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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
23/66

町にて

 その数日後、康行は約束通り、撫子を町に連れ出した。


「すごい人の数ね」


「京ではこれが普通さ。どうだい、邸に少しは慣れたかい?」


「ええ、少しは」


 撫子は初めのうちこそ心細げに康行の横を黙ってついて歩いていたが、物売り達のにぎやかな声に誘われて、あちこちの品を覗き始めた。


「まあ、綺麗」


 高貴な人々が仕立てに使った布の小さな切れ端が、色とりどりに並べられている。撫子の様な下女の娘は、身体を動かす作業や、食べ物を扱う時には、こういう端切れで長い髪をきりりと結ぶ。撫子は髪をまとめる時は粗末な麻の、地味な端切れを使っていた。


「これなんか、似合うんじゃないか?」


 そう言って端切れを手に取ってやると、撫子は嬉しそうに顔をほころばせる。こういう事には疎い自分だが、やはり若い娘はこんな物への興味がつきないのだなと実感した。


「これをくれ」

 そう言って端切れの代金を払ってやる。撫子が慌てて制しようとするがかまわず払う。


「買ってもらう訳には……」

 そう言って撫子は自分の懐を探ろうとするが、


「ここは黙っておごられておけ。気にすることは無いから」

 と言って、人混みに足を向ける。撫子も慌ててついてきた。


「その、懐の金はお前の両親がなけなしの金をお前のために持たせてくれたものだ。無駄遣いするんじゃない」


 そう言うと撫子もハッとして、懐から手を離した。


「それに撫子はまだ知らないだろうが、都は何でも値が張るんだ。田舎とはモノの値段が違うのさ。簡単に懐を開けると、あっという間に金なんて無くなってしまう。よく、覚えておいた方がいい」


「怖いんですね。都って」


「そうさ。だから田舎ものが一人で出歩いたりしちゃいけない。まして若い娘の身ではなおさらだ。だが、用心していれば楽しい事もある。おや? あっちで軽業を見せているようだ」


 康行は撫子を人だかりの方へと引っ張った。見ると身軽そうな小男が、逆立ちをしたまま蹴鞠のまりを器用に足で回し、やんやの喝さいを浴びていた。


 次は大きなざるを回し、ついには畳(当時は四角いものを座布団の様に使った)をくるくると器用に回してみせる。


 こんな見せものなどみた事もなかったのだろう。撫子は夢中になって目を皿のようにしている。この年頃の娘は、花房でなくともこんな風に好奇心が働く物らしい。


 小男が回し終えると、拍手とともに小銭が彼に向けて投げられる。小男はさっき回していたざるの中に小銭を拾い集めていた。


「器用なもんだな。あの、琴弾きの三日夜の宴にはちょうどいいんじゃないか?」


 隣にいた下卑た男が昼間からほろ酔い加減で、連れの男にそんな事を言っているのが耳に入った。


「なんだ? あの琴弾き、ついに大将殿の妻になるのか?」


 町の男どもが「あの、琴弾き」と噂する時には、はっきりとした軽侮の色が含まれる。今ではちょっとした色ごと話の枕詞のようにも使われているのだ。本人は知りもしないのだろうが。


「違うさ。中納言家であの琴弾きを家臣の養女にしようと言う動きがあるらしいんだ」


「なんだってまた」


「なんでも今、飛ぶ鳥を落とす勢いの三条殿に対抗する手立てらしい。三条殿の北の方は琵琶の名手だから世間の注目で負けたくないんじゃないかって噂だ。大納言家も何か絡んでいるらしいぞ。詳しい事までは知らないが」


「それでどうしてあの琴弾きが、結婚するんだよ」


「鈍いなあ。どうして中納言家が養女にしてまで後ろ盾すると思う? 今更よそへ逃げられちゃ困るからさ。実家を出た女はいい男が出来ればどこに行くとも分からんだろう? あの琴弾きのおかげで、中納言家は注目の的。大納言様にも常に一目置かれているんだからな」


「それにしたって、いくら目立つと言っても所詮下司の娘じゃないか。なんだってそんなに手元に置きたがるんだろう?」


「下司と言っても今の母親は育ての親で、実の母親は一応それなりの貴族だったらしいんだ。その母親の実家が、昔、中納言家と関わっていたらしいぞ。ま、ただの噂だがな」


 聞き捨てならない噂を聞いた。花房が養女に? 彼女の母親がどんな人だったのかは知らないが、中納言様は本当にそんな事を考えているのだろうか?


