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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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甘い時間

 ここにきて私はどれだけ康行に甘えていたのか思い知った。いや、康行だけじゃない。大将様にも、姫様にも、やすらぎにだって甘えていた。


 大将様だって、三条の姫君をお迎えになる以上、より、姫様との絆を深めなければならない。姫様を正妻として御身の内に置きながら、もし、三条様よりもお通いが少なくでもなろうものなら、口さがのない都人は何を言うとも分からない。かと言って、三条の姫を軽んじるそぶりを見せれば、これも立場を危うくするだろう。きっと、私どころではなくなるはずだ。


 姫様だって、まだそうとうお若いにもかかわらず、身分も責任も一気に重くなられる。ご両親のもとでお暮らしになるのとは違い、大納言家の別邸とはいえ、大きなお邸を一つ、ご自分で采配し、切り盛りしなくてはならなくなる。それに、三条の姫と寵も競わなくてはならないし。これからは大変なはずだ。


 やすらぎだって忙しくなるだろう。何せ、夫が同じ邸の中にいるのだ。自分の実家に通わせて両親が夫の世話をしてくれるのならともかく、彼女は母親とともに邸の中で夫の世話をすることになる。金銭的な援助は実家から受ける事が出来るだろうが、何かの席での衣装の用意や、こまごまとした雑務は母親と二人で実家に伝えなくてはならない。とても、私に気を回す余裕は無くなるはずだ。


 姫君様が北の方となられる事で、色々な事が変わっていく。全てが今までとは違ってしまうのだ。


 今までのように人に甘えていては、姫様をお守りするどころか、自分が都で生きていけなくなってしまう。もう、私は姫様のおそばにしか生きてゆける場所など無いのに。


 これからは本当に覚悟が必要なんだわ。寂しがってなんかいられない。しっかりしなくっちゃ。私は衣装や化粧を直して、あらためて姫様の元へと向かった。


 

 それから私は不用意に御簾の外へ出ないように気をつけた。まして、縁になど近づかない。出来うる限り康行に姿を見られまいとしていた。


 そんな私の様子に、やすらぎが気がついた。仕方がないだろう。それまではちょくちょく縁に出ていた私なのだから不審がられて当然だ。仕方なく私は康行の事を白状した。下働きの少女の事は告げずに。


 あの少女の名前を聞かなくて本当に良かった。これであの人まで傷つけてしまっては立つ瀬がない。


「康行らしいわね。彼はあなたが身代わりになっている事を知らない時でも、全力で姫君様を守ろうとした人ですものね。でも、それだけに心配だわ」


 そうだ。その時やすらぎも私達のそばに居たんだっけ。


「ええ。でも、もう私にはどうする事も出来ないわ。康行自身が立ち直ってくれるのを信じるしかないのよ」


「それはそうなのだけれど。今はね、また物騒になっているの。これまでの盗賊達だけではなく、山賊達まで都に入ってきているらしいの。真夜中に都大路で牛車が襲われたりしているのよ。そういう時に真っ先に盾となって主人を守るのは、従者よりも侍者でしょう? もし、そんな事になったら、康行は大丈夫なのかしら?」


「そんなに怪しげな者達が増えているの?」


 私は不安になった。康行は今後も姫様の護衛につくと言っていた。


「いい話は聞かないわね。三条殿も検非違使を手配して、懸命に賊を追いかけているらしいけれど、捕まるのはいつも雑魚ばかり。数は多く捕まっているけれども、肝心の親玉や、先帝の息のかかった貴族達の尻尾はつかめずにいるのよ。かえって都の外からならず者を呼び集めてしまうみたいで、ちっとも安心できる状態にならないわ。せっかくの桜の季節だと言うのにね」


 そう。季節はすでに桜を満開にしていた。あちこちで毎晩花見の宴が催されている。大将様も、色々お声がかかるらしく、あちらこちらへとお出ましになっているらしい。当然、その後を康行もついて行っているのだろう。


