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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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上達部(かんだちめ)

 それから私は、毎晩琴の練習に励んだ。もしも失敗しようものなら、自分の恥は勿論、家族や、この中納言家の人々にまで恥をかかせてしまいかねない。


 私は父親が下衆げす(庶民)の娘という事で、陰ではいろいろ言われているはず。そんな私が大切な席で失敗などしようものなら、中納言家に泥を塗るようなものだろう。


 皆が忙しげにしている中での練習なので、私は遠慮をして、局と呼ばれる私達女房の宿泊場所の前にある縁に出て、一心不乱に琴を弾き続けていた。康行の話を聞いてしまった後なので、少し不安ではあったが落ち着いて弾ける場所が思いつかなかったのだから仕方がない。だから人の気配には全く気付かずにいた。


 ふと、品のいい匂いがした。焚き締められた香のにおいだ。


 女物の香ではない。中納言様の香でも、その従者の匂いでもない。だが明らかに上質な、貴人が使うであろう香りがする。しかしここは姫君の部屋の近く。いくら寝所からは遠いとはいえ、男性の貴人が案内も乞わずに入ってきてよい場所ではないはずだ。私は一気に緊張した。

 こういうことは全くない訳ではない。姫君の元に男君が通う時は、従者や女房、あるいは従者の知り人の上達部にとっても、逢引の機会になっている。昼間、手紙で連絡を取り合って、夜、人気のない場所でこっそり逢瀬を重ねるのは、恋人同士にとっては常識だ。だが、この香はあまりに上品すぎる。それに女人の気配も感じないのだ。



「良い、音ですね。もうしばらくお聞かせいただきたかったな」


 そう言って、暗闇の中から一人の上達部かんだちめらしき貴人が現れた。すっきりとした顔立ちの、十七、八の青年だ。私は慌てて扇を広げて顔を隠した。いや、隠そうとした。


 女が貴人に顔を見せるのははしたないこと。不用意に縁に出たりせず、御簾の中から顔を出さず、いざという時は扇を開いて顔を隠すのがたしなみ。そんな事わかっちゃいるけど、不慣れなしぐさに私はうろたえ、うっかり扇を落としてしまう。上達部はクックと笑いながら私に扇を拾ってくれた。


 私はあらためて扇を広げ直し、すでにバッチリみられてしまったであろう顔を隠し直した。顔を見せるということは裸を見せてもかまいませんと、宣言したも同じこと。大失態だ。自分が一気に安っぽくなった気がする。


「どなたかとお約束があるのでしょうか? あいにくこちらには誰もいませんけど」


 精いっぱい気取った声を出す。とにかく落ち着かなくては


「約束事があった訳ではないのですよ。従者や下男、侍達の取り繕わぬ姿を垣間見ようかと思いましてね。するとこちらから美しい琴の音が聞こえたもので」


「琴は音を楽しむもので、演奏者の姿をご覧になるものではありませんね」


 私はわざと相手を非礼だとたしなめた。私の方の失態ではあるけれど、こっちは女。こういう時に身分がどうのと言っていたら、舐められてしまいそうだ。


 すると上達部はプーっと吹き出してしまった。そしてとうとう本格的に笑い出す。


「武蔵の国のじゃじゃ馬姫から、そのような言葉が聞けるとは思いませんでした」


「私を御存じなのですか?」


 私はビックリした。実は都に来てから若い公達(公家の若者)をこんなに間近に見たのは初めてのことなのだ。何故私を知っているのだろう?


「侍所の康行から聞きました。武蔵のじゃじゃ馬姫は琴の名手で、今は局で毎晩琴を弾いていると」


 また康行! なぜ、身分の低いあいつが、この方とそんな話をしているのよ!


「ああ、気になさらないでください。康行は私にとって特別なのですよ」


「特別?」


「私は馬が大好きでね。特に流鏑馬やぶさめの馬にはことさら凝っているのですよ。康行は良い馬を育てる名人なんです。彼はもう、何度も都に来ていて、そのたびによい馬を用意してくれる。ただの侍として飼うにはもったいない男です。身分がら従者にする訳にはいかないが、大納言家でも、彼のことは一目置いて、信頼しているのです。初めて大納言家に来た時も、私の可愛がっていた馬が生きるか死ぬかの瀬戸際で、康行の適切な治療と、懸命の介護のおかげで命拾いをしたんです。それにお互いに馬好きですから私は彼と気が合うんですよ」


