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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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松の葉

 堀河の姫は大将を受け入れた。心以外は。


 三日夜も無事に済ませ、これで姫は正式に妻となってくれた。


 だが、その姫の心が固く閉ざされている事は明らかだった。決して冷たい態度を取られた訳でも、辛い言葉を言われた訳でもない。それどころか大将の顔を潰す事のないように、女房達の前では明るく、朗らかにさえ笑って見せていた。


 才あふれ、心優しい姫君。だが、その一番美しい心を私に開く事は無い。


 どうすれば私に心を開いてもらえるのだろう? どうすれば前の夫を超える事が出来るのだろう? 大将は一層堀河の姫にのめり込んでしまった。


 それまでは時折には帰っていた自分の邸に寄りつく事さえなくなってきた。従者の忠長が何を言ってもまったく耳に入らない。周りが皆心配してもどうする事も出来なかった。


 姫の方でも「私も、北の方様も困りますから」と言って来るが、姫にそう言われると大将は余計に切なさが増すようで、姫への情が強くなってしまう。


 姫方では大将を拒むようなことはできないし、たとえ理由をつけて拒んだとしても、今の大将では気持ちを抑える事が出来るようには思えなかった。



 そんな日々の中、北の方は暗い気持ちを紛らわせようとでもするかのように、毎日を琴や、物語や、巻物の絵や、碁、すごろく、言葉遊びを女房達と繰り広げ、華やかに、賑々しく過ごしておられた。


 絵巻物や物語は広く東西から集められ、女房達と感想を述べ合ったり、批評したり解釈を加えたりして活発にやり取りされながらお楽しみになった。そんな中即興で物語が語られたり、歌が出来たり、それに合わせた曲が奏でられたりする。新しい趣向が日々試みられ、後宮の流行にも劣らぬほどの文化の花が咲出した。


「こんなに楽しい遊び事をたくさん御用意しているのに、殿は御損ね」


 北の方はそんなことをおっしゃって、ほほ笑んでいらっしゃった。


 女主がこのように明るく御振舞いなのである、やすらぎ達が沈んだ顔などする訳にはいかない。邸の中はいつも以上に華やぎあふれ、都人の評判になるほどだった。


 だが、そんなある日。北の方はいつものように琴を弾いていた。が、ちょっとした指先の引っ掛かりで演奏が途絶えた。北の方は続きを奏でようとしたのだが……。


 指が思うように動かなくなった。指先が震え、嗚咽を漏らすと熱い涙が突然琴の上に落ちていった。


 皆、突然の事に声をかける事も出来ない。北の方はしばらく静かにお涙を流されていた。


「お方様……」


 ようやく乳母が声をかけると、


「大事な花房の琴を汚してしまうわ。誰か他の方が弾いてちょうだい。なるべく明るい曲がいいわ」


 そう言われて近くの女房が琴を奏でる。乳母は北の方にお声をかけた。


「お方様。難しくお考えにならないで、殿にお文でもお書きになったらいかがでしょう?」


「……今の殿では、お読みになって頂けないわ。きっと」


 北の方は悲しげにほほ笑まれる。


「でしたら、御歌を差し上げてはいかがでしょう? やはりお心をお伝えする事は大切だと思います」


 やすらぎもそう言ったのだが、


「今の殿にはどんな御歌も心に響かないわ。私も悪いの。もっと早くに殿と良くお話をしておけばよかった」


 そう言って小さくため息を突かれる。


「花房なら、私の心を琴の音で、殿に伝えてくれたかしら……?」


 北の方は目をぼんやりとさせながらおっしゃった。


 ああ、本当に、こんな時こそ花房が必要なのに。お方様の傍に、いてほしかったのに。


 やすらぎは心からそう思ってしまう。



 やすらぎは宿下がりの夜に忠長に喰ってかかった。


「本当に、殿はどうしてしまったと言うの? ほとんど邸に帰らなくなって、たまさかお帰りになってもお方様の顔すら見ようとなさらないじゃないの。都人も噂を始めているわ。近衛の大将様はうつけたように堀河の姫の邸に通っているって」


