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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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少女

 それでも私は話を聞いて、頭の中がぐるぐると回っていた。とても落ち着いて考える事など出来ない。初めて聞く母の事、祖父母の事。

 

 ああ、あのお父様が、お母様にそんな酷い事をなさったなんて。


 私はお父様とお母様の、睦まじい愛の中で生まれたのではなかったの……?


 都に出て来る前なら、男君が愛する姫をさらって愛を遂げると言うのは、とても美しい世界だと思っていた。絵巻物や、物語の世界ではそんな風に描かれていたから。


 けれども私は知ってしまった。現実に盗み出される姫は、そのような美しい気持などになれるはずがないと言う事を。


 ある日突然現れた男によって恐ろしい目に遭い、何者かに売り飛ばされたり、殺されたり、母の様に身ごもらせられたりして、つらく、苦しく、悲しい目にあわされてしまうのだ。


 そして私はそんな風にしてこの世に生まれてきた。おそらくは母にとっては望まぬ子として。


 これが本当なら、私はもう、父の元には帰りたくない。いや、帰れない。これまで大切に慈しんで下さった、その心までもが信じられない。だって、どんなに父が私を愛して下さろうとも、それにはお母様を深く傷つけた代償が伴っているから。そんな愛情なんて、欲しくない。


 お父様のために、都で名を上げるとか、人繋がりをよくするとかなんて、考えたくない。


 動揺と混乱の中にはいたが、私は姫様の元に戻る事にした。もう、随分と時が経ったはず。姫様にご心配をかけたくない。


 故郷に自分の居場所を失う以上、私の帰りつける場所は姫様のところしかない。姫様は私をお認めになって下さった。中納言様の恨みなど露ほどもお知りになる事もなく、私自身をお認めになり、私の琴を必要として下さっている。やすらぎだって認めてくれている。

 

 ふるさとを失っても、私の心のふるさとは姫様のおそばだ。


 それに康行も私の琴を認めてくれた。私がここにいるのは確かに中納言様の思惑の結果なのかもしれないけれど、姫様や、やすらぎや、康行が私の琴を認めてくれているのは確かだ。きっと私の琴の音は、他の方々の心にも響いていらっしゃるに違いない。お母様は私を望まなかったかもしれないけれど、お母様の琴を弾く心は、私の中に受け継がれていた。


 お母様。私、琴を弾き続けるわ。何があっても。お可哀そうなお母様の分まで。


 お母様が望まぬながらも生んで下さった命だもの。決して無駄になんかしない。 



 そんな思いで姫様の御寝所に戻る途中、私は突然、誰かに呼び止められた。見ると、下働きの少女が縁の下でかしこまって膝をつき、頭を下げている。よく見ると昨夜康行と会っていた少女だと気がついた。


「お呼び止めして申し訳ございません。私、大納言家の下女で、ここへは康行に連れて来て貰いました。少し、お話させていただいてもよろしいでしょうか?」


 私はまだ、混乱から立ち直ってはいなかった。一瞬、どうしようかと迷う。


「私のような者がこのように奥まったところへ近づいてはいけない事は分かっております。こんな奥まで入って来たのは私の勝手な振る舞いでございます。康行は知らないことなのです」


 少女は頭を地面にこすりつけたままそう言った。とはいえ、彼女のような身分では高貴な方々の住む建物に、容易に近づく事は出来ない。侍者の康行が通したからこそ、彼女はここにいるのだろう。私は少女が僅かに震えているのに気がついた。


 それほどまでして少女は私に話したい事があると言う事だ。私は彼女の話を聞く事にした。何と言っても少女の声が、とても断れるようものではなかったから。


「かまいません。私も本来、こんな所にいられる身ではないのですから。それで私になんの御用でしょう?」


 私は緊張した。少女にただならぬ気配を感じる。


「花房様は一の姫様とともに大納言家の別邸にいらっしゃるのですね?」


「ええ、勿論です」


「こんなこと、私が言うのは大変失礼なのは承知しております。でも、私は覚悟してお声をかけました。どうか、康行をあなた様から、解き放ってやって下さいまし」

 少女は初めて私に向かって顔をあげた。燃えるような目をしている。


「解き放つ? どういうこと? 私は康行を縛った事なんかないわ」


 私はうろたえた。それほど強い視線だった。


「いいえ、あなた様は、あなた様の存在そのものが、康行を縛りつけています。今、康行は苦しんでいるのです。とても。本当にとても苦しんでいます」


「どういうこと?」


「康行は、あなた様のために人を斬り殺してしまったからです」

 少女は視線を外さずに言った。


 ああ、前にもこんな目を見たことがある。これは桜子さんの目だ。あの人もこんな目で私を睨みつけていた。恨みと、嫉妬と、憎しみを帯びた目だった。


「康行は、あなた様の身を守るために、やむを得ず賊を斬り殺しました。けれど、その事にあの人はいまだに苦しんでいるのです。あの人は侍には向かない、本来、優しい人なのです。馬達を育て、慈しみ、大将様にも優しい、仲間にも優しい、あなた様にも、私にも優しくしてくれる、そんな人なんです」


