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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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陰謀

 忠長は足取りも軽く、月夜の下、都大路を歩いていた。いつもは主人の車に寄り添ったり、馬の横に徒歩で付き添ったりして歩くか、仲間たちと連れ立って歩く事が多いが今夜は一人だ。


いや、昨日も一人、おとといも一人歩きだった。何故なら、結婚のためにやすらぎの元へ通っているのだから。


 今夜は三日目の晩、三日夜の宴の晩だ。


 宴と言ってもまだ若い彼の身分ではやすらぎの両親と身内、彼の親しい仲間が数人殆んど冷やかしまぎれに酒と肴を楽しみにしているような物で、質素な、ささやかなものである。


 それでも忠長は満足していた。年は若いがしっかり者で、声が良く、見た目も可愛らしいやすらぎは親元も良く、忠長の仲間内でも狙っている男は少なくは無かった。


 しかし、中納言家の一の姫の女房の上、母親は姫の乳母。御簾の奥で働き、母親がいつもそばについているやすらぎに、手紙を送るのはなかなか骨が折れた。



 正直、手紙さえ送れればそれなりに自信が忠長にはあった。やすらぎは一の姫の乳姉妹。自分だって若君の乳兄弟だ。権門の家に仕える出自のいい女房を手に入れられれば得だと考えているような輩の、自己保身が透けて見えるような誘いには、やすらぎは乗らないはずだ。



 乳兄弟として主人に仕えると言う事がどういう事か、自分とやすらぎには分かっている。血こそ違えども、共に育ち、共に学び、それでも、その家の繁栄があってこそ、主人の健やかな成長があってこそ、自分の人生が成り立つ。人に仕えて一生を生きる覚悟を持つというのがどういう事か、やすらぎとは共に分かち合う事が出来る。


 

 信じる心と、支える愛情がどういうものかを彼女は知っているはずだ。


 

 そんな事も知らずに、彼女の噂と、出自につられて口説きにかかる様なやつらに、負ける訳が無いと思っていた。


 余計な甘言は一切使わなかった。もしも気持ちが動いたら、自分と逢って欲しいとだけ書いた手紙を、母親の一瞬の隙をついて、若君の手紙の下にこっそり忍ばせ、目くばせをしただけだ。


 その代わり、手紙を渡す前には十分に自分の事を見てもらえるように、工夫を凝らした。見た目に自信がある訳ではないが、若君に仕える態度がどれだけ真摯なものであるのか知ってもらう努力をした。自分を良く見せる事よりも、その方がやすらぎには効果的だと分かっていた。


 そして、やはりやすらぎは、色よい返事をよこしてくれたのだ。



 実際に逢えるまでには時間がかかったが、忍びやかな文のやり取りで、互いの気持ちは十分に伝わっていたので、あせる必要もなかった。そしてやすらぎは受け入れてくれたのだ。


 そうやって迎えた結婚。そしてついに迎えた三日夜。足取りだって軽くなろうと言うもの。


 明日には中納言家の姫が、大納言家の若君の北の方となられる。そうなれば北の方をお迎えするお世話で、こっちも忙しくなってしまう。やすらぎだって同じだろう。夫婦で睦まじくできるのは、今夜をすぎるとしばらくは難しくなってしまう。だから余計に今夜は特別なのだ。


 一刻も早くやすらぎの元へ、と思う反面、冷やかすのを手ぐすね引いて待っているであろう仲間達を、ちょっとじらしてやろうかなどとも考えてしまい、歩を緩めたり、先を急いだりと、落ち着きのない歩き方をしてしまっている。


 そんな落ち着きのない歩き方をしていて、何度目かに歩を緩めた時に、不意に夜風に乗って人の話し声が耳に入ってきた。


 忠長は一瞬ひやりとした。夜の京の街は物騒だ。物取り、強盗の類が暗闇で待ちかまえていることもざらだ。思わず足を止めてしまう。この辺は下町なので小さな建物の間は暗闇で、悪党が潜んでいてもおかしくは無いのだ。


「では、姫君の行列が三条の大路を通る事は間違いが無いんだな?」

 ひそひそと囁くような声がする。


「ああ、ここだけはどうしても避けて通れないはずだ。この辺の警護の者には金をつかませてあるが、あの方のお力を借りれば、より、手薄にする事も出来るはずだ。旨く行けば大将殿の動揺は相当なものだろう」


「中納言殿も……しっ!」


 会話が突然途切れる。忠長はとっさにモノ売りか何かが出しっぱなしにしていたらしい荷物の裏に身を隠した。じっとして、息まで止めてしまう。


「何か影が映っていた気がしたが。樹の陰か?」


「またあとで連絡する」


 そして人が立ち去る気配。やがて周りは静寂に包まれた。忠長はようやく息を着いた。


 これはえらいことだ。役人に知らせるべきか? いや、警護の者に金をつかませていると話していたのだから、役人はあてにはならない。中納言家に伝えるか? それならやすらぎの母親に直接伝える方がいい。何せ、姫、いや、若の北の方になられる方の、乳母なのだから、一番確実だ。


