藤の花の匂う頃
それから数日後、三条様は流罪が決定した。都からは遠い筑紫へと流される事となった。
前帝様は都の外れ、嵯峨野のお邸で役人たちに厳しく見張られながらお暮らしになる事実上の幽閉状態となられた。監視は本当に厳しく、いよいよ仏門に入られる日も近いだろうと都人にはもっぱらの噂となっている。
三条の姫君と大将様の結婚話は当然流れたが、姫君や北の方に直接の咎は無いのだからと大納言様のお心づかいで、姫君は来年大納言様の三男の方とご結婚の運びとなるようにとり計られているようだ。
大納言様の三男はまだお歳若の元服前でいらっしゃるので三条の姫君がかなりお歳上になってしまうが、三条様が流されてしまった今では、かえって先々の見通しの明るい、まだお子様めいた若君の方が姫君の将来のためには良いのかもしれない。おそらく大将様もお気づかいをなさるに違いない。
今回の件で主上がお強く出られたので、街の悪党や盗賊達の動きも封じ込められつつある。
主上もこれまではお身内の事と、実の兄である前帝様にはどこかご遠慮気味で強気に出られずにおられたようだったが、官職をある程度にまで上り詰め、役人をつき従えるお立場の方が悪事に加担なさっていた事に緊迫した思いをなさったらしい。
主上のそうした態度が役人たちにも伝わったようで役所にも隙がなくなって来たらしく、悪党どもがはびこりにくい雰囲気が出来て来たようだ。京の町の秩序が取り戻されつつあり、とりあえずは都人たちも一安心と言ったところだろう。
勿論、一の姫様は無事に大将様のお邸に移られて、大将様の北の方としてお若いながらも邸の女主人としての地位を確立なさった。お立場としては大変になられるだろうが一の姫様個人としては大将様との御新婚の時間を取り戻されて、お幸せそうである。
私は大将様から頂いた、お歌の書かれた手紙をお返しした。
「とうとうあなたの心を私に振り向かせることはできませんでしたね」
と、大将様はおっしゃるが、
「それは違います。大将様も、本当はお気づきになっておられるのでしょう?」
私はそう、お答えした。大将様も照れくさそうに微笑まれた。
そう、大将様も姫様を命懸けでお守りになった事が姫様は勿論、ご自分のお心にも変化をもたらしたようでお二人は一層仲睦まじくなられたようだ。きっと、私の様な気楽な身の上の者を養うのではなく、姫様のような方を覚悟を持ってお守りすることの大切さや素晴らしさに気付かれたに違いない。支える御愛情とは本来、そういうものなのだろう。信頼を深められたお二人の御様子が私には嬉しかった。
勿論、やすらぎと忠長様は新婚の真っ只中。やすらぎの次の宿下がりが待ち遠しくて仕方ないらしい。二人とも本当に幸せそうだ。それも私には嬉しい。
中納言様と言えば、大将様が御身分も顧みずに、自ら一の姫様の行列を守って下さったことが都中の話題になり、さらには大納言様が、
「姫が危険にさらされたのは、こちらの不手際もあったのだから」
と、政務上の条件もかなり中納言様に譲られたらしく、かえってご機嫌なようである。
おまけに私が髪を斬られてしまうと言うやむを得ない事態により、姫様の元を離れる事も本当のところは喜んでいるに違いない。
しかし姫様……いや、大将様の正妻となられた、お方様はおっしゃって下さった。
「あなたが幸せになる道を選ばれるのに、私になんの文句がありましょう? けれども、あなたは必ず私の元へ戻って来てくれるのでしょう?」
「勿論でございます。髪がまた、元通りに伸びましたら、必ず都に帰ってお方様に仕えとう存じます」
「その言葉が聞けて、嬉しいわ。出立はいつになりそうなの?」
「康行の馬達の世話が無事、引き継ぎ終えましたら。藤の花の匂う頃には、旅立つと思います」
「そう。これからは、藤の花を見る度に、私達はあなたを思い出すのでしょうね」
お方様は寂しげにおっしゃられるが、
「ほんのひと時で御座います。お方様が大将様と楽しくお暮らしになられるうちに、あっという間にその日が来る事でございましょう」
