表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
41/66

返事

 その次の日も私は姫の琴の音に誘われるままに姫の寝所に近付いてしまった。


 人の少ない邸とはいえ、誰にも咎められないのは不自然だったが、それでも私はそうせずにはいられなくなっていた。夏の暑さも、容赦なく庭を照りつける日差しも、私を止めることは出来なかった。


 爽やかで涼しげな、芳しい香りが漂って来る。今日も姫は御簾の端近くにいらっしゃるようだ。優しい琴の音が庭に響いている。姫のお心を現すような優しい音色が。


 曲が終わり、あたりは静寂に包まれた。ああ、これでまた奥に引きこもられてしまうのだなと、私は名残惜しい気持ちで御簾を見つめていた。


 すると突然、御簾が姫自身の手によって掻きあげられた。そこには几帳すらおかれていないので御姿があらわになる。


 出会った時には想像もできなかった、見違えるような御姿がそこにはあった。


 白い肌と美しい顔立ちはそのままだが、涼しげな色合いの品の良い衣装を身にまとい、長く豊かな黒髪は乱れることなくその背に流れ、口元に紅がひかれたため、お顔の色が輝いているように見える。


 そして何より、瞳が得も言われぬほど美しかった。


 あの日の様な死人を思わせる陰など微塵もなく、優しく、気高く、生き生きとした華の様な瞳が輝いていた。


 私がすっかり見とれているとすぐに御簾は降ろされ、衣擦れの音と共に姫の気配が奥へと消えて行ってしまう。私は今起こった事が信じられなかった。


 姫は自ら私にあの御姿をお見せになった。何の身分もない、いやしい私に。


 姫をお助けしたあの日も夢幻かと思ったものだが、今の出来事の方がよほど白昼夢のように思えた。


 もう、忘れる事など出来ない。私の様な者にはあの姿は美し過ぎる。どうしようもなく物苦しい想いに駆られてしまう。


 何故、私にあのようなお姿をお見せになったのですか?


 私は姫に問いただしたい気持ちでいっぱいになった。




 その夜、久しぶりに邸に客人が訪れると言うので、私達はかがり火や、門を開ける準備をした。いらっしゃるのは中納言様だと言う。


 いよいよ姫の御結婚の事で御返事をなさるらしい。やはり中納言様に娶られことになるのだろうか? 私は気が気ではなくなってしまった。


 中納言様の車がお越しになると、私は主の僧侶に呼ばれた。何の用かと思っていると、縁のすぐ下で話を聞いているようにと言われる。


 何故私がとは思ったが、命ぜられるまま縁の下に膝をつき、かしこまった。


 中納言様がお見えになると僧侶は挨拶もそこそこに前置きもなくこう言った。


「姫の結婚の件だが、やはり、お断りさせていただく。姫には私や妻と同じく仏門に入って髪を下ろさせる事にした。もう、この邸に近づかないでいただこう」


 中納言様は驚きのあまり、ひきつったような声を洩らされた。


「姫を、尼になさると? 尊い血を継がれた、あのように美しい姫を。御正気か?」


「姫は中納言殿とだけは結婚したくないと申しておる。ついに一度はその身を川に投げかけた。そこまで嫌がる結婚をさせるわけにはいかない」


「身を投げようとした? 私と結ばれるのがそんなにお嫌だと姫は申したのか!」


「その通りだ。私は父親として姫にそのような結婚をさせる訳にはいかぬ。中納言殿は姫を幸せにすることが出来ない」


「そんなことは無い。私は心から姫を大切に思っております。父親のあなたとは政務の事で衝突したが、姫の事とは別のはず。姫を心からお慕いしている私の心をお伝えしきれずにいるだけです。私は必ずや姫を幸せにする。この邸も整え、後宮におられるもう一人の姫の後ろ盾にもなりましょう。あのように若く美しい姫の髪を下ろされるなど、それこそ姫にとっては御不幸。一生、女人としての幸せを断ってしまわれるおつもりですか」


