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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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悲しみの姫君

 その眼に吸いこまれたように立ちつくしていると、入れ替わるようにいかめしい姿をした、立派な袈裟姿の僧侶が姿を見せる。


 私はその威厳に雷にでも打たれたような思いで、思わずその場にひざまずいた。そのまま丸くなるように頭を下げ、かしこまる。私のような下司にとってそれほどその威厳は気高く、神々しくさえあった。


「そなたが姫を助けてくれたそうだな。父親として心から礼を申したい。本来なら何か望みの品を授けてやりたいが、事情があって今、私には大した事をしてやれぬ。せめて今夜はここで濡れた着物を着換え、傷の手当てをし、僅かだが酒と肴を召していただきたい」


 その僧侶はその威厳に似合わぬ程身を低くして、私にそう言って下さった。


「とんでもないことです。そんなご褒美を欲しくてお助けしたわけではありません。ただ、目の前で溺れて行く人を見捨てるわけにはいかなかっただけです」


「それでもそなたは姫の命を救ってくれた。とにかく今夜はここでゆっくりくつろがれて頂きたい」


 そう言うと、さっきの使用人の男が、

「こっちに着替えと酒を用意してある。あんたはウチの姫様の恩人だ。ささやかだが俺もあんたに礼をさせてもらいたい。ここの御庭はこっちからいい夜風が入ってくるんだ。俺の部屋は風の通り道だ。そこでゆっくり休んでもらいたい」


 と、言いながら私を邸の庭にある使用人の部屋へと案内してくれた。



 使用人の男はさっそく私の傷の手当てをしてくれた。傷口を洗い、薬草を練ったと言う傷薬を塗ってくれる。さっきの僧侶様が修行で傷を負った時に僧侶が使う薬を分けて下さったのだと言う。そしてさっぱりとした着替えを用意してくれた。肴はささやかなものだったが、酒は遠慮なく呑んでよいと私の杯についでくれる。


「いいのか? これはあんたの酒なんじゃないのか?」


「かまいやしない。俺は年でもう、そんなに呑めるものじゃないし、ここにいた若い下男たちは皆、ここから去って行ってしまった。ここは主の殿でさえも仏門に入った身。酒を楽しむ者なんてもういないんだ」


「そう言えばこれほどの邸にも関わらず、随分人の気配が無いな。なんでこんなに人がいないんだ?」


「ここは前の右大臣様のお邸だ。主である右大臣様が官職を辞してから、皆、ここから去って行ってしまったんだ」


「前の右大臣様?」


 右大臣様が職を辞すると、何故使用人が去って行くんだ?


「あんた、都に来たばかりだね? ウチの殿の失脚騒動を知らないなんて」


 そう言って使用人の男はこの邸の主の事情を説明してくれた。



 ここの主はついこの間まで、帝の信頼の厚い右大臣でおられたそうだ。どおりで気高い威厳を持っておられた訳だ。私の様なしがない者が本当ならお目通りできるような方ではなかったのだから。


 だが、帝はご気性の激しい方で一度何かに激昂されると、どなたの意見にも聞く耳を持たなくなる厄介な性質をお持ちになっていた。


 それも無理なからぬ事で、帝はお小さい頃から周りの者の都合に振り回されてお育ちになったと言う。


 帝の母上は帝がお小さい時に亡くなられたが、その後を追ってすぐに次の中宮様が立后なされた。その中宮様に帝の御養育は任されたのだが、中宮様は後に男子を授かった。


 やはり中宮様も人の親。次の帝にと育てられた兄宮よりも、ご自分のお腹を痛めた弟宮に帝位を継がせたいと言う思いが起こったらしく、何かにつけて弟宮と比べては、


「兄宮様には帝としての素質が足りないのではないか」


 などと中宮様方に皮肉を言われながら帝はお育ちになってしまった。


 しかし、兄宮を差し置いて弟宮を帝位につかせるなど、さすがに中宮様と言えどもお出来になるはずは無く、兄宮が無事に帝の座にお付きになった。


 だが、嫌みや皮肉を浴びせられ、何かを成し遂げようとなさるたびに押さえつけられてお育ちになった帝は、本来利発な方だったにもかかわらず、疑り深く、浮き沈みの激しい御気性をお持ちになってしまわれた。


 帝位につかれてからと言うもの、些細な論議のやり取りなど事あるごとに大臣たちの位を奪い、気まぐれに僻地へと追いやった。


 誰もがそんな帝を恐れ、その怒りに触れぬようにと顔色をうかがうようにして政が行われるようになった。内心の不満を抱え、帝への信頼や忠誠が失われていく。


 そんな中で帝を心から理解していたのが、右大臣だった。


 彼は帝が本来持っていた利発さを導き出そうと常に帝に寄り添い、その政務を助け続け、時に帝の片腕となり、時には帝の御気性から来る気まぐれを身を張ってお諌めした。そんな誠意が通じたのか、帝もこの右大臣には心からの信頼を寄せ始めていた。