「康行と気が合うんですか?」


 立派な公達が、康行なんかと気が合うのか。荒々しげな武蔵の侍と。


「あなたは誤解している。康行の刀の腕は決して悪くはないが、あれはそんなに荒ぶった男ではありませんよ。一頭の馬のために身を尽くして世話の出来る優しい男です。白状すると、そんな康行がお気に入りの武蔵のじゃじゃ馬姫とはどんな女人なのか、確かめてみたくてこっそり垣間見に来てみたのです」


 最初から私が目的だったっていうの? いかにも貴公子と言った風情の方が、なんとまあ。


「あなたは大納言家の方なのですか?」


 私は聞かずにはいられなかった。


「ゆかりのものですよ。こちらの姫君はもうすぐ大将とご結婚されますね。姫君はどのようなお方ですか?」


「お美しい、というよりは愛らしいお姫様です。御心も優しくて決して声を荒げたりなどなさらない、私のような、取るに足らない者にまでとてもよくして下さいます」


「あなたが姫君のお気に入りだということは聞いていますよ。あなたを見れば姫君の人柄も分かるようだ。武蔵の国には素朴でよい人柄の人間が多いのでしょうね。よい国なのでしょう」


 私は気を良くした。郷里を褒められて悪い気はしないものだ。


「大将も、康行がお気に入りですよ。あなたの姫君とも相性が良いことでしょう。この縁組はきっと良い縁組になる。社会的な事だけではなく、姫君のお幸せのためにもね」


 そう言って上達部は立ち去ろうとする。


「あの、あなたは……」


「私がここに来たのは誰にも内緒ですよ。私のことならすぐに分かるでしょう。では、宴の琴の音を楽しみにしています」


 そして上達部は去って行ってしまわれた。私は呆然とするばかりだった。



「内緒ですよ」とは言われたが、私はこの一件を内緒にしておくつもりはなかった。あまりにも危険すぎる。


 私が世間知らずでも、深窓の姫君のお部屋近くに、高貴な身分に見えたとはいえ若い男がうろうろしていていいはずがないことくらいは分かっている。


 昨日の様子や話しぶりから見ると、暇を持て余した大将様のお知り合いの方が、康行から何かしら私の話を面白おかしく聞かされて、いたずら心を起こして私をからかいに来られたのだろう。


 ただ、ここはご婚礼前の姫君の住まうところ。しかもいつも以上に厳重な警備が敷かれている中での出来事である。どうやって忍んでこられたのかは分からないが、放っておくわけにもいかない。


 それに若君の事を「大将」と、軽く呼んでいらした。少なくとも従者や、乳兄弟ではない。もっと上の方だ。


 身分の高い方は、実の親子でさえも簡単に訪ね歩くことはない。同じ邸のうちでさえ手紙のやり取りをする。


 昨日の公達はこう言っちゃなんだけど、ちょっと軽々しい方なんじゃないかしら?


 そういう方が何か間違いでも起こせば、大変な事にもなりかねない。でも、いきなり姫君に言うのもちょっとなあ。


 康行の事に随分詳しそうだったし、ひょっとすると康行があの公達にそそのかされて庭先に通したのかもしれない。


 私に気をつけるように言っておきながら、油断も隙もありゃしない。




「そんな事があったの? なんだか信じられないわ」


 私と局で同室になっている桜子は、目を丸くしてひっそりと声を立てた。


「私は康行が手引きしたんじゃないかと思っているんだけど」


「そうかもしれないわね。警備にあたっている本人でもないと、今の邸の守りをかいくぐるのは難しそうだわ。ねえ、これはそれとなく姫君様に伝えておいた方がいいわよ」


 桜子は珍しく人のいい顔を曇らせていう。


 桜子は私と女房仲間で二つ年上。越後の国の受領(国司)の娘で、越後育ちだ。とても色が白い。


 私が来る前は彼女も田舎受領の娘という事で、肩身の狭い思いをしていたらしいが、人のよい、おとなしい人柄の優しい娘だ。同室になってみると、意外に明るいところもある人だと分かった。肩の凝らない人なのだ。