と、私はほほ笑んだ。
「それはあなたも同じね、花房。康行と仲良く暮らすうちに、すぐにその日はきてしまうわよ」 と、お方様もからかわれる。
「それではあなたにお祝いをあげましょう」
そう言ってお方様は私にご自分の琴を、差し出された。
「私はあなたにこの琴をあげましょう。代わりにあなたの琴を私に下さるかしら? あなたの魂の欠片のこもった、その琴を」
そうだ。お方様とやすらぎは、一番初めに私に琴がどれほど必要なのかを気づいてくれた。私自身でさえも気づかずにいた、琴を弾く事の大切さをこの方々は私に教えてくれたんだ。
「勿論でございます。この琴には京で暮らした日々の全てが詰まっております。お方様にお仕えした魂がこもっております。それをご所望いただけるなんて、私は幸せ者でございます」
私は深く頭を下げ、琴を差し上げた。
「あなたは私の琴を弾き続けてね。私も弾くわ。やすらぎとともに。時には殿も弾く事でしょう。この身は離れても、私達の魂は琴の音を通じて繋がっているのよ。どんな時も。それを忘れないでね」
私は返す言葉を失ってしまったので、さっそく、お方様の琴を掻きならした。私には言葉以上の事をこの音に乗せて、伝える事が出来る。それに気づいて下さったのはお方様だった。そのことへの感謝をこめて、私は琴を弾き続けていた。きっとこれからも、弾き続けるんだろう。様々な人の想いを乗せて。
出立の朝、お方様は特別に私達をひさしの下までお見送りに出て下さった。北の方様がこんな端近に出ていらっしゃるなんてとんでもないことだが、ここの主は大将様とお方様だ。お二人が御認めになる以上、誰も文句は言えない。お方様は短い間に、すでに北の方としての風格をお持ちになられたようだった。ご結婚からわずかの間に起こった様々な出来事と、大将様に守られている自信がお方様を少し早く大人にされたようである。
「本当に、牛車の用意をしなくてもいいの?」
やすらぎが私に聞いた。
「いらないわ。どうせ途中で返さなければいけないし、馬の方が身軽で動きやすいわ。武蔵の国は遠いのだから身軽なのが一番なの。それより護衛の人や、こんなに立派な市女笠やご衣裳をいただいてしまって、申しわけございません。お方様」
そう言って私は頭を下げたが、
「いいえ。これは私からの餞別よ。少し動きづらいでしょうけれど、都を出るまではこれを着ていなさい。これは康行の希望なのよ」
そう言ってお方様はにっこりなされた。
「康行が? どういうこと?」
私は隣にいた康行に聞いたが、康行はいきなり私を抱き上げてしまった。そして、そのまま私を馬に乗せる。
「ちょっと! 大将様やお方様の前で失礼じゃないの!」
私は慌てて叫んだが、
「いいのだ、花房。私が許可した。これでお前達の約束は果たされたな」
と、大将様がおっしゃる。
「約束?」
私は康行の顔を見た。
「昔、約束しただろう? お前は都の姫様のようになって、俺が馬に乗せてやると。前の時はひどい恰好だったからな。あらためてやり直しだ」
そう、康行は笑っていた。
「康行。花房の身はあなたにすっかり預けるわ。けれども心のひとかけらは花房の琴とともに、ここに置いて行かせるわ。必ず取りに戻って来るのよ」
私を抱えるように馬に乗り込む康行に、お方様がそう声をかけられた。
「勿論でございます。私の心の欠片も、殿の元に置いてまいります。私達は必ず帰ってまいります。馬上にて失礼いたしますが、皆様もお元気で」
そう言って康行は馬を邸の門へと向かわせた。皆が手を振ってくれているのが分かる。私はすっぽりと康行の胸の中にくるまれたまま、
「帰りましょう。私達のふるさとへ」
と言った。
「ああ」
と、康行は短く返事をした。明るい朝日がその顔を照らして、まばゆいくらいだ。
今度は康行と二人でここに戻って来るんだわ。
どこかから藤の花の香りが漂ってくる中、私達は京の都を後にした。故郷へと帰るために。
「苦悩編」はここまで。次は波乱の「帰郷編」です。