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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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御簾の内

 その夜、私は姫様の御前に出なかった。どの面下げて姫様に会う事が出来ようか? だからと言って部屋にも居たくない。閉じこもってしまうと、いろいろ悪い事ばかり考えてしまう。部屋でなくたって考えてはしまうけど。


 せめて外の空気だけでも吸いたい。私はそっと庭に出た。


 春の夜は、意外と暖かかった。勿論空気はひんやりと冷たいのだが、都特有の冬の底冷えするような冷気はもう感じなかった。むしろ、少しだけ冷たい風が、心地いい。



 忠光様の養女になんかなったら、こんな風に庭に出る事も難しくなるんだろうな。やっぱり私にそういう暮らしは向かないわ。姫様に仕え続けるには不利になるけれど、養女の件は断ろう。


 その前に今日の不始末を姫様にお詫びしなければ。姫様に許していただけなければ、仕え続けるも、養女になるもないんだから。


 私は半月の月を眺めながら、姫様へのお詫びの言葉を考えていた。すると人の気配を感じる。誰だろう?


 月夜なので目を良く凝らすと姿が見えて来る。康行だ。都に来ていたんだわ。また、大将様についてきたのね。


 私は思わずホッとした。康行なら私の愚痴を全部聞いてもらえる。そら見た事かと言われるだろうけど、今はそれもかまわない。むしろ康行と口喧嘩の一つも交わしたい。


 しかし、そこにもう一人の人影が現れた。長い髪を束ね、足元をキリっとたくし上げた下働きの少女だ。私とそう、変わらない年周りだろう。思わず私は身を隠してしまった。


 いくら下男と下女とはいえ、こんな夜更けに庭で会うなんてただの用事とは思えない。二人は何事か会話を交わしているが、何を話しているのかは聞こえなかった。私は音をたてないように、でも、急いで立ち去った。



 そうだ。康行が都で会っていたのは私だけじゃないはずだ。共に働き、共に主人たちの世話をする、沢山の下女たちとも会っている。大納言家でも、中納言家でも、むしろ、彼女達との方が親しくしているはずだ。


 私のように縁の上から見下ろし、見下ろされて話をするのではない。男女でも、同じ地面に足をつけて、同じ目の高さで面と向かって会話をする。


 今まで当たり前だった事が、ここでは当たり前ではなくなっている。


 ふと、思い出した。大将様はそれをとっても羨ましがっておられたっけ。自分達には出来ないと。


 私は顔を隠すのをやめた。几帳に隠れるのもやめた。それでもなお、庶民の暮らしとは違ってしまう。


 大将様は今頃、姫様に自分のお立場と、姫様への想いをこんこんと語って聞かせておられることだろう。そして、姫様のために自分の出来うる精いっぱいの事をなさることだろう。


 やすらぎももうすぐ結婚する。姫様の乳母であるやすらぎの母親も、忙しそうにしている。きっと、実家では三日夜の準備が進んでいるのだろう。


 私は何だか、ひどく孤独に思えて来た。私だけが、都で取り残されてしまったような。


 康行は私に櫛をくれた。馬にも乗せてくれた。幼い時の約束は果たされてしまった。それからは、なんの約束も交わしていない。不器用な手紙で、私の琴を褒めてくれただけ。


 もし、ただの下女として仕えていれば、夜更けの庭で、康行と面と向かって話をしていたのは、私だったかもしれないのに。


 もう、庭にいる事も嫌になって、私は仕方なく部屋に戻った。なかなか寝つかれなかったが。




「どうしても、私と一緒にはなれませんか?」

 撫子が康行を見つめながら言う。


「撫子と一緒になれないんじゃない、俺の心は人殺しの罪から逃れられなくなってしまったんだ」


「それなら、私はなおさら康行のそばにいたい。康行は傷ついているんだもの。花房さんは康行のそばにいられないけど、私は康行を慰める事が出来るわ」


 撫子が見かけに似合わぬ意思の強い瞳で言う。花房によく似た瞳で。


「傷ついてるんじゃない、花房のせいでもない。ただ、俺に度胸がないだけなんだ」


「度胸って何? 人を傷つけ、殺す事? そんなもの要らないわ。康行には優しさがある。上京したばかりの私に優しくしてくれたり、馬達を心から愛しんだり、若君のために誠意を尽くそうとしたりしているわ。それで十分よ」


