の者の監視も厳しいものがあったのだが、こういう時なので高貴な方の御訪問などには柔軟に対応をしていたようだ。院におなりになるにはまだ少しお若い方だけに、この御入門を憐れむ方々も多かった。



 そして季節は秋になり、激しい野分の季節になった。特に都から奥まった嵯峨野などでは雨も風も恐ろしいばかりに吹きすさび、風がうなりを上げ、川の水は濁り、建物がギシギシと嫌な音を立てるほどだった。


 院の邸でも警護の者までが戸締りや、邸の物が壊れないようにと対応に追われ、誰もが野分に振り回されていた。


 野分は一晩中荒れ、ようやく明け方近くに風も雨もおさまって来て、明るくなるとあちこちで木が倒れたり、物が飛ばされた後がある様子が見て取れた。


 そんな中で警護の物が血相を変えて他の役人に叫んでいた。


「院が! 院の姿がお見えになりません! 院が御身を隠してしまわれました!」


 野分の後片付けに追われていた役人たちは、皆、驚き慌てて院の御姿を探し求めていた。






帰郷編はここまでです。次回からは最終編、再びの京編です。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