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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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恋盗人

「私は罪を犯そうと思う。父として、仏弟子として、人としても深い罪を犯そうと思う。そのためにたとえ夜の川はおろか、地獄の淵から落されようともかまわん。姫に生きる希望を持たせることが出来るのなら、どのような罪も犯す」


 僧侶は私の肩をつかみ、無理に顔を上げさせた。


「私はお前をそそのかす。これ以上の罪深いことはあるまい。それでも私は姫が愛おしい。私は姫のために命を賭けたお前に姫の人生を賭けたい」


 真っ直ぐに、私を見据えられる。


「この邸から、姫を盗んではくれぬか?」


 私は耳を疑った。


「中納言には気の小ささとは別に強引なところがある。これほどはっきり彼の誇りを穢すような態度をとった以上、どのような手段に出るとも分からない。姫を守るために私は時を置かずに姫の髪を下ろさねばならん。そうなれば姫は一生女人としての幸せを諦める事となる」


 尼となれば男女の交わりは許されない。俗世を捨て、親子の縁さえ仏弟子としての交流にされてしまう。仏弟子になられるのは尊い事だが、姫は若くして孤独な生涯を送る事になる。


「もう一度言う。姫はお前を慕っておる」


 そんなことは知っていた。あの、甘く優しい琴の音色。私にだけ見せた美しい御姿。


「罪は私にある。この不甲斐ない父親が姫を守り切れなかった事にある。それにもかかわらず私はお前を罪人にしようとしている。もしもお前が失敗すればお前の罪は免れぬものとなるだろう。悪くすれば死罪となるかもしれぬ。私はお前に再び姫のために命を賭けてほしいと頼んでいるのだ」


 姫のために。命を賭けて。


 ああ、今俺はあの川縁に居るのかもしれない。姫は絶望の中で俗世を捨て、仏門へと身を投じようとしている。


 だが、あの時とははっきり違う事がある。あの時姫は俺を必要としていなかった。何故、死なせてくれなかったのかと問い詰めた。


 しかし今度は姫が俺の助けを求めている。俺の中に生きる希望を見出してくれている。あの美しい華の様な瞳が俺を求めてくれているんだ。


「明日には寺に知らせがいく。明後日には私がこの手で姫の髪を下ろす事になるだろう。もし、覚悟が出来たなら、明日の夜、姫を盗み出してほしい」


 そう言って僧侶は私の肩を離し、建物の中に向かう。


「明日の夜。待っている」


 最後にそう告げて奥へと姿を消した。



 姫を盗み出す。この邸から。


 失敗すれば命は無いかもしれない。たとえ成功しても商人としての信用を無くし、手配した品々もすべてが水の泡と消えるかもしれない。


 だが、姫に会わなければ、この邸にこなければ、初めからそれは叶わなかったことだろう。


 何より私はすでに姫に惹かれてしまっていた。きっと、何も考えられずに川に飛び込んだ時には、あの、はかなげな姿と一筋の涙に魅入られていたのかもしれない。


 姫に出会えなければこんな気持ちを味わうことはできなかった。この想いを遂げるためならば私も地獄の淵から飛び込んでも構わないとさえ思う。


 もう二度とあの姫に、死人の様な眼をさせたくはない。あの華の様な瞳を曇らせたくはない。


 私は決心した。命も人生も投げ打って、姫を盗み出す事を。



 翌日の邸の様子は妙なものだった。誰もが私から視線を外し、声すらかけてはこなかった。


 それなのに嫌に注目が自分に集まっている事が分かる。どうやら昨夜、僧侶と私がどんな話をしていたのか知れ渡っているようだ。


 だが、誰ひとりとして私を止めようとする者はいなかった。皆が姫の心を知っている。だから今まで私が姫の寝所に近付こうとも咎められることが無かったのだ。


 そして朝から中納言様の「姫の出家だけは考え直すように」との文が、僧侶の元へ何度も届けられた。


 だが僧侶は早速寺に姫を尼にする旨を書いた文を送り、中納言様には「私の決心に変わることは無い」とだけ返事を書くと、その後は届いた文を受け取る事さえしなかった。


 とうとう夕方には中納言殿が自ら車で邸の前へと出向いてきたが、邸の門は固く閉じられ、取次ぎの従者に返事すらなかったので、中納言様は面目の立たぬまま帰らなければならなかった。