「撫子がそんな風に言ってくれるのは嬉しい。だが、それじゃ、俺は納得できないんだ」


「納得なんかしなくていい。ただ、私は優しい康行が好きなんだから!」


 撫子がそう言って近づいてくる。花房は遠い世界に行ってしまう。この娘は自分のそばにいてくれる。


 あの、頬に残ったぬくもりを想いだす。今この娘を抱き締めれば、すがりつく事が出来るかもしれない。苦しみを和らげてくれるかもしれない。一瞬、手を伸ばしかける。


 だが、それは俺の望む生き方じゃ無い。どうすればいいのか分からない今でさえも、それだけは分かっているんだ。この娘の優しさを利用してはいけない。


「すまないが、俺は自分の望む生き方をしたい。傷ついたって構わないんだ。君に逃げたくはないんだ」


 それだけ言うと、康行は撫子に背を向け、その場を去って行った。


 あとに残された撫子は、康行が買ってくれた端切れを髪からほどき、何か、決心でもしたかのようにそれをじっと見つめていた。





 翌朝、とにかく私は姫様にお詫びを申し上げに行く。まずは何より謝らなくては。


 一晩経って、姫様も落ち着かれたのだろうか? いつもどおりに私を御簾のうちに通して下さった。


「気にすることはないのよ。昨夜のうちに殿はお聞かせ下さるつもりだったのですから」


 姫様はそう言って下さったが、私は穴があったら入りたかった。絶対に大将様から先にお聞きしたかったに違いない。だってその後、


「やはり、花房に妻のお話を受けてもらっておけばよかったわ。そうすれば少しは慣れて、こんなにもの憂い思いはしなくて済んだでしょうに」と、洩らされたのだから。


 私が相手でも、さぞやご気分が悪かろうに。まして突然、妍を競う相手の事を私の軽い口から聞かされたんじゃ、さぞや御不快だったに違いないのだ。身近な女房に手をつけたのと、同格の姫を妻に迎えるのとでは、天と地ほどの差があるのだから。


 大将様の御身分では、いつかはこうなる事とは思っていたけれど、それをこんな形で姫様に私が伝えてしまったのは、我ながら口惜しかった。まして、それならいっそ、私を先に妻にさせておけばと言う姫様の心情はあまりあるものがある。相手がだれであろうと、自分の夫が別の妻を迎えて平気なはずはないだろう。


 大将様が同格の姫君を迎えられるという事は、姫様にそんな言葉をもらさせるほど、悲しい出来事だったのだ。


 本来ならこういう時にこそ、姫様をお慰めするのが年の近い私達若い女房の務め。それなのに今回は私がその張本人だ。当然、周りの視線も冷たく感じてしまう。


  

「琴を」

 突然、姫様がつぶやかれた。


「花房、琴を弾いて頂戴。今のあなたの自由な心を聞かせて」


 ああ、そうだった。私には琴があった。こんな時に姫様をお慰めできる、私の唯一のとりえ。私は姫様の心を琴の音に表す事が出来る。私の思いを伝える事が出来るのだ。


 私は弾いた。姫様の望まれるがままに。誰に聞かせるともなく、心のままに。


 弾いているうちに、私は姫様を慰めると言うよりも、私自身が琴の音に慰められてきた。そして、今こんな中でも私に琴を弾かせてくれる、姫様に感謝していた。


 そう、姫様は私に琴を弾かせるために私を守り続けて下さっている。こんなに姫様自身が苦しいであろう時でも、私には琴が必要だと言う事を分かって下さっているのだ。


 ようやく私は気持ちを立て直す事が出来た。中納言様にお会いしよう。そして養女の件はきっぱりとお断りしよう。


 もともと私は女人を手駒のように扱う世の中に逆らおうと、琴を弾き続けて来た。いつの間にかその力の大きさに呑まれようとしてしまっている。これではいけない。姫様は、私の気概と、立ち向かう心を認め続けて下さったのに。