 だが、帝への不信感は大臣たちの間ではぬぐいきれないところまできてしまっていたらしい。


 帝への不満を高めた者たちが、秘かに帝を追い落とそうと企み始めていた。今の帝より弟宮の東宮に早く帝の座について頂こうと考えたのだ。


 とはいえ、東宮はまだいとけないお年頃で元服までも時が必要。当然実際の政は大妃となられた元の中宮と、その方に寄り添う大臣達が仕切る事となる。そのような東宮を帝の座につけるためには、今の帝に自らその座を退かせる他に方法は無い。


 そこまでするには古くから大妃方に寄り添っていた方々の自己保身もあったのかもしれないが、それは各々の大臣方のお心うちの事で、本当のところは誰にも分からない。だが、明らかに帝への不満が高まっていた事は確かだった。


 そのため帝の味方としてそばに着き従っている右大臣は邪魔ものにされてしまった。何とか大臣の座から引きずり落とそうと、中納言を中心とした者達が策を練り上げた。


 その頃帝には後宮に中宮とは別に大変お気に召されている女御様がおられた。


 その方は大変穏やかで優しく、お心の広い方であるらしく、帝の激しい御気性でさえもその方の前では、幼子のようにお心を解かれ、甘えていらっしゃるようだった。


 それゆえ、そのご寵愛は眩しいほどで、これほどお一人の女人に夢中になられたのでは政務に差し障りがあるのではないかと心配する声が上がるほどだった。


 中納言たちはその噂を利用した。


 あたかも右大臣がその女御様を煙たがっておられるようなことを、帝に吹き込んだのだ。


 実際、右大臣はお一人の女御様に御偏愛がすぎると、帝にも女御様にも良くない事になるとお諌めの言葉をかけていた。そこに中納言たちの進言が加わり、帝は右大臣に疑いを持ち始めた。


 そんな時に女御様が御病気にかかられた。帝は大変動揺された。御心弱りのあまり政務も滞るほどだった。


 そこにさらなる噂が流された。女御様は右大臣にあからさまに煙たがられるあまり、御心痛がもとで御病気になられたのだと。


 これに帝は激昂された。激しい御気性があらわになり、右大臣だけではなく、そのお味方に着いた他の大臣までも処分なされようとした。


 そんな事になれば政務の場は帝を追い落とそうとする者達だけで固められてしまう。いや、それだけではなく、本来の職についている多くの大臣がその職を追われては、国の政そのものが滞ってしまう。


 悪い事にその頃、北の国では天候の悪さから飢饉が起こり、南の国では疫病が猛威をふるっていた。人々は苦しみ、国政を滞らせることは国を衰退させる事となりかねない。だが、帝のお怒りは和らぐ気配は無かった。


 とうとう右大臣は決断した。他の大臣に累が及ぶ事のないよう、自ら大臣の職を辞し、それが己の自己保身から来るものではないことを証明するため、無位無冠の身となって仏門に入ってしまったのだ。


 このことは都人の格好の噂になって、しばらくはにぎやかに語られ続けていたらしい。




「そんな訳でウチの殿は今は無位無冠の僧侶の身。しかも高貴な方々は帝を恐れるやら、中納言様に御遠慮するやらで誰もこの邸に寄りつかなくなった。そうなると、いつ、お手当が滞らないとも限らないって、仕えていた者達までこのお邸を見限って姿を消して行ったのさ。今じゃ、俺のように年老いて行く当てのないものや、古くから邸に仕えていて離れられなくなった使用人や古参の女房が僅かに残るばかり。あの姫様付きの女房たちでさえ、こんな邸にいて何かあったら困ると親たちがさらうように無理やり連れ帰ってしまった。優しい姫様だから若い女房達も懐いていたのになあ」


「ああ、確かに優しそうなお姫様だったな」


「だから余計にお可哀想で。今じゃ姫様のお世話をしているのは乳母と身寄りのない女房だけ。それでは手が足りないから、俺のような下男まで姫様の近くで雑用をこなしているんだ。お母上は皇族だった方だから本当なら誰よりも大切にお世話されてしかるべきなんだが」


「そんな尊い方が、どうして身投げなんかしようとしたんだ?」


「気まずくなられたんだと思う。姫様はあの、憎い中納言様から結婚を申し込まれているんだ」


「父親を追い落としておいて、その娘と結婚したいって? 随分な話じゃないか」


「だが、現実を考えるとそれしか姫様がお暮しになる手立てはないんだ。殿には他の妻との間に別の姫様がいるんだが、その妹姫は気丈な方で、なんとかつてを頼って御所の後宮に勤める事が出来た。その方の御手当てでかろうじてこの邸は細々とやっているんだ。とても姫様に別のお相手を世話できる余裕も、お願い出来る相手もありはしない。中納言様は姫様のためならこの邸にも援助を送る。後宮にいる姫にも後ろ盾をすると言っているが、それでも殿は嫌がる姫を無理に結婚させたくないと、中納言様を断ろうとしているんだ」


 あの姫は自分は親を追い落とした憎い相手に娶られるか、死ぬしかないと言っていた。お父様の足を引っ張るばかりだとも。そこまで追い詰められていては、先を悲観しているのも無理はないのかもしれない。


「あんなに美しい人なのに。気の毒だな」


 あの、死人のような眼。あの姫はこれから、一生あんな眼をしたまま生きて行くのだろうか?


「まったく気の毒だ。だが、俺達下々の者にはどうする事も出来ないのさ」

 

 






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