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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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堀河の姫

 大将は困り果てていた。


 今までは中くらいの身分の気楽な相手と、心のどこかで堀河の姫を軽んじているところがあった。


 ところが、会ってみるとこの姫、なかなか一筋縄ではいかなそうだと分かったのだ。


 いや、自分も確かに悪かった。どこか姫を見下して、最初の挨拶だと言うのに強引に御簾の中に入ろうとしたのだ。


 邸に行くと堀河殿は頭をこすらんばかりの恐縮ぶりで、これ以上ない歓迎を受けた。


 それはそうだ。自分は主上に直接仕える近衛の大将。堀河殿はこのたびの働きで目をかけていただいたばかりの、これから出世の糸口をつかもうと言う身。身分も立場もまるで違うのだ。


 そんな堀河殿の姫の婿になり、その縁でこれから堀河殿を引き立ててやろうと言うのだから、堀河殿が恐縮するのも当然だろう。


 そんな歓迎の後で気分も良くなり、多少の酒も入ったところで姫への御挨拶。少しばかりの好き心が自分を大胆にしたらしい。


 しかも、姫の側でも女房の口を介したりせず、直接姫から御挨拶の御言葉があった。


 夫を亡くして傷心の妻と思っていたが、結構砕けたところもあるのかもしれない。姿をちょっと垣間見てみるのも面白いんじゃないだろうか?


 元の人妻と言うのも男心を刺激した。どれどれとばかりに御簾の中に半身を入れて見る。すると姫は、


「いきなり御簾を掻きあげられるとは、高貴なお立場の公達とも思えぬ御振舞いをなさるのですね」


 と、几帳越しに凛とした声をあげられた。


「それはあなたのお声がとても美しいからですよ。私たちは夫婦となる身。あなたも元は人の妻だった方だ。何も分からぬ訳ではあるまい。少しばかりその御姿を垣間見たいと思っても、男心としては仕方のない事でしょう?」


「男心とはそんなにはしたないものなのですね。でも、確かに私たちは夫婦となる身。……それではこういたしましょう」


 そう言うが早いか、なんと姫は目の前の几帳をわきに押しやり、顔こそは扇で隠しているものの、その姿をさらけ出したのだ。


 仕える女房でさえ、相応に会話をするときは身をかがめ、なるべく姿を隠そうとする。それなのに自ら几帳を押しのけるとは、この姫、普通の姫ではなさそうだ。


 まるで花房だな。嫌でもそう思わずにはいられなかった。


 そのうえ姫はこう言ったのである。


「女人の私が姿を見せたのです。客とは言えあなたは男君でございます。私の姿を見たいとおっしゃる以上、私もあなたの取り繕わぬ御姿を拝見したいわ。どうぞ、その頭の烏帽子をおとり下さいませ」


「烏帽子を? 今、ここでか?」


 これにはさらに仰天した。女の顔が裸と同じなように、男の烏帽子を外す事は、位の高い者ほどみっともなく恥ずかしいこと。ここには姫付きの女房達が自分を見ている。まだ夫婦でもないのにここで烏帽子を外せと女人の方から言ってくるとは思いもよらなかった。


「今、ここでです。そうすれば私もこの扇を閉じましょう。あなたと私では身分と立場には大きな差がありますが、ただの女人と男君としてはさしたる違いはありません。父の元はともかく、ここではあなたも私と同じただ人になって頂きます。その上で契り合おうと言っているのです」


 いやはや。


 ここまであけすけに物を言われるとは思わなかった。完全に姫に呑まれたまま烏帽子を外す。


 女房達が遠慮から席を下がろうとするが、


「皆、ここにいなさい。私たちは挨拶をしているのですから」


 と、姫が留めさせる。そして扇を閉じてその顔を見せた。


 これが、生き生きとした美人だった。ただ美しいだけではない、目の中に意思の強さをにじませた美しさだった。はっきり言って自分好みだ。


 堀河殿のお立場がもう少し上であったら、きっと評判になったに違いない。


「どうなさいました? 私に御挨拶の言葉があるのではありませんか?」


 姫にそんな事を言われたと言うのに、この大納言の長男で主上の憶えも目出たい、歌に秀でた貴公子とうたわれた自分が歌はおろか、挨拶の言葉さえもどこかに飛んで行ってしまい、言葉を詰まらせているのである。


