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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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父の反対

 父はここまでを遠い目をしながら懐かしそうに話してくれた。


「では、お母様は幸せだったのね? お父様と結ばれて」


「その時までは幸せだったよ。お前の母だけではない。私もそれ以上に幸せだった。命を賭けたかいがあったと思ったものだ。お前の母にしてみればそれまでよその邸を訪ねた事もほとんどなく、乳母と離れて生活したこともなかったのだからさぞかし心細く不自由も多かったはずなのだが、それでも幸せそうな顔をしていた。若かったのだ。二人とも」


「でも、私を身ごもった後、お母様は元のお邸に戻られたのよね?」


「そうだ。初めは中納言様も躍起になってお前の母を探していたが、とうとうその居所は見つけ出せなかった。そのうち姫を手に入れられなかった悔しさと自らの思うように出来ない帝の御気性に苛立ちを募らせて、帝に帝位を退かせる手を打った。自らの息のかかった修験僧に御病気の女御様の祈祷をさせ、帝位を東宮にお譲りすれば必ず女御様は回復すると進言させた。それを真に受けた帝が幼い東宮に帝位を譲られたものだから、それまでは尊い身の上の姫がさらわれた事をかしましく噂していた都人たちも、帝の突然の御国譲りに関心が移って姫の噂はだんだん薄れていった。そんな時にお前の母が身ごもったのだが、使用人や下人の口から洩れてはいけないとお前の母の世話を頼むわけにはいかなかった。初めての懐妊だし、不安も多い。だから思い切ってお前の母を帰す事にしたのだ」


「……さぞ、いいように噂されたんでしょうね」

 都人の口さがのなさは、私も嫌と言うほどよく知っている。


「そうだ。むろん、私の事は表に出す事は出来ない。姫がさらわれた日に邸から姿を消した下男がいることは知れ渡ってしまっていた。私は邸につてがある商人として邸に通い、こっそり忍んでお前の母に会っていた。それを都人たちは『お血筋の良い姫でも盗人の子を宿すと随分お気楽になるらしい。下司の田舎者を平気で邸に通わせるようになった』と噂をした。とうとう『あの田舎者が姫をさらった盗人じゃないのか?』とも言われ出したが何も証拠はない。その後回復したと思われていた御病気の女御様が亡くなり、しかもお前の祖父殿はもしものために寺の僧頭から中納言様が修験僧に送った文を手に入れてくれた。中納言様が私を疑ったとしてもこれがある限り無理なことはできない。それに祖父殿のおかげで商売の方も上手くいって俺は財をなす元手を作る事が出来た。だが、お前の母にはつらい噂が流れて可哀想な事だった」


「それでも、きっとお母様は幸せだったと思うわ」


「だが心労も多かっただろう。僧侶殿やお母上、その周りの一族に泥を塗った事をやはり気にかけていたようだ。つわりも激しく身体もつらそうで、お前が無事に生まれた時は本当にほっとしたものだ」


「そんな思いをしながら、お母様は私を生んで下さったのね」


「ああ。だからお前の事は本当に可愛がった。それはお前の祖父殿、祖母殿も同じだ。お前は誰よりも可愛がられ、誰よりも幸せを願われて育ったのだ。ただの一度たりとも疎まれた事などは無い。そこは決して誤解したりしないでほしい」


 私は誰よりも可愛がられていた。疎まれた事など一度もなかった。お母様は私を心から望んで生んで下さり、お父様は誰よりも慈しんで育ててくれた。


「お父様。大切な思い出を話してくれてありがとう。お父様が私を引き取って育ててくれたのは、私を都人の噂から守って下さるためだったのね」


「お前の祖父殿は本当にお心の豊かな方だった。都の考え方に縛られるような方ではなかったのだよ。御仏の目から見れば人は皆同じ。身分や血筋に振り回されて不幸になってはいけない。都人の好奇の目に晒されて育つより、土地も、人の心も豊かな武蔵の国で育った方がお前は幸せになれると考えられたのだ。だから御自分の元から遠く離れるのを承知で、私がお前を育てることを許して下さったのだ」


