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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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返し歌

作中の和歌は私(作者)のオリジナルです。王朝和歌として正しいかどうかも分かりませんが、話の流れに合わせて作っています。間違いやおかしな部分があれば、お詫びするとともに御指摘を頂けたら大変助かります。短歌を作ったりする趣味は、残念ながら無いもので。

 大将は堀河の姫との痛烈な対面の後、少し遅れて歌を贈った。


 歌詠みとして名の知れた自分が、歌も残さずに堀河邸を後にしたのはかなり癪の種だ。だが、すぐに追いかけるように歌を贈るのもかえってみっともない。ちょうど七夕の頃なのでそれにあわせて情緒豊かな歌を贈ろうかとも思ったのだが、正妻を邸に置く自分が、身分が下の女人に年に一度の逢瀬の伝説を伝える七夕の歌を贈るのは皮肉になってしまう事に気がついた。


 結局七夕もすぎて、結婚間近になってからようやく歌を贈る事が出来た。


 あのような大胆な態度をとった姫である。果してどんな返事が来るのか。いや、そもそもまともに返事が来るのかどうかも分からなかった。


 いくら姫の身分が高くないと言っても最低限の教養は修められていることは間違いない。あのはきはきとした物言い、強いほどの矜持。こういったものはある程度の自信が無ければ表れるものではないだろう。


 それだけに身分の高い自分に下手に自信を傷つけられることを恐れて、ロクな返事もこないかもしれない。来ても、通り一遍のありがちな言葉程度の物かもしれない。


 それに女人の教養は官職に関わる男の教養とは違い、男女の情や友情と言った交友を深めるためにある。ただ、知識があればよいというものではない。持っている知識を上手く活かした感性や社交性が問われるのだ。それには位の高い貴人との交流に慣れがあった方がやはり有利。姫の父の身分ではそこは難しい物があるだろう。


 そう言った事からあの姫が、自らを守るためにまともな返事をよこさない可能性は大いにあると思っていた。だから届いた返事が簡素に折りたたまれた短いうすようの紙であった事にも、大将は別段気に留めなかった。


 文に書かれているのはきっと、よくある挨拶の言葉だろうと思ったのだ。


 だが開いてみると、中には歌が書かれていた。大将が贈った歌への返歌だ。読んで大将はまたもや驚かされた。



 大将が姫に贈った歌はこうだった。


「月見れば 今宵堀河 涙河 短夜君に 心 つくせり(すり減る)」


 それに対する姫の返事の歌は


「ほりかわは ふかきかわゆえ みじかよの つきかげ(月明かり)あれど わがみなかるる(流れる)」


 と、あった。


 大将は「今夜月を眺めているとあなたを恋しく想うあまり堀河を私の流す涙の河に変え、夏の短い夜の間でも心をすり減らしてしまいます」


 と、情熱的な意味の歌を贈った。


 涙河と言うのはもともとは漢詩の中の言葉で貴族の男にとって欠かせない教養なのだが、その意味を本歌取り(有名な和歌に洒落たアレンジを効かせる手法)するように使うのが流行になりつつあった。公達には意味がすぐに分かるし、女人でもその情緒は伝わりそうな言葉だろう。せっかくなのでそれを姫の住む堀河になぞらえたのだ。


 その返事に姫は


「私(堀河)のほうが深く想っているので、涙河を夏の月明かりが照らそうとも溺れてしまう事でしょう」


 と、さらに情熱的に返して来たのだ。


 しかもこの返歌は堀河が姫の事を表していることは勿論、涙河の意味も理解していなければ詠めない。涙河はただ、顔に残る涙の跡を川に例えているのではない。あまりにも流し過ぎて本物の川のようになってしまうほどの意味で使われる。姫はそれが分かっているのだ。


「河」と言う言葉にかけた遊び心と、大将の漢詩を使った流行に見事に応じている。しかも大将が眺める月の明かりが照らそうとも、流した涙で自分の身体が流されてしまうと言う。「堀河」「涙河」「短夜」「月」大将の歌をここまで踏まえながらも男の涙でその身が流されるとは艶っぽい。しかも「流るる」は「泣るる」とも読める。大人の風情のある歌だ。


 それでいてこの歌には自尊心も見え隠れする。大将は心がすり減るが、姫は思いの深さに溺れてしまうと言っている。つまり、大将の想いはまだそれほど深くないだろうと、軽く皮肉って見せているのだ。