「分かってるよ。俺たちだって困っているんだ。このままじゃ絶対に若殿には良くない。堀河の姫だって、身もわきまえず若殿を捕まえて離さずにいるはしたない女人だなんて噂されて、若殿は一層ムキになっているし。元はと言えば若殿のせいなのに全然聞く耳を持ってくれないんだ。こんなことは今まで無かったのに。とうとう帝までご心配なさっているらしい」


「まあ、帝まで」


「このままじゃ誰も幸せになれない。良かれとしたご結婚でみんなが困ったことになるなんて帝もお顔が立たないじゃないか。でも、どうしたら若殿ののぼせた頭を覚まさせる事が出来るのか、皆目見当がつかないんだ」


「忠長でさえ、そうなの? 乳兄弟のあなたぐらいしか今の殿に耳を傾けさせることはできないと思うのに」

 

 やすらぎも困り顔だ。


「じゃなきゃ、北の方様にお諌めしてもらうしかない。大納言様に言っていただいてもこういう事は親が口を出すほど上手くいかなくなる。なのにそのお方様を若殿は避けていらっしゃる。なんとかお方様のお心を若殿に伝える方法は無いものだろうか?」


「分かったわ。それなら無理にでも私、お方様にお文でも御歌でも書いていただくわ。忠長もなんとかしてそれを殿にお見せしてちょうだい。それしか方法が無いんだから」


「分かった。やってみる。お文をいただいたら俺に渡してくれ。どうにかして若殿に読んでもらうから」


 自信は無いがこのまま手をこまねいていても仕方がない。二人は出来るだけの事をしてみる事にした。



 ある日、忠長は大将に中納言家への使いを頼まれた。公務上のことらしいのだが大将は中納言家に顔を出しにくいらしく、文をしたためると忠長に中納言様に届けるように行った。


 忠長としては中納言様に直接お諌めしてもらえる機会だと思っていたのだが、若殿はどうあっても自分で中納言家に出向くつもりはないらしい。おそらく自分も中納言様に八つ当たりされるのだろうが、これも従者の役目。仕方なく中納言家に出向いて行く。


 うだるような暑さの中重い足取りで行ってみるとご機嫌の悪い中納言様から散々小言と嫌みを言われ、うんざりしながらうつむき加減で帰ろうとする。


 その時足元に落ちている松の葉が目にとまった。忠長の記憶が、早春の日に戻って行く。


 あれは北の方様へ、ご結婚前の初めての挨拶に出向いた時の事だった。寝所に向かう渡殿を歩いていると、足元に松の葉が散っていた。近くの松から落ちた物らしい。


 忠長が何気なく払い落そうとすると、


「その松の葉を、ひとつ拾ってくれ」と若殿に言われた。


「どうなさるのです?」


「いや、何故かとっておきたくなった。この松の葉はおそらくこれから訪ねる姫が私を想って下さるから、葉もここで待っていてくれたのだろう。聞けば愛らしい、優しい姫だと言うではないか。きっとこれは姫のお心に違いない」


 そう言って大切そうにその葉を懐におしまいになったのだ。


 そう、あの日は自分も初めてやすらぎの声を聞いた日だった。


(春とは言え、いまだ梅も咲き初めぬような冷やかな夜に、わざわざ足をお運びくださり、ありがとうございます……)


 あの日はまだまだ寒い、正月明けの頃だった。誰もが一日も早い初花を待ち望んでいる時だった。その中で聞いたやすらぎの可愛らしい声。自分には忘れられない思い出だ。


 もしかしたら、若殿もあの日のことは覚えておいでなんじゃないだろうか?


 忠長はやすらぎの元に飛んでいった。


「やすらぎ! お方様にお願いする文、中納言家に初めて若殿がご挨拶に行った時の事を書いてもらってくれ」


「初めての御挨拶?」


「いい考えが浮かんだんだ。ひょっとしたら若殿も思い出してくれるかもしれない」

 





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