「私、本当に幸せ者ね。お母様も幸せだったのね」


 私は心からそう言った。だが父の顔は晴れなかった。


「そうなのかもしれない。いや、そう思いたいのは私も同じだ。だが、本当にお前の母は幸せだったのだろうか?」


「そんなの、幸せだったに決まっているじゃない」

 私は父の言葉が信じられなかった。女人にこれほどの幸せは無いと思ったから。


「だが、お前の母は常にお前の祖父殿、祖母殿の事を気づかっていた。実際、噂の矢面に立ったのはお前の祖父殿と祖母殿だ。私はこそこそと隠れ周り、祖父殿に頼り、その祖父殿の苦労をお前の母は心配しながら身体を弱らせてしまった。私のとった行動は決して正しかったとは言えない」


「でも、お父様がお母様と結ばれなければ私は生まれていなかったわ」


「そうだ。だからお前の事はなんとしてでも幸せにしなければならない。それしか私はお前の母や祖父殿、祖母殿に報いる事が出来ない。だが、お前はやはり都人の血が流れている。お前にとっては田舎でのびのびと暮らす事だけが幸せと言う訳ではないようだ。きっとお前の母の血がそうさせるのだろう」


 そう言われると言葉に詰まる。確かに私は都にあこがれ、都の暮らしに手ごたえを感じていた。田舎でのんびりと穏やかに暮らすより、京で姫様……いや、お方様のもとで挑み心を持って立ち向かって行きたい。そんな思いを強く持っている。


「私はお前の母の人生を大きく変え、お前をこんな田舎で育ててしまった。正直、悔む事も多い。若かった時には見えなかったが、今になって心を痛める事も多いのだ」


「だって、お父様はそうするしかなかったじゃない」


「その時はそうするしかなかった。だが、それをお前に繰り返させようとは思わない」


 父の表情が険しくなる。嫌な予感がする。


「どういう事?」


「お前は都で生きることを心から望んでいる。そう思ったからこそ私はお前を都に出した。だが、康行は全くの下司だ。私と同じでお前の人生をどう狂わせるか分からないのだ」


「お父様……。康行の事、反対なの?」


「反対だ」

 父ははっきりと言った。


「そんな! 私だって同じ身分じゃないの! それにお父様は誰よりも、身分や血筋では人は幸せになれない事を知ってるじゃないの!」


「たしかに身分では人は幸せにはなれない。だが、お前と康行では生き方そのものがそぐわないのだ」


 生き方がそぐわない。そうだ、前に康行も言っていた。御簾の内と外では世界が違うと。


「それでも、お父様とお母様は結ばれたじゃない。そしてこうして私は生まれているじゃない」


「そうだ。そして私はお前の母を苦しめた。幸せではあったが同時にお前の母は苦しみもしたはずだ。私もつらい。あの日のお前の祖父殿に頼るばかりだった自分が今でも許せない。私はお前に同じことを繰り返させたくはない」


「違う、違うわ。私と康行はお父様達とは違うわ。私、康行じゃなきゃダメなの。康行が帰ろうと言ってくれたから、この邸に帰ってこれたの。お父様に話を聞く勇気が持てたのよ」


「それほど康行を想っているのか?」


「ええ」

 私は即答した。だが、


「では、お前は一生この武蔵の国で暮らしなさい。二度と都に出ることは許さない」


 と、父に言われると、私は動揺した。


「だって、私、お方様の女房なのよ。必ず都に帰ると約束したの」


「それはあきらめなさい。康行と一緒になるならいずれこの邸も財も康行に譲ろう。お前はこの邸を守り康行を支えてやりなさい。どうしても京にもどると言うのなら、康行とは別れるんだ。大将様の妻になるか、他の御簾のうちの方と結ばれるか、一人で勤め続けるかはお前次第だが、どの道を選んでも私はお前の後ろ盾はしてやろう。お前の母は自分の運命を選ぶ事が出来なかったが、お前は自分で決めなさい」


「そんな……。お父様」


「一人で決められることではないだろうから、あとで康行を呼んでやる。二人で話し合って決めればいいだろう。自分達が一番納得のいく答えを出しなさい」


 そんなの、どっちを選んだって納得なんてできないわよ!


「とにかく今日は旅の疲れもあるだろう。部屋に戻って身体を休めなさい」


 父はそう言って私との話を打ち切ってしまった。


 私は途方にくれながら、帰ってきたことを深く後悔していた。







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