 これほど強く拒絶されては中納言様のお怒りは相当なものだっただろう。もしかしたら強引な手立ても考えられているかもしれない。もう、あまり時は無いかもしれない。


 陽が落ちるとすぐに私は姫様の寝所に近づいた。いつもならしっかりと御格子を下ろし、内側から掛け金が掛かっているのだが、その夜は私が姫様の姿を見たあの場所だけ僅かに格子に隙間があり、うっすらと明かりがもれていた。


 私は早鐘の様にとどろく胸を抑え、ひどく忍んでその隙間に近寄り、そっと声をかけた。


「姫様は、こちらにいらっしゃいますか?」


 すると御格子が上げられ、


「こちらへ」

 と、姫様の乳母が手招きをした。私はそのまま部屋に入った。


 部屋の中には乳母の他に、僧侶と尼姿の北の方がおられた。北の方は姫様としっかり手を握り合っておられて、たった今までお別れを惜しんでいたのが分かる。お二人の目には薄く涙の跡があった。そして僧侶は、


「ついさっき、中納言家の者が邸の様子を探っていたそうだ。ためらっている暇はない。以前姫が抜け出した築地塀の崩れた所に網代車が用意してある。その車に乗って私の甥の住む邸に逃げ込むのだ。甥の邸の建物の中に入るまで、決して誰にも見咎められてはならぬぞ。車を止めることなく、真っ直ぐ邸に入るように」


 私は黙ったまま、ただ頷いて見せた。北の方と姫様もただ頷きあっておられる。


 私は姫を盗み出す身だ。余計な言葉はかけない方がいい。急ぎ、ここを抜け出さなくてはいけない。


「姫、私の背にお乗りください」


 あの、河原での時の様に私は姫に背を向けしゃがみこんだ。姫もためらうことなく私の背に乗り、肩をつかんだ。姫の香の香りが漂って来る。


 最後に乳母がたまりかねたように、


「姫様をよろしくお願いします」

 と、涙声で言った。



 私は部屋を出て庭に下りると暗闇の中、背に姫を背負ったまま全力であの崩れた塀へと向かう。この姿を誰にも見られてはならない。たとえ屋敷のすべての者が黙認しているとしても、姿を見ながら取り逃がしたとあっては、その者にもどんなお咎めがあるか分からない。私はあくまで一人でこの姫を盗み出さねばならないのだ。


 崩れた塀にたどり着くと周りに人の気配が無いことを確認して目の前にある網代車に乗り込んだ。車は人を乗せた気配を知ると、牛飼いは何の言葉もなく動き出した。いつもなら貴人を乗せゆっくりと進むであろう牛車が、ガタガタと激しい揺れを伴いながら急ぎ進んでいる。そのような経験のない姫は私にしっかりとしがみついて青い顔をしていた。私も姫を支えながら息を殺すような思いでいる。


 ようやく車は速度を落とし、一度停まると誰かの囁くような話し声が聞こえ、門の開く音と共に忍びやかに邸の中に入って行く。ひさしの下に車が止められ、建物の中に入るとこの邸の主らしき貴人が、


「ここは今、人払いをしてありますが誰に見咎められないとも限りません。早く、こちらへ」

 と、私達を案内してくれる。


 建物のもっとも奥まった所に御簾が掛けられ、さらにいくつもの記帳がおかれたところに畳や敷物が用意されていた。


「伯父上から事情は聞いております。この邸なら役人の手が回ることは無いとは思いますが、しばらくはこの部屋から出歩かない方が賢明でしょう。御不自由な事が多いと思いますが御辛抱下さい」


「何から何まで、ありがとうございます」


 私は他に言葉が無くて平凡な礼を言うしかなかったが、


「いや、私も中納言殿には腹をすえかねておりましたから。これで少しは気が晴れました。狙っていた姫をまんまと盗まれたと知ったら、中納言殿はさぞかし歯がみをして悔しがることでしょうなあ」


 と、主はむしろ気持ちよさげに笑っていた。

 






平安中期、今では失われてしまっていますが「姫盗み」のお話に人気があったようです。そのままでは不幸な境遇に陥ってしまいそうな姫を、貴公子が周りの反対をものともせずに、盗み、さらって結ばれるというロマンチックな物語だったようです。


源氏物語で源氏が幼い紫の上を連れ去ってしまうのも「姫盗み」ですね。

貴公子ではありませんけど、それっぽいシーンを遊び心で書いてみました。

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