 彼女は私に同情的で、自分と似たような立場の私をかばいたくなるようだ。最も私の身分では本来彼女の下に召し使われてもおかしくないのだけれど。


「でも、警護の侍が手引きしたかもしれないなんて、姫様を怖がらせるだけなんじゃないかしら?」


 私はためらう。


「康行の事を心配しているのね? そこまではっきり言う必要はないわ。約束した女房の誰かと落ち合えなかったらしい公達が、庭先をさまよっていたとでもいい繕っておけばいいのよ」


 桜子はこういうことにも物慣れていて、すぐに知恵を授けてくれる。ちょっとだけ康行が心配でもあった私は、その知恵に乗って姫様にご報告した。



 その日の昼間、その康行が私に声をかけて来た。


「お前、昨夜、上達部と話をしたんだって?」

 はっきりとご機嫌斜めな顔が浮かぶ。


「私だって姫様付きの女房だもの。そういうことだってあるわ」

 私はつん、としたまま答える。


「あんたの事に随分詳しい方だったわ。本当はあんたがあの方を忍びこませたんじゃないの?」


「俺がそんなことするもんか。この間注意したばかりだってのに、顔まで見せたそうじゃないか」


 私は真っ赤になった。そんな事まで聞いているのか。


「偶然見られちゃっただけよ。だいたいあの方だって軽々しいわ。ここは大将様のご結婚相手の住まわれている場所なんだから。一体どういう方なのよ? あんた、知っているんでしょう?」


 思わずまくしたてる。


「そんなこと教えられない。まったくなんてじゃじゃ馬だ。琴ぐらい御簾の奥で弾いていられないのか? 夜に貴人の前で顔を見せればどういうことになるか知らない訳じゃないだろう」


 康行も言い返してきた。


「あら、それならそれで結構よ。私が女の身で出世の糸口をつかむかもしれないじゃないの。そうなれば誰も私を見下せなくなるし、お父様の立場もずっと良くなるってものよ」


「お前、本気で言ってるのか? お前の身分じゃ殆んど間違いなく愛人扱いだぞ。暮らしに困った親無しの娘ならいざ知らず、わずかばかりの地位を上げるために本妻の方々に一生頭を下げ続ける人生を送って、何が出世なもんか。そういう女は表はともかく、裏では男達に見下げられているんだぞ。よく考えろ」


 考えてるわよ。別にそれほど本気で言った訳じゃない。康行が面と向かって「顔を見せた」なんて言うから、引っ込みがつかなくなったんじゃないの。どうして東男って、繊細さの欠片もないんだろう?


「少なくてもあんたみたいな侍なんかの相手をするよりはよっぽどましだわ。それに私がそんなに簡単に男君を近づけると思ってんの? 馬鹿にしないでよ」


 私は心とは裏腹な事を言っていた。あの時は顔を見られてしまった事に動揺した上、初めて若い公達を前にして、すっかり普通ではなくなっていた。私は身分が低すぎるから、本気でかかられれば誰にも助けてはもらえないだろう。向こうもあまりみっともない真似はしないだろうけれど、経験が無いので本当のところは分からない。


 正直、今頃になって冷や汗の出るような思いをしている。


「じゃじゃ馬のお前なら大丈夫か。思ったよりは冷静だったんだな」


 全然冷静ではなかったのだけど、私にだって意地がある。ここは誤解しておいてもらいたい。


「今日はうちの若君がこちらを訪ねにくるぞ」


「え?」


「中納言様にお話があるらしい。姫君のところへもご挨拶があるだろう。それですべて分かるさ」


 そう言うと、康行は私の返事も聞かずに不機嫌そうに去って行ってしまった




上達部と言うのは内裏に勤める官人達の中でも、昇殿が許された人たちの事です。具体的には三位より上の公卿と、参議が昇殿を許されていました。

貴族の中でもとても位の高い人たちです。


それから邸に勤める女房達は、局や曹司と呼ばれる部屋をあてがわれ、暮らしていました。邸の規模や雇われている人の人数などにより、個人部屋となったり、複数の相部屋となったりしました。


受領は各地方の国を治める人の事。今だったら各県の県知事のような立場です。

とはいえ、各地方はそれぞれ一つの国と認められていましたし、その国を司っているのですから、国の中での権力は絶大です。


ただし、国によって富める国もあれば貧しい国もあります。

よい国は特に知行国と呼ばれ、有力貴族、寺社、武家に国司を推薦し、納められる収益を得る権利がありました。


実質的には帰京後の出世が約束された時の権力者の子息や、皇室ゆかりの人々が任ぜられる事が多かったようです。



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