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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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撫子

 康行は広い所に立っていた。目の前には粗末な作業小屋が立っている。


 彼は緊張していた。作業小屋の陰に隠れて、相手の気配をうかがっている。


 花房が襲われようとしている。康行は小屋の陰から身を躍らせ、一人はみぞおちに当て身をくらわした。その間にもう一人が花房に斬りかかろうとするのが見えた。思わず太刀を抜く。


 すぐさま相手に反撃される。とっさに身体を翻し身をかわす。ほとんど反射的に太刀をふるうと、太刀が相手の身に当たり、いやな感触とともに振り斬られる。生温かい返り血が、彼の全身に降りかかった。


 するとその血が康行の身体にしみこみ、侵食し始める。力が抜け、粘着質な血が鼻と口を塞ぎ、息が出来なくなった。


 そして何処からともなく声が聞こえる。「苦しめ、苦しめ」と。





「うわあああああ!」


 康行はガバッと身を起こした。また、あの夢だ。


「大丈夫か? 康行」

 共に旅をしている仲間が、眠そうな目をこすりながら声をかけて来る。


「ああ、すまない。起こしちまったな」


「いや、どっち道夜明けだ。仕度をして出発した方がいいだろう。そうすれば今日のうちに、都に入る事が出来るはずだ。草枕の旅はもう結構だよ」


 そう言って先に立ち上がると、つないでいた馬達を軽くたたいて、機嫌をうかがっている。


「そうだな。早く立とう」

 康行もそう言って、馬の一頭に声をかける。


 全く俺は度胸がない。仲間たちにも心配をかけている。実際皆は、俺が京に旅立つのをやめるようにと言ってきた。故郷での様子がよほど悪く見えたんだろう。


 だが、丹精込めて育てた馬達の献上に立ち会わずにはいられないし、花房の事もやはり気になる。



 故郷に居る時、花房が御所に呼ばれ、帝の前で琴を弾くと聞いた。



 花房はますます自分から離れて行く。我々下司の者にとって、御所や、殿上人などは、遠い遠い雲の彼方の世界。彼女はそこで時の帝に認められた人物となった。


 もう、彼女には簡単に近寄ることはできない。花房はこのまま琴を弾き続ける事を望むに違いない。そういう生き方を望む以上、そして、高貴な方々が彼女の事を認めている以上、花房はもう、自分と同じ下司の身分とは言えなくなるだろう。


 自分は花房には近寄れなくなる。いや、近寄ってはいけないのかもしれない。


 遠い昔、「子馬が欲しい」と、自分の着物の袖をつかんでねだった少女は、今、中納言家の女房として、立派にその地位を手に入れた。普通なら我々いやしい身分の者には、決して手に入れられないものを、彼女は手に入れたのだ。


 これからは今まで通りではいられない。それは分かっている。


 だが、やはり花房の気性を考えると、彼女の行く末が気になった。


 あの花房の事だ。決して素直に若君の妻になるとは思えない。何としてでも中納言の姫君のそばにいる事を望むだろう。しかしそれが、世間体やしきたりに縛られて暮らす貴族の世界で通用するのだろうか?


 花房がいくら気強くしていても、若君と姫君の庇護にも限りがあるのではないだろうか?


 それでも若君が強引にでも花房を娶るかもしれないし、それなら彼女の地位は確定的になるだろう。しかしそれでは花房は姫君との板挟みに一生苦しむ事になる。


 自分の嫉妬心を抜きにしても、そんな事態はできれば避けさせたい。若君を信用してはいるが、それだって状況次第だろう。

 

 あるいは他の貴族の情人になるか……。あの花房がそう簡単にそんな打算的な事をするだろうか? なにしろあいつは武蔵の国のじゃじゃ馬だ。

 

