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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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男心

 しばらくしてやすらぎはようやく北の方様のお文をいただいてきた。気の向かないお方様から半ば強引に書いていただいたのだと言う。


「ほんの一言しか書かれていないけれど、これ以上はとてもお書きになれないそうなの。無理に書いていただいたんだから仕方ないけど」


「あの夜のことなら何でもいいのさ。若殿に思い出していただければいいんだ。若殿はお方様の事をとてもお若い可愛らしい方だと聞いていた。そんなにお若い姫にお会いになったことがなかったから本当にあの日を楽しみにしておられた。あの日の事は若殿にとってもいい思い出になっているはずなんだ。心弾みをお持ちになっておられたのを俺もおそばで見ていたんだから」


「その時の気持ちを思い出していただこうって事なのね?」


「そうさ。若殿だってお方様が御嫌になった訳じゃない。決して御愛情が冷めたとか、ご不満があったりする訳じゃないんだ。ただ、お好みに合った訳ありの美女を手に入れられて、その方の気を引いてみたくて仕方が無くなっているんだ。御本人は本気の恋のおつもりだろうけど、慈しまれるお気持ちはどこまでお持ちなのか俺にはあやしく見える。どっちかって言えば振り回される楽しさに酔ってしまわれているようにも見えるんだ。だから堀河の姫も本当には若殿にお心を開けない。このままではあのお二人は御不幸な事になってしまうだろう。御夫婦としてはまだまだこれからなんだから、若殿の熱に流されていてはいけないんだ」


「いやに若殿のお気持ちが分かるのね? 乳兄弟にしても」


「乳兄弟だからじゃないさ。男心はそういうものだよ。愛情とは別に魅力のある者には惹かれてしまう。どちらが深い、浅いということではなくて、どちらにも同じように想いを寄せるんだ。ただ、その時により強く惹かれた方にのぼせがちにもなってしまうんだ」


「忠長も他の方に惹かれるの?」


 やすらぎはおもしろくなさそうに聞く。


「惹かれないとは言わない。だが、慈しむ心は別だ。そういう心はすぐに湧いて出るもんじゃない。お互いのいい所、そうでないところが分かって来て、いい所は愛おしく、そうでないところは自分が助けてやりたいと思う事でだんだん生まれ出て来るものなんだ」


「忠長に都合のいいようにも聞こえるけど」


「だから男心なんだって。どんな高貴な方だって男心は一緒だよ。若殿は人気があるから惹かれた方に慕われることに慣れてしまっている。相手が慕ってくれる心に甘える事が出来るから恋にも練れていると思い込まれている。でも、今度はすぐに慕ってもらえなかったから戸惑う御心が本気の恋だと思わせてしまった」


「だから堀河の姫様にのぼせてしまわれたのね」


「だけどお互いの事なんてまだ何にも分かっていないし、その間のお方様のお苦しみさえも見えなくなってしまわれているんだ」


 やすらぎもここまで聞いていると忠長を攻める気持ちは無くなっている。


「男心って、我がままなものなのねえ」


 やすらぎはあきれた声を出した。


「そうだな。だが若殿は本当はお心の優しい方だ。冷静になられれば堀河の姫のお心が和らぐのを待つこともできる。思いやりのある態度もとられるようになるだろう。それにあれほど大切になさっていた北の方様のお苦しみを知れば、御自分がどれほどお方様を慈しまれているかにも気が付かれるはずだ。我がままなのは男心であって、若殿御自身ではないんだから」


「何だか、自分もそうだと言いたそうね。でもいいわ。殿がお方様を大切に想う御心は私も知っているし、忠長だって殿の事で他の方にのぼせたりしたら、女人がどれほど苦しむのか良く分かったでしょうし」


「俺はやすらぎを苦しめるようなことはしないよ」


 本当かしら? やすらぎも話の流れから忠長の言葉をすんなりとは信じきれない思いもあるが、今のところは本気で言っているはずだと思うとその言葉はやはり嬉しかった。


「とにかく、このお文でなんとか殿の目を覚まさせて。忠長、責任重大よ」


「任せておけ。これでも若殿の乳兄弟だ。自分の夫を信用してくれ」


 忠長はやすらぎにいい所を見せられると、胸を張っている。そんな姿が可愛らしいとやすらぎも自分の夫をほほえましく見ていた。



 今日も大将は堀河の邸に向かっていた。その心の中はどうしたらあの姫の心を本当に自分に向けられるかでいっぱいになっている。陽が落ちても昼間の暑さの名残が残り、吹く風さえも生温かさを残していて身じろぎするのもつらいのだが、それでも大将の足を留めることはできない。何より心はいつも堀河に残したままの様な日々が続いているのだ。