「すまない。今日はもう、帰ってもいいか?」


 撫子に聞くと、撫子は暗い顔で頷いた。


「今度、また連れて来るから」


 そう言ってやるが、撫子は軽く首を横に振る。


「それはいいけれど。康行は花房様を助けるために、危ない目にあったそうね」


「俺は侍だよ。危ない目に合うのは仕方のない事だ」


「本当はそんな目にあったのは初めてだったんでしょう? 花房様を助けるまでは人を斬った事もなかったそうじゃないの」



 撫子が真っ直ぐに目を見つめて言う。真剣な表情だ。


「人なんてむやみに斬る物じゃない」


「花房様は康行とゆかりの深い方なの?」

 撫子は視線を外さずに康行を見つめ続けていた。悲しげな眼だった。


「幼馴染だ。もっとも俺の親父は花房の父上に使われている厩番だが」


「康行は花房様が好きなのね」



 撫子は視線を外し、さっき買ってやった端切れを握り締め、そこへ視線を落とした。


 康行は返事が出来ずに黙り込んだ。



「聞いたの。康行は花房様のために命懸けで人を斬って、それからは毎晩のように夢にうなされてるって。侍所の人たちはみんな心配しているわ」


「もう、花房は俺の近づける女人じゃない。それに俺がうなされているのはあいつのせいじゃない。俺が弱いせいなんだ。そのうちちゃんと吹っ切れる」


 いや、吹っ切ったりなど出来るのだろうか? 今、噂を耳にしただけで、こんなに心がざわついていると言うのに。


「だって、それでも花房様が好きなんでしょう? その上、人を斬った事に苦しんで、毎晩うなされてばかりいるんでしょう?」


 撫子がそう問いかけた。まるで今にも泣きそうな顔だ。撫子の方が苦しんでいるような顔だ。


「大納言家も関わっていると言うのなら、きっと若君のことだろう。若君は俺の主人だ。事の真偽を確かめたい。早く帰ろう」


 康行は撫子に返事もせずにそう言うと、人混みの中を歩き始めた。





「三条殿の姫君を若君の妻に?」


 邸に帰るとさっそく侍所に戻り、町の噂を仲間に知らせると、仲間の一人がそういう噂があると教えてくれた。


「ああ、お前は出かけて知らないだろうが、下男下女の間で今日はその話で持ちきりさ。中納言家の姫君も気の毒だな。まだ、御新婚だと言うのに」


 これは、口さがのない都人がすぐに話に飛び付くだろう。京を牛耳るこの、大納言家と、今、最も勢いがあると言われる三条家が、縁故で結ばれようとしているのだ。中納言殿は大層焦っておられるに違いない。


 その中での花房への養女の話。これは果して花房にとって、良い話になるのだろうか?


「康行」

 気がつくと撫子が声をかけて来ていた。


「花房様が心配なのは分かるけど、花房様はもう、御簾のうちの方なんでしょう? 康行にはどうする事も出来ないことよ。考え過ぎない方がいいわ」


 心配そうな、悲しげな眼で撫子が言う。こんな風に女人に心配された事など今までなかった。優しい娘だ。


「分かってる。花房のことはきっと、若君が見ていてくれる。俺なんかじゃ口を出せない事なんだ」

 そういいながら口調に苦みが混じるのをどうする事も出来ない。



 すると突然、頬のあたりが温かくなった。撫子が自分の手を康行の頬に寄せていた。


 そして康行をじっと見つめる。やはり、悲しそうな眼だった。


「綺麗な端切れを、ありがとう」


 そう言って手を離し恥じらうようにうつむくと、撫子は足早に去って行った。


 その頬に、撫子のふれた指のぬくもりを微かに残して。





貨幣はそんなにしっかりと流通していたとは言い難かったようです。

まだまだ衣やコメによる物々交換も盛んでした。


都は特に物価が高く、物々交換では田舎の物では吹っ掛けられたりもしたでしょう。貨幣も人を見られたでしょうね。


都会の暮らしにお金がかかるのは、当時も同じだったようです。


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