「身を投げるほどの苦しみを味あわせるそなたと結ばれるぐらいなら、それもよかろう」


「そんなことは無い! それは若い姫ゆえに一時お心が揺れておられるだけだ。私の妻となれば姫は必ず幸せになる!」


「では、中納言殿は姫のために夜の川に飛び込む事が出来るか?」


「勿論だ。姫のためなら加茂川だろうと、桂川だろうと、命懸けで飛び込みましょう」


 すると僧侶は縁に出て私を指さした。


「この者をご覧あれ」


「なんです? ただの下人ではないか」


「この者の腕に大きな傷跡があるであろう。この傷は夜の川に身を投げた姫をこの者が助け出した時に負った傷だ」


「この下人が、姫を?」


「本当に命を賭けてでも姫を幸せにできると言うなら、今すぐ夜の川に飛び込んで見せるがよい。言葉ではなんとでもいえる。だが、実際にそこまでできる者はそう多いものではないだろう」


「私に、下人のような真似をしろとおっしゃられるのか?」


「姫は私の事で本当に傷ついている。その傷ついた姫を幸せにすると言うのなら、そのくらいの事は覚悟していただきたい。出来ぬと言うなら姫と結婚はさせぬ。川に飛び込む気が無いのなら今すぐお帰りいただきたい」


 中納言様は顔を怒りで真っ赤に染められ、足音も荒々しく牛車に乗り込むと従者たちを怒鳴りつけ、邸を出て行った。



「巻き込んでしまって、すまなかった」


 中納言様が出て行かれると、僧侶は庭に下りて私にそう声をかけて下さった。


「いいえ。それよりも中納言様にこのような事をなさって良かったのですか?」


「私は元からあの者を信用できぬのだ。私が朝廷を去った後、中納言は帝を思うように出来ずにいるらしい。帝の御気性に振り回されて政務も帝のいいなりになっていると聞く。そんな状態をあの中納言が耐えられるはずがない。おそらくまた、何かを企てようとするだろう。そのような者に姫の身を預ける訳にはいかないのだ」


「では、姫君様はやはり尼になられるほかにないのですね……」


 胸がキリキリと痛むが、自分にはどうする事も出来ない。私は歯を食いしばっていた。


 すると僧侶が身を低くかがまれて、私の姿をまじまじと見た。


「私は、姫のためならどのような罪も犯してみせる」


 私の目を真っ直ぐに見ながら、そうおっしゃった。


「今の姫を仏門に入れるのはあまりにも心が痛む。中納言との結婚話が出てからと言うもの、姫の表情はそれは暗いものとなってしまった。苦悩と悲しみに曇った眼を、いつもうつろに漂わせていた。そしてとうとう川に身を投げようとまでしたのだ」


 僧侶は苦しげに眼を伏せた。


「ところがお前に命を助けられてからはその眼の色に時折明るさが戻るようになった。以前のように琴も弾くようになった。その眼はお前の姿を追い、その耳はお前の気配を聞きとろうといつも研ぎ澄まされるようになった。あの琴の音は、お前に聞かせるためにつま弾いているのが分かった」


 私は驚いた。僧侶の口からそのような言葉が出るとは思ってもみなかった。


「それはお心違いです。そのようなこと、決してございません」

 私はただ、垂れた頭を横に振った。


「私は罪深い僧だ。仏門に入ったと言うのにいまだに親子の情から逃れる事が出来ない。私は姫が忍びない。ようやく取り戻した生きる希望を姫から奪っては、おそらく姫はこれまで以上に苦しむであろう。たとえ尼になろうとも生ける屍のような日々を送らねばならないかもしれぬ。私でさえ姫を思うとこれほどに心苦しい思いに駆られるのだ。若い姫が俗世に執着を残したまま出家すれば、その苦しみはいかほどであろうか?」


「お許しください。そのような事、決してありません。お許しください」


「姫はお前を慕っているのであろう。お前は姫をどう思う?」


「めっそうもございません。お許しください……」


 私は他に言葉を失い、お許し下さいとだけ繰り返した。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