 邸に着くと忠長は上の空のまま車を降りる大将に声をかけた。


「若殿、お方様からのお文でございます」


「北の方の? 珍しいな。分かった、後で読もう」


 大将は文にちらりと目をやっただけですぐに懐に入れようとした。


「それから、これもお持ちいただけますか? 中納言家の松の葉でございます」


「松の葉?」


「思い出しませんか? 初めての御挨拶の時の事を」


「いや、思い出話なら後で聞く。今は早く姫に会いたいのだ」


 そう言って文と共に松の葉を懐にねじ込むと、一時も待てぬように姫の元へと向かう。


 すぐには思い出してはもらえなかったか。いいや、きっと思い出していただける。慌てずにしばらく待ってみよう。


 忠長も本当は気が気ではなかったのだが、主人を信じる気持ちを揺るがせてはならぬと、自分に言い聞かせて大将に着き従っていた。


 今の大将には姫の事しか見えていなかった。姫の顔を見ると真っ先に姫の近くに寄って、早く会いたかった。時の立つのが長くて気が遠くなりそうだったと、想いを熱く語っている。


 姫は黙って大将を優しく見つめてはいるが、お言葉は無い。そのしぐさも恋しい方を労わると言うよりは、まるで幼子をあやすかのようにも見えた。


「どうしたら私の心を本当に分かって頂けるのか」


 大将は悔しそうに言う。


「大将様のお心は、私にも良く届いておりますわ」


 姫はそういうが、


「いいや、まだ分かっていただいてはいない。だからいまだにお心を開いていただけていないのだ。私の心をこの身を刻んでお見せする事が出来ればいいのに」


 大将はのぼせ気味にそう言っていた。その時。


 大将の懐から北の方の文が落ち、松の葉が散らばった。


「まあ、これは……。北の方様からのお文なのではありませんか?」


 そう言われて大将は慌てて文を手に取る。だが、姫は散った松の葉を手にとった。


「大将様も罪な方ですのね。私にはこの松の葉が北の方様のお涙に見えますわ」


 姫はそう言ってため息を突かれた。大将はしかたなしに手の中の文をようやく開く。そこには、


「咲き初めぬ初花」とだけ書かれていた。



 松の葉。初花もまだ咲き初めぬ冷やかな夜。中納言家の松の葉。夏の夜にもかかわらず、大将の心に早春の記憶がよみがえった。


 そして次々と北の方との日々が思い出される。命懸けで花房と入れ替わり、脅えながら大納言家の寝所に車から降り立った幼い顔をした姫。その可憐さに目を見張ったこと。


 花房を妻にしたいと言った時、まだその意味も良く分かり切ってはいなかったであろうに、戸惑いながらも、「それが、花房と大将様のお幸せになるのなら」と、ほほ笑んでくれたこと。


 花房の才を見抜いて、「こういう方を私たちは守らなくてはいけませんね」


 と凛とした態度で言った事。


 自分をいつもくつろがせたおっとりとした優しさ。明るく可憐な笑顔。まだ決して長い月日ではないが、二人でつなぎ合って来た心……。


 大将は突然、立ちあがった。


「申し訳ない。私はあなたに甘え過ぎていた。懸命に受け入れようとして下さるお心に頼ってしまった。だが、私は本当に自分の心をお伝えするべき方をおろそかにしてしまった。こんな私の心ではあなたが受け入れられないのは当然だ。何故、今まで気がつかなかったのだろう?」


 姫は静かにほほ笑まれた。


「よろしいのです。ようやくあなたは御自分を取り戻されたのでしょう。早くお帰りあそばして。またしばらくしたらこちらにもお寄りください。それまでには私も心をもっと和らげておきますから」


「ありがとう」


 大将はそういうと、「馬を! 急ぎ馬を用意してくれ!」と叫ばれた。





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