 これは姫を甘く見るな。人妻だったからと言って軽んじるような態度は許さないと言っている。歌を贈るのが遅れた事への抗議かもしれない。


 熱く艶やかな表現の中に、不快感を感じさせない程度のピリッとした皮肉を効かせる。


 何と言う機転。何と言う頭の良さ。大将は舌を巻いた。


 奥ゆかしくないと言ってしまえばそれまでだが、歌詠みの大将にとってこれは大変魅力的な資質だった。この姫とはこれからこんなやり取りをかわす事が出来るのだ。これほどのやり取りが出来る女人が、この都に何人いると言うのだろう? その一人を自分は妻に持つことが出来るのだ。


 大将はすっかり有頂天になってしまった。



 堀河の姫に魅了されてしまった大将は、北の方のいる自分の邸には何とも居づらい。何でもない顔をしているつもりが、いつもの情人相手の恋ならそうすることはたやすいのに、今度はどうしても心が堀河の姫を想ってしまい、北の方の目を見る事も出来なくなってしまった。


 訝しげな北の方の様子に耐えかねて、御所での宿直を増やしたり、友人の家の宴に行ったり、大納言家に顔を出しに行ったりして過ごすようになる。


 そしてようやく待ちに待った、堀河の姫との初夜がやってきた。大将は夢心地だ。


 寝所に入り、御簾と几帳の影に入って二人きりになると、姫はこの方らしく身仕舞いを正し、きちんと頭を下げて待っていた。


「素晴らしい返歌を頂いて、ずっとこの日を心待ちにしておりました。あなたの様な頭の良い方を妻に持てて、私は大変に光栄です」


 大将は夢うつつな気持ちでそう言った。本当に得難い人を手に入れた気分だった。


「それほどの事ではありません。あの歌はたまたま思いついただけですから」


「その、機知が素晴らしいのです。あなたも私と同じように歌の素晴らしさを分かりあう事が出来る。しかもあなたは御美しい。正直、前の夫が羨ましい。このような方を独り占めになさっていたなんて」


 だが、この日の姫は様子が違った。うつむきがちで顔色も良くなく、言葉少なで黙りがちだった。


「いかがされましたか? お具合が悪いのでしょうか? 薬湯でも持って来させましょうか?」


「いえ、何でもありません」


「ご遠慮はいらないのです。私の身に寄りかかって……」


 そう言いながら姫の身を抱き締めようとした時、姫が身を固くして、嗚咽をこらえている事に気がついた。大将は思わず身を離してしまう。


「私を、恐れておいでなのですか」


 大将は唖然としながら聞いた。


「……いけませんか? 私はこれまで前の夫以外の方とまともにお話もした事がありませんでした。夫はとても優しくしてくれましたし、私を大切に守り続けてくれました。元が人の妻だったとはいえ、男の方を受け入れるのに恐れを抱く事は子供じみていると思われますか?」


「いえ、私はてっきり、あなたは私を受け入れるつもりでいて下さっていると思って」


「勿論そのつもりです。私はあなたをお慕いしたい。ですから失礼な態度を取り続けていた事もお詫びいたします。少しでもあなたのお心に近付いて、あなたをお慕いできるようになりたいと思ったのです」


 慕えるようになりたい。裏を返せば姫はまだ前の婿君に未練が残っておいでなのだ。まだ私の事を慕ってくれてはいないのだ。大将は愕然としてしまった。


「……今宵はこのままお休みになった方がよろしいですね。私は少し離れたところで休みましょう。どうぞ、几帳を立ててお休み下さい」


 そう言って大将は立ち上がろうとした。どうしたら良いのか分からなかったのが本音だった。


 だがそれを姫が留めた。大将の手を取ってその場に座らせる。


「そのような訳には参りません。私達は夫婦にならなくてはならないのです。お父様も、この邸の者達も困りますし、大納言様もお困りになるでしょう。帝の御好意にそむくことにもなります。大将様も北の方様にも御迷惑をおかけすることになるでしょう。夫を亡くして傷ついたのは私だけではありません。私はこれ以上誰も不幸にはしたくないのです」


「あなたは、そのようなお気持で私と契られるつもりだったのですか?」


「いいえ、違います。私はただ、素直でのびやかなお心を持った、あなたをお慕いしたいだけなのです。私達は夫婦にならなければならないのです」


 姫の必死の表情に大将は自分を恥じた。元の人妻と侮り、身分の低さを心のどこかで軽んじていた。意外な才能を知ると得難い物を手に入れた様な得意な気にもなっていた。


 この方は元の人妻などではない。傷ついたお心のまま私の妻になろうとしている方だ。これ以上傷つけてはならない方だ。


「無理に、お心まで開こうとなさらなくて、いいのですよ」


 そう言いながら、大将は姫を抱きしめた。






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