「……私は、この邸に通うのが楽しみになりそうです」


 ようやく出て来たのがこの言葉だった。


「ありがとうございます。あなたは裏表のない素直なお方のようです。私も楽しみになりましたわ。これからよろしくお願いします」


「はあ……」


 こうして大将は上の空で堀河殿の邸を後にしたのだ。



 大将は完全に堀河の姫に主導権を握られてしまった。


 それなのに少しも悔しいとも、情けないとも思わないのはどうしたことだろう?


 それどころかあの姫を自分の妻に出来ると思うと、胸が躍るような心地がする。


 北の方には愛おしい、大切にお守りしたいという気持ちが強いが、堀河の姫には心弾むような充実感を憶えるのだ。


 自分にとって北の方はかけがえのない大切な妻だ。その気持ちに変わりは無い。だが、それとは別に抑えようのない心が堀河の姫に湧きでて来る。


 北の方を軽んじていけない。そこは胆に銘じなくては。


 そう思いながらも何かと心が堀河へと行ってしまう事に、大将は戸惑うばかりだった。



 困っていたのは大将だけではない。忠長も困っていた。


 久しぶりに宿下がりをしたやすらぎの機嫌が良くない。その母親も同様だ。


「最近は大将様は上の空になってばかりいらっしゃるのね」


「お疲れでいらっしゃるんだよ。近衛の大将と言うのは帝をお守りするため御所の警備のすべてを取り計らわなくてはならないお役目。最近はいかがわしい物乞いなどが御所の中にまで入り込もうとするから、大変なんだ」


「堀河の姫君って、どういう御方なの?」


 やすらぎは遠慮なくはっきりと聞いてきた。そこを聞かれても困るんだが。


「堀河殿は姫の前の夫のおかげで、ただの蔵人(御所の役人や女房への連絡係)からやっと蔵人頭になったところだった。御結婚で姫が出世したとしてもそんなに急に地位が上がることは無いさ。お方様の方がずっと立場は上でいらっしゃる」


「そういう事を聞いているんじゃないの。どのようなお人柄かってこと」


 それが分からない程鈍くは無い。だが……


「俺みたいなただの従者が御結婚前の姫にお会い出来るもんか。人柄なんか分からないよ」


 本当は若殿から「几帳を押しのけ、顔を見せた」とんでもない姫だと聞かされてはいたのだが、乳兄弟で従者の自分が主人の妻となる方の悪口を言うわけにはいかない。


 だが、そういう姫だからこそ、若殿が姫におおいに惹かれていることは自分にも手に取るように分かった。普通の奥ゆかしい姫や、要領のいい女房など若殿は飽きるほどお相手になさっているから、そうではない方のほうがずっとお好みに合っているのだろう。


 主人の好みに合っていて、妻になる方も幸せになれる御縁組。従者としては喜んで差し上げるのが筋なのだが、やすらぎは北の方の乳兄弟の女房。さらに母上は乳母でいらっしゃる。


 はっきり言って余計なことは口にできない。ここでは板挟みになってしまうのだ。


「そう。あの大将様がお方様を軽んじられる事なんてないとは思うけど……」


 やすらぎは何かしっくりいかないような表情だ。


「そうだよ。若殿はそんな方じゃ無い。お前こそ身近でお世話をしているんだから、若殿の事も分かってきただろう? お心に優しいところがおありなんだ。北の方だって大切にされているじゃないか」


「そうだと、いいんだけど……」


 せっかくの夫婦水入らずだと言うのに、若殿のおかげで気まずい思いをさせられる。


 忠長は心の中で嘆くしかなかった。





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