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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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三条邸

「何をしているんだ? 交代の時間だろう?」

 同じ侍者の仲間が、康行に声をかけた。


「ああ、すまない。ちょっと、ぼうっとしていた」


「大丈夫か? 今夜もお前は若君に付き添って、三条様の邸でおこなわれる花見の宴の護衛をするんだろう? 不安があるなら俺が代わってやってもいいぞ」


「いや、大丈夫だ。心配いらない」


 皆、自分が夢にうなされ、苦しんでいることをよく知っている。侍者を辞めて故郷で馬を育てればいいと言ってくれる者もいる。若君に尽くすのは、何もおそばに仕える事ばかりではないと言ってくれる。


 それでも俺はここを離れようとは思わない。少なくても、今は離れてはいけないと思う。


 今、都を離れると言う事は、自分に負けると言う事だ。若君の身を守り、花房の行く末を見守ることを、俺は目標にしていた。都を離れて故郷に逃げ帰るのは、自分の苦しみに負け、目標を放り投げるのと一緒だ。今、故郷に帰ったからと言って、人を殺した苦しみは逃れられるものではないのだから。


 それに、あの琴の音。


 俺には高貴な方々のように、演奏の良し悪しなんて分からない。何が上手くて、何が下手かもよく分からない。


 だが、花房の琴の音は何かがこちらに伝わってくる。時に心苦しく、時に心優しく、耳の中に寄り添うように、心の中にしみこむように、あの音が何かを揺さぶってくる。


 さっきの音色は、いつも以上に優しい音色だった。苦悩も罪も、まるで洗い流される様な、すべての事が許されるような音色だった。


 この音を絶やさせてはいけない。花房を見守ってやらなければいけない。何故か、強くそう思う。


 花房の琴の音は、俺に必要な勇気をくれるんだ。



 そんなことを考えていたら、そばに撫子が寄って来た事に気がついた。しかも、その頬が濡れている。


「どうしたんだ? こんなところで。泣いているのか?」

 驚いて声をかけると、


「違うの。ごめんなさい、付け回してしまって。今、あの琴の音を聞いていて……。あの琴は、花房様が弾いていらしたのでしょう?」


 そう言って、撫子が袖で涙をぬぐった。


「美しい、優しい音色だったわ。康行を心から慕う音色だった。康行にも分かっているんでしょう? 花房様も康行の事がお好きだと」


 そして、目を伏せて苦しげな声を出す。


「私、花房様に申し上げたの。もう、康行をかまわないでって。花房様が御簾の内におられる以上、かえって康行を苦しめるからって」


「撫子」


「でも、そんな事は無いのね。あんなに素晴らしい琴の音で、花房様は康行を慰めて下さる。康行も花房様のお心を想いやってあげている」


 撫子は軽く首を横に振った。


「あんなことを一方的に告げたのに、私達はただの通りすがりだと言って、花房様は私の名をお聞きにならなかったの。強い、お優しい方なのね」


「……あいつらしいな」


「私なんかには敵わないわ」

 そう、撫子はほほ笑んだ。


「そんな事は無い。撫子は本当に優しい娘だよ」


 そう言うと、撫子の笑顔に少し、さびしげな影が加わった。


「俺よりも、その優しさに似合う奴が必ずいるよ」

 康行がそう言うと撫子は、


「その言い方、ずるい」

 と言って、口をとがらせた。


「綺麗な端切れをありがとう。そして、素敵な気持ちも。思い出にするにはまだ悲しいけど、ずっと大切にするわ」


「すまない。ありがとう」

 そう返事をすると、撫子はどこか満足そうな表情で、頷き、去って行った。


 本当に可憐な少女だったと、康行は思った。




 その夜、三条様のお邸に向かう前に若君からお呼びがかかった。しかもこっそりと耳打ちされる。


「すまないが、三条の邸に行ったら向こうの下人達の噂話を、聞き集めておいて貰えないか? どうも三条殿は気の許せぬところがある。検非違使の役人の態度も良くないらしくて、主上もひっかかっておいでらしい。こういう事はお前にしか頼めないのだ」