 康行のせいなんかじゃないわ。

 

 一瞬だけ、昨夜の庭の光景が頭をかすめたが、すぐに振り払う。

 

 私は早速中納言様の元に向かった。非礼なのは承知の上だ。私はいつだって、非礼なやんちゃものだったんだから。




 だが、その康行を、中納言様の元へ向かう途中で見かけてしまった。昨夜の事があるのでためらったが、あっちは私には気がつかなかったのだから、気にする必要はないはずと思い直して、私は声をかけた。


「康行、都に来ていたのね」


 ところが康行は、縁の下で膝をつき、私に向かって頭を下げた。私は驚いた。


「いったいなんの真似?」


「あなた様は御身分が上がられる方ですから」

 康行は頭を下げたまま言う。


「養女の事を聞いたの? それはこれから断りに行くところよ。私は今までと、何にも変わりはしないわ」


「それでもだ。お前は俺の主人の北の方になられる方の、女房になるんだ。侍者の俺とは違うんだよ。邸の人目の着く所で軽々しい態度でいる訳にはいかないんだ」

 康行は声をひそめながら言う。


「養女の話は断るのか。大将様との結婚話の時と言い、お前らしいな」

 康行は軽口をたたくが、顔はあげない。


「そうよ。私は逆らって生きるのが性分なのよ。だからあんたも頭をあげてよ、康行」


「俺はそういう訳にはいかないんだよ。お前とは違う」


「なによ、何が違うって言うの? 私の身分は変わらないのに」

 私はイライラと聞いてしまう。


「それは、俺は男で、お前は女人だからさ」


「どういうこと?」

 私には意味が解らない。


「俺の身分はいやしいが、男だから侍として大将様を守ることができる。馬の世話もできる。自分の身分のまま職務を果たす事が出来るんだ。しかし、お前は女人だ。女人のお前が女主人に直接仕え、お守りするには女房になるしかあるまい。それしか、御簾の内に入る手段はないのだからな。だが、御簾の内と外では世界が違う。お前が女主人を選ぶ以上は俺とは世界が違ってしまうのは仕方のない事なんだ」

 康行は低い声のまま言う。


 御簾の内の世界。


 そうだ。考えてみれば当然のことだ。身分の違いの他に、この世界ではそういう違いもあったんだ。


「俺に気遣う事はない。お前の気持ちは分かる。俺だって大将様を放っておくことなんか出来やしない。だからこそ、人を殺すような侍者にまでなったんだ。お前が一の姫様に寄せる思いも同じだろう。だから俺はお前がどんな決断をしたって、それを認めるよ。誰が何と言おうと俺だけは認めてやる。お前はそれを忘れずにいればいい」


 そうか、今まで気づかずにいたけれど、私が姫君様を選ぶ以上、それだけで康行とは立場が離れて行ってしまうんだ。それなのに康行は私の生き方を認めると言ってくれているんだ。


 けれど今のままでは私は康行と疎遠になって行ってしまう。そして康行の周りには昨夜の少女の様な下女がいっぱいいるんだ。それは仕方のない事なんだ。


 私は返事も、礼さえも言う事が出来ずに黙り込んだ。康行は頭をあげようとはしない。彼がどんな表情をしているのか私には分からない。ただ、ひそめていた声を一転させて


「一の姫が別邸に移られる時には、私も護衛させていただきます。その後の邸の警護も我々が当たらせていただきますので、これからもよろしくお願いします」と、はきはきと言う。


 康行はさらに丁寧に頭を下げると、私に背を向けて去ってしまった。





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