「康行も、向いていないなら侍なんて辞めればいいのに」と、やすらぎは言うが


「ううん。康行は辞められないと思う。私が姫君様から離れられないように、康行も大将様から離れる事は出来ないの。それがどんなにつらい仕事であっても。私には解る」


 そう、私には康行の気持ちがよく解る。康行が私を理解し、認めてくれたように。どうしても解ってしまうんだ。


「花房……」

 やすらぎは心配そうに私の顔をじっと見ていた。




 いよいよ姫様が大納言家の別邸に移られる日取りが決まった。占いに手間がかかったらしく、あと、十日足らずしかない。私達は引っ越しの準備に大忙しとなってしまう。


 大将様と三条の姫の結婚も本決まりになったようで、こちらの引っ越しからひと月の間をおかずにご結婚される事となったようだ。向こうも勢いがそがれない内にと、急いでいるのだろう。


 引っ越しの支度や手続きをするのに、御簾の奥に引っ込んでばかりもいられない。私も寝所の縁や、ひさしの周りに出て歩く機会が増えてしまった。ただし、のんびりと庭を眺める余裕など無く、気ぜわしさに追われて、バタバタと歩きまわるような日々ではあるが。



 そんな中で偶然、康行の姿を見かけた。彼は刀を腰にさし、何やら広げた紙を片手に、仲間の男と話をしていた。おそらく引っ越しのために物を運んでいる者達の、出入りを確認しているのだろう。次々と庭先を通る人たちに、声をかけたり、手を振って見せたりしている。おそらくは皆、顔見知りになっているのだろう。


 康行は皆に愛想のいい笑顔を見せていた。


 私と居る時の康行は、いつも心配そうな顔をしていた。そして時折あきれたような顔もした。

康行が私に見せる笑顔は、少しひねくれた、意地の悪い、からかうような笑顔だった。こんな素直な笑顔を私に見せたことなど無かった。いつだって私をからかって、心配して、それでも目の奥は優しくて、私を元気にしてくれた。故郷の匂いを運んで来てくれた。


 そういえばこんな風に、彼の姿をしげしげと眺めた事もなかったっけ。思ったよりも元気そうだ。表情も雰囲気も、前より明るさが感じられる。良かった。


 そう、康行は私に会わなくても一人でちゃんと元気になった。私もしっかりしなくっちゃ。


 いつまでも立ち止まっていては康行に気付かれてしまう。私はそそくさとその場を立ち去ろうとした。


 ところが去ろうとする気配が伝わったのか、康行がこちらを振り返った。私は慌てて御簾の中に引っ込む。そんなことをしていると何だか急に恥ずかしくなってきた。康行を盗み見るような真似なんて今までした事が無かったから。いやに胸が高鳴った。


 そっと、康行の方を振り返る。康行がその場を去る気配はない。私は近くに琴が置かれている事に気がついた。誰の物かは知らないけれど、ちょっと拝借する。


 私は琴をつま弾いた。出来うる限り優しい音が出るように、康行に届けとばかりにそっと、想いを込めて弾いた。


 そういえば以前、康行は姫様の三日夜の宴で、私の琴の音を聞き分けてくれた。そして良い演奏だったと褒めてくれる歌を贈ってくれている。


 もう、康行とは関わることはできないかもしれない。それなら、せめて。


 私はひたすら心をこめて琴を弾く。康行からは御簾の中にいる私の姿は見えない。それでもまるで見えているかのように視線をじっとこちらにあてている。その視線は何処までも深くて、どこまでも優しい。いつだって康行はこうやって私を見守ってくれた。


 私は琴の音に康行を想う心を乗せた。子供の頃約束してくれた優しさ、都に出てからも私を見守ってくれた優しい瞳。彼に会うたびに感じていた故郷に吹く風の匂い。そんなものをこの音に乗せる。


 目を合わせる事も叶わず、声を掛け合う事も許されない。そんな恋の形を、今、私は初めて知った。この都に暮らす姫君達は、皆、こんな心を抱えて生きているのだろうか?


 そこに仕える女房達も、こんな苦しい思いを幸せに変えるすべを手にしようと、必死に生きているのだろうか?


 康行に見つめられて、見守られながら琴を弾ける幸せ。私はその甘い時間に酔っていた。


 出来るなら、このままずっと、時が止まればいい……。



「康行」


 声をかけられて康行がハッとした。私の手も同時に止まる。

 

 康行はさっきの仲間に顔を向け、どこかへと向かって行ってしまった。


 伝わっただろうか? あの、夜に弾いた琴の音の様に、康行の心に。


 私はしばらく呆然とそこに座り込んでいて、姫様がお呼びだと他の女房に声をかけられるまで気づかずにいた。





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