 忠長は浮かれた気分から一転して、やすらぎの実家へと駆け出していった。




 一方、やすらぎの実家では、酒や肴の用意も出来て、花婿はまだかと意気揚々として待っていた。


 だからその花婿が案内も乞わずに転がるように飛び込んで来た時は、皆、唖然としてしまっていた。


「たっ大変です! 中納言家の一の姫が何者かに狙われています!」


 忠長は息も切れ切れに、事の次第を説明した。


「暗い路地裏の事なので、賊らの顔も分かりません。声もかなり忍ばせておりました。しかし、明日、姫君が三条のあたりで狙われる事は間違いないでしょう。検非違使の役人をつかさどる三条殿の目と鼻の先で警護の者を買収するほどの輩です。何が起こるか分からない。御移りになる日取りを変える事は出来ないものでしょうか?」


「それは難しいと思いますわ。でなくても、占いに手間がかかってなかなか日取りが決められなかったんですから。これ以上日を伸ばすとなると、御移りになること自体、難しくなってしまうでしょう。それでなくても中納言様はあせってらっしゃるのに」


 やすらぎの母は几帳越しに狼狽しながらも、大納言家にチクリと皮肉を込めた事を言う。


「だったら、警護を厚くするとか、三条のあたりをしらみつぶしに見回るとか、何らかの手を打たないと。姫君の身の安全が一番大切な事なのですから」


 主人の家への皮肉にめげることなく忠長は言った。


「そうですね。とにかく私が中納言家に知らせに行きます。下男に行かせるよりも話が早いでしょう」


 やすらぎの母がそこまで言った時、奥からやすらぎが顔を出した。母親が慌てて娘を押しとどめる。


「何ですか! 人の妻が人前に顔を出そうとするなんて!」


「そんなことかまっていられませんわ。姫君様の身に危険があると言うのなら、私もすぐ、姫君様の元に行きます」


「落ち着きなさい。すぐにどうこうということではありません。明日の事について、中納言様にご相談申し上げて来るだけです。あなたも人の妻になられようと言うのに、そんなに軽々しくてどうしますか? 明日には姫君様の元に行けるのですから、まずは部屋にお戻りなさい。忠長様、やすらぎをお願いします。あなた、この御友人方をお送りがてら、大納言家にもこの事を伝えていただけませんか?」


 妻に言われて、やすらぎの父も慌てて支度を始める。妻の牛車の用意や、自分の馬の用意をさせる。客達も帰り支度をし始めた。忠長は無遠慮にやすらぎの部屋に入ってきた。


「なんです、不作法に女の部屋に入って来るなんて」

 やすらぎは八つ当たり気味だ。


「何が不作法なもんか。俺はお前の夫だ。黙っていたら、お前は一の姫様のところへ飛んで行ってしまうじゃないか」


「当たり前じゃないの。姫君様は私の御主人なのよ」


「そんなの俺だって同じだよ。俺の大事な若君の北の方になられる方だ。だが、今はいけない。お前を放す訳にはいかないぞ」

 そう言って忠長は小さな餅が盛られた器を差し出した。夫婦が契りを交わした証し、三日夜の餅だ。


「明日になれば俺達は若君、いや、殿とお方様の事で頭がいっぱいになるだろう。俺達はそういうふうに育ってきているんだ。他の事なんて考えられなくなってしまう。だから、今夜はどうしてもお前と無事に共に過ごしてこの餅を食べてもらうまでは、お前をこの部屋から出さない。殿とお方様に負けないくらい、俺はお前が大事なんだ。文句があるか?」


 そう言って忠長はどっしりと腰を据えてしまう。やすらぎの着物の裾をつかんだままで。


 やすらぎはじっと忠長の顔を見ていたが、やがて不満そうだった顔を和らげると、黙って忠長の横に寄り添った。そっと、その頭を忠長に持たせかける。


「かえって、うるさい冷やかし屋達が居なくなってせいせいした。最高の三日夜だ」

 そう言って忠長は笑って見せた。


 つられてやすらぎまで、一緒に笑いながら


「肝心のお餅を召しあがるのを、忘れないでくださいね」と、言った。





庶民的な貴族がどのくらい正式に手順を踏んで結婚したかは、私は知りません。

婿取り婚の前は、もともと呼びあい婚で、男性が女性に契りをかわす意思があるかと尋ね、女性がそれに応えて関係が出来た後、一度ではそれが継続されるか分からないので、男女が長く関係を続けている事を周りが認めて初めて結婚として認められていました。


それが形骸化され、三日間男性が通う婿取り婚となったので、結婚と言うのは事実婚が重要視されていたという事なのでしょう。

ですから庶民的な身分では、もっと簡略化されていたかもしれません。


かなり私のイメージ中心で書いています。誤解のないようにお願いします。

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