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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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故郷

 康行は受取った着物を、私に着せかけてくれた。切れた髪が肩先に広がるのが分かった。


「こんな姿になっちゃったわ」

 私は毛先をつまみあげて笑った。長い髪は女の命であるが、私は今、おそらくは尼削ぎ姿よりもみっともない様子になっていることだろう。


「まったく、お前はいつも無茶をする」


 そんな姿にもかかわらず、康行は笑わなかった。


「でも、あんたが人を斬らなくて良かったわ。私のために苦しむなんてバカみたいよ」


「違うよ。お前のせいじゃない。侍になる事は俺が望んだ事だった。なのに俺は、お前の半分も覚悟ができちゃいなかったんだ。侍にならなくったって大将様を守る方法はあったはずなのに、簡単な道を選んでおいて、そのくせ自分の度胸のなさを後悔していたんだ。あまりに俺が弱過ぎたんだよ」


「でも、康行は私を二度も守ってくれたわ。大将様や、姫様も守ってくれた。人を殺す度胸なんかより、ずっと大切な勇気があるわ。弱くなんかない」


「そして危うくお前を失うところだった。一度目はお前の心を、今度は命さえ失うところだった。俺は気づいた。失った命を悔いるよりお前を守る方がずっと大事な事だった。もう、苦しんだりはしない。だが侍はやめるよ。やはり俺には向いていない」


 康行がやっと見せた笑顔は寂しげなものだった。


「私も、もう、姫君様の元へは戻れないわ。この姿では御簾の内には入れないもの」


 私は肩に揺れる切れた髪を見た。


 長い黒髪は女人の命。つまり、女人の髪は長くなくてはならない。髪を短くすると言う事は女人では無くなる事。まだ女人ではない幼子か、俗世を断って人の世で生きることを捨てる、尼となるかしかない。


 尼でもない女人が、短い髪で高貴な方々がいらっしゃる御簾のうちに入るのは許されないことなのだ。



 私は悲しかった。康行を傷つけた上に、姫様にお仕えする事も出来なくなってしまった。


 もう、私に帰る場所は無い……。


「気にするな。髪はきっとまた伸びる。それまでの間、一緒に郷里に帰らないか? お前の父親には遠く及ばないが、俺も出来る限りお前の面倒を見るよ」



「康行と一緒に? だって、康行には大将様が」


「大将様は大丈夫さ。主上がお守り下さる。主上も前帝様はお身内と言う事があって、なかなか思い切った事はなさらなかったが、今回は御親友の大将様のために動いて下された。これからもきっとお守り下さることだろう。これ以上の強い庇護者はおられない。今度の事で三条殿の姫君の話も流れることだろう。姫君には気の毒な事だが、そこは大将様も気をつかって下されるに違いない。俺は元通り、馬を売って暮らすよ。その方が俺にはあっている。花房、一緒に帰ってくれるかい? お前の父上には、必ず許しをもらうから」



 私は驚いた。そして嬉しかった。ただ、ただ、嬉しい。でも、姫様と離れる事は悲しい……。


「姫君様に、もう、琴をお聞かせすることは出来ないのね」

 私はぽつりと言ったが、


「そんな事は無いさ。髪が伸びたらまた、女房として仕えればいい。俺はお前を縛ろうとは思わないよ。お前はこれくらいであきらめるような女じゃない事は分かってる。無理に俺の妻になれとは言わない。ただ、今だけはお前を郷里に連れて帰りたい。お前の髪が伸びるまで、俺が馬を育てるまで、お前の元に通いたい。その先はお前が決めればいいさ。たとえお前が都に戻ろうとも俺はお前を待っていてやるよ」

と、康行は言う。


「男が女を待つなんて聞いたことが無いわ」

 私はあきれていったが、


「俺は変わり者なんだろう。変わり者のじゃじゃ馬を相手にしようなんて男は、変わり者でちょうどいいさ。どうする? こんな男は他にはいないぞ? それとも歌の一つも贈らないと、答えられないのか?」と、言われてしまう。



 私は思いっきり康行にしがみついた。


「そんなことないわ。康行、私に櫛をくれてありがとう。馬にも乗せてくれてありがとう。歌ももらって嬉しかったわ。でも、もう何にも要らないわ。今は康行がいてくれればいい。いつかは姫様の元に戻りたくなるだろうけど、でも、今はあんたさえいてくれれば、何にも要らない」


 私はやっと本音が言えた。そう、いつかはまた、姫様に仕えたくなるに違いない。けれど今は確かに康行が一番大切だ。康行の一番近い所に私は居たい。


「帰ろう、花房。俺たちの故郷に。そしてまた、元気を取り戻すんだ。元気を取り戻す事ができれば、俺達はまた、それぞれの目的を見つけて歩いてゆけるだろう。その時にはきっと都に戻って来る。そしてお前は都で一番の琴を弾いて、俺は都一の名馬を大将様に献上するんだ。そのために俺達は一緒に帰るんだよ」

 


 故郷に帰る。康行と共に。


 康行は私の母の事など知らない。私がお父様に戸惑いと不安を抱いている事も知らない。私が故郷に帰ると言う事は、そう言う事に決着をつけに行くと言う事だなんて、全く知らずに言ってくれている。


 帰れば私はお父様に、お母様の事を問わずにはいられないだろう。そして、お父様も私にお母様と結ばれた事情を話してくれるだろう。


 その時に、良い話が聞けるのか、聞かなければよかったと後悔することになるのかは分からない。ひょっとしたら、辛い話を聞かされることになるのかもしれない。あの家にいる事は苦しい事になるのかもしれない。


 それでも、康行と共に帰れるのなら。


 あの、武蔵の山々から吹き下ろされる、風の匂いを思い切り吸って、その隣に康行がいてくれるのなら。


 たとえ真実を知ってあの家にいられなくなろうとも、康行のそばにいられるのならばどんなことにも耐えられる。


「いいえ。都で一番になんかならなくてもいいわ。私の琴は、私に友情を下さった人たちの想いを伝えるためにあるの。その想いさえ伝えられれば、私には十分なの。そのために、いつか私はここに帰って来るんだわ。康行、あんたと一緒にね。私はあんたを待たせたりなんかしない。ずっと一緒よ」


 そう言って康行に顔をあげて見せようとして、髪の短さに気がついた。顔の周りに切れた髪がハラハラと童女のようにまとわりつく。


「ごめんね。こんな髪で」

 思わず言ってしまったが、


「なあに。おかげでお前は俺と帰る気になってくれたんだ。俺もあの男を斬らなくって良かったよ。お前がその気になったのはあの男のおかげだからなあ」

 と、言って笑いながら私の短い髪をなでてくれた。


「お前が琴に込めている想いは分かっているよ。先日の音色も優しくて美しかった。あれを聞いて俺は、何があってもお前だけは守りたいと思ったんだ。お前の琴が俺に勇気をくれた」


 そう言って、そっと抱きしめてくれる。


 ううん。勇気をもらったのは私の方。康行と一緒なら、どんな真実だって受け入れられる。


 そのために私は、故郷に帰るんだわ。



「それにしても髪が短くてもお前は似合うな。おっと、余計な事は言わない方がいい。お前の事だから、都恋しさに調子に乗って、やんちゃ者の尼にでもなられたらたまらないや」


 そう言って康行は笑っていた。





当時の女性の美人の第一条件は、髪が豊かで長い事でした。

どんな容姿よりも髪の長さが一番の尺度として扱われていたようです。髪の長さが七難隠した時代があったんですね。

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