 少女の視線が、ふっと柔らかくなる。康行への想いが、その目から恨みの炎を遠ざける。


「けれど、賊を斬ってしまって、あの人の表情には陰りがあります。仲間達も心配しています。夜中にうなされる事もあるようです。あれからずっと、康行は苦しんでいるのです」


 そして少女の目に、再び恨みの火が燃え上がる。


「康行は侍になってからも、決して人を殺した事はありませんでした。たとえ刀を合わせる事があっても、人の命を奪うような真似はしなかったそうです。そんなこと、出来るような人じゃないんです。きっと、自分の身が危険にさらされても、人の命を奪うことの出来ない人なんです。それなのにあの人は人を斬ってしまった。あなたを守るために。あなたのために人を斬ってしまった自分が、あの人は許せずにいるんです」


 恨みで赤く染まった少女の目から、今は涙がこぼれおちている。


「康行が……可哀想……」

 少女は泣きながらうなだれてしまう。




 知らなかった。康行があの後、そんなにも苦しんでいたなんて。私に歌を送ったり、励ましてくれていたその陰で、そんな風に苦しみもがいていたなんて。


 私は何にも知らないまま、御所で楽しく暮らしたり、更衣様に肩入れしたり、姫様に気を回したりして、自分の事ばかり考えていた。あの賊を斬った時、康行はあんなにも震えていたのに。人を斬って、平気じゃいられないと、康行自身が言っていたのに。私は康行の歌をからかってさえ、いた。


「優しい人なのに。優しくて、みんなから好かれて、幸せにしていたのに、あなた様のためにこんなに苦しむ事になってしまって。それなのにあなた様は御簾のうちの一の姫様に付き添って、康行と同じ邸に暮らす。あなたの姿を見れば、康行は一層苦しむのに。もう、十分でしょう?あの人を苦しめるのは」


「ごめんなさい。私だって康行を苦しめたくはないわ。でも、私は姫君様のおそばにいなければならないの。私はどうすることも出来ないわ」


「それは存じております。決してあなた様のせいとは申しません。けれど、せめてさっきのように康行に声をかけるようなことはしないで頂けますか?」

 少女は再び顔をあげた。


「さっきの話を聞いていたの?」


「申し訳ございません。でも、あなた様も昨夜、私達のことをご覧になっていらっしゃいましたよね?」


 少女の方では気づいていたのか。女人の勘が働いたのかもしれない。


「あの時私は康行に自分の気持ちを伝えました。私の方から一緒になって欲しいと言いました。でも、康行は受け入れてくれませんでした。自分は人殺しだと。人の心に応える資格はないと言っていました。勿論、それだけではないはずですが」


 少女の目から、嫉妬の火は消えずにいる。私はその目をそらしてしまう。


「私は言いました。それでも康行が好きだと。お願いです。もう、康行にかまわないでください」


 少女の目が、嫉妬から哀願へと変わる。本当に康行を想っているのだろう。


「あなた様には大切にしている方が、他におられます。康行も大切なのでしょうが、一の姫様の事も大切に思っていらっしゃる。でも、私には康行より大切な人はいないんです。お願いです。康行をあなたから解き放ってあげて下さい。そうでないと、康行は苦しんだままなんです」


 康行は私のために人を殺して苦しんでいる。なのに、私は姫様にお仕えする道を選んでいる。しかも、それを康行は認めてさえくれている。少女の言うとおりだ。私はこれ以上康行を苦しめてはいけない。


「勝手な事ばかり申し上げました。私の事はいかようにも御処分下さい。でも、康行の事は、もう、かまわずにいてあげて下さい。名も告げずに失礼な事ばかり申しました。私の名は」


「いいえ。名のることはないわ。あなたは独り言を言っただけ。私はそれを聞いてしまっただけよ。そして、もう康行に声をかける必要はないって思っただけ。私達はただの通りすがりよ」


 そう言って私は自分の局に向かう。今、姫様のそばに行く気にはとてもなれなかった。




 私は心配して様子を見に来たやすらぎに「気分が悪い」と言って、姫様に少し休ませてもらうとことづけてもらった。とにかく一人の時間が欲しかった。


 私は康行に助けられた後の事をあらためて思い出してみた。男を斬った後の康行は、小さく震えながら異様な気配を漂わせていた。あの時は無事に帰りつく事だけを考えて気を張っていたが、それでも康行は普通ではなかった。


 私が目覚めてから会った時も、明らかに様子がおかしかった。もともとよくしゃべる男ではないが、それにしても黙りがちだった。ついには私が尼になるんじゃないかとさえ、勘ぐっていた。私がそんな性格じゃない事はよく知っているのに。


 あんなに嫌っていた和歌を、私に贈ってくれたのも考えてみればおかしかった。もう、どんなに私を心配しても、これからは距離が離れていく事を、康行は知っていたのかもしれない。


 私が姫君様のそばに近づくほどに、康行との距離は離れていく。彼は私のために人を斬りさえしたというのに。


 私は姫様から離れることはできない。姫様は私の心のふるさとだ。それだけははっきりしている。それならもう、康行に近づいてはいけない。





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