 無事に三条邸に着くと高貴な方々は早速、春の宵の桜の宴を楽しみ始めた。


 お付きの従者や侍者の我々は、ささやかな酒と肴をもてなされたが、食事はともかく、酒はほんの口を湿らせる程度に抑えなければならなかった。


 近頃は帰り道が物騒だ。こちらの姫君の元へは通うと言ってもご結婚なさるまではお泊りにはなれない。宴が終われば暗い夜道を遅くに帰らなければならないので、若君をお守りする立場の我々が酔う訳にはいかない。


 しかし、おりしも桜は満開の時。宴は盛り上がり、高貴な方々は上機嫌で下々の下男下女にまで酒がふるまわれたらしい。帰り道の心配がない三条邸の使用人たちは、いい機嫌で酔っ払っている。


「三条殿はご機嫌なようだな。使用人にまでこんなに酒をふるまって下さるなんて。羨ましい限りだ」


 康行は三条邸の侍者に声をかけた。


「まあ、今は勢いがおありになるからな。以前は結構ケチで、冬の炭まで使う量に文句を言っていたもんさ。それがどうだい? 最近は物取り、強盗の類を捕まえているおかげで、春の宴の振る舞い酒。お宅の若君のような公達まで娘婿に迎えようっていうんだから、雲泥の差だよ」


 酒のせいか、侍者の口もなめらかに動いている。様子からすると同郷か、似たようなあたりから上京した者に思えた。それで気を許しているのかもしれない。


「三条殿はこのところ、ご活躍が目立つからな」

 康行はそう、水を向けた。


「そのご活躍って奴も、ちょっと怪しい感じなんだがな。大きな声じゃ言えないが」


「どういう事だい?」


「実はこの間捕まったはずの盗賊が、こっそりこの邸にかくまわれていたようなんだ。広い邸だから一部の者しか姿をみなかったそうだが、人相は確かにその盗賊だったそうだ。検非違使を使うのが三条殿になってから、いやに盗賊達を捕まえるのが素早くなったのは、案外三条殿が盗賊達の手引きをしていてわざと捕まえては逃がしているんじゃないかって、下男たちの間で噂になってるんだ。……噂だぞ、あくまでも噂」


「ああ、分かってるよ。噂だな」


「今時、お偉い方が悪党を使いこなすってのも、ない話じゃないからな。あの、先の帝もそうだったって言うじゃないか。ひょっとしたらまた、前帝が裏で手を引いているんじゃないか? あの方も帝の位を降ろされてから、すっかり執念深くなられているようだし」


「そうかもしれないな」


「こういう時は帝がしっかり、兄の前帝を処分しなければ世の中は安定しないんだがな。他に誰も前帝を諌めたり、押さえつけたりできる者はいない。だが、今の帝はどうも情に流されやすい。特に身内に甘過ぎるから前帝だってつけ上がるんだろう」


「御兄弟の事でもあるし、帝位をあんな追われ方をなさっているからな」


「まあ、どっちにしたって、そのおかげで俺達は美味しい思いが出来ているんだから、文句は無いんだ。だが、三条殿が危ない橋を渡っているならいつまでものんびりはしちゃいられない。何処でこっちにとばっちりが来るか分からない。なあ、あんた。六条殿の邸に仕えてるんなら、俺を紹介しちゃもらえないか? そろそろ俺も鞍替えしないと。高貴な方々が右往左往しようと関係ないが、こっちは飯が食えるかどうかがかかってるからな」


 そう言われると康行は苦笑いを浮かべるしかない。身分の高い貴族たちは自分達のようないやしいものを人もなげに扱ったりもするが、庶民は庶民で世の中の事より自分の事。明日も飯を食っていけるようにしたたかに生きて行くものなのだ。


 どんな身分であろうとも、この都で生きて行くのは生易しいことではない。


 上の者は下の者を見下しているし、下の者は上の者を影で嘲っている。悪党であろうと、善人であろうとそれは同じだろう。

 

 悪党だったとはいえ、俺はそうやって日々、懸命に生きていた命をこの手で奪ってしまった。


 そうまでして助けた花房の命だ。やはり俺は彼女の人生を見届けてやりたい。


 たとえ世界が違ってしまっていても。

 




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