 ここまで考えて康行は我に帰る。


 自分が花房の心配をしても、花房に近寄ることはできない。むしろ彼女の出世の邪魔になるばかりだろう。本当なら彼女のことはきっぱりと忘れる事が一番いいはずだ。


 それなのに、彼女が気になって、馬の献上をいい訳に、また京の都に戻って来てしまった。


 京に来たからには、自分は侍者として若君の護衛をするしか、京にとどまるすべはない。だが、今の自分は悪夢にうなされ、花房への未練を断ち切れずにいる。こんな状態で都に居て何になるのかは分からないが、故郷でじっとしている事も出来ない。


 康行は自分の弱さに苦悩をしながら都に入ろうとしていた。




 京の都は相変わらず、賑やかなところだった。早くに出立したのが幸いし、まだ、日が傾く様子もない内に康行達は大納言家に到着する事が出来た。


 馬を厩に無事納め、下人達が休む小屋に入ると、いつものように邸の下女達が康行達の旅の疲れをねぎらってくれた。手足を洗えるように清らかな水を用意してくれ、僅かな酒と、ささやかな干し魚を少し用意してくれる。


 その中に見慣れない顔があった。花房と同じくらいの年頃の少女だった。


「初めて見る顔だな? 最近勤めに出たのかい?」


 少女はもの慣れぬ風に恥じらいながらも、康行に足を洗うための藁を編んだものを手渡し、はきはきと答える。


「ええ。つい、十日前にお邸に入ったばかりなの。至らないところが多いけれど、よろしくお願いします」

 そう言って頭を下げる。


 身のこなしなどがまだ垢ぬけていない。いかにも上京したばかりの仕草だ。


「慣れるまでは大変だろうが、慣れてしまえば都は若い娘には楽しいところだよ。早く友人でも作るといい。故郷はどこだい?」


「若狭。実はこの干し魚も、父と母が私に持たせてくれたものなんです」


「じゃあ、これは君の故郷の味なんだね。やはり若狭は豊かな国だなあ。こんなにうまい魚が獲れるなんて」


「獲りたての生魚はもっとおいしいわよ。私の父さんは漁師だったの」


「そうか。これはお父さんが獲った魚なんだね」


 すると少女は悲しげに眼を伏せた。


「いいえ。これは母さんが買ったものなの。父さんは病気にかかって海に出られなくなってしまったから」


 これは余計な事を聞いたかもしれない。彼女が親元を離れて不慣れな都の邸勤めに出たのは、おそらく父が仕事に出られなくなったせいだろう。ひょっとしたら口減らしの意味もあるのかもしれない。


「ねえ、都って、そんなに楽しいところなの? 私まだ、あまりお邸の外に出た事がないの」


 少女が明るく言う。康行の考えた事の見当がついて気を使ったのだろう。


「ああ、きっと楽しいだろう。だが、物騒な事も確かだ。一人では出歩かない方がいい」


「それなら、今度私を町に連れて行ってくれる? 私、まだここに知り人も少ないし、そんなにお邸を出た事もないの」


 田舎者らしくすんなりと心を開いて、甘えて来る。自分も昔はそうだった。花房もほんの少し前まではこうだったのだろう。


 そういえば他人に心を開く様子は、花房に似ている。年の頃も同じくらい。不慣れな暮らしで緊張した態度も見えるが、こうして甘える時には瞳の奥に意思の強さが感じられる。そんなところも似ているような気がする。


「ああ、かまわないよ。君、名前は?」


「撫子。ありきたりでしょう?」


「そんなことは無い。可愛らしい名だよ。俺は康行だ。若の警護を務める侍者だ。侍所か、厩にいつもいるから、見かけたら声をかけてくれ」


「康行……いいの?」


「まだ、知り人も少ないんだろう? 一人じゃ心細いだろう。遠慮しなくていいさ」


 そう笑いかけてやると、撫子は少し恥じらうように、ほんのりと笑った。


 こういう所は花房とは違うな。何だか可憐な可愛らしさがある。


「さて、もう一度馬達の様子を見るか」

 

 そう言って康行は腰を上げると、小屋を出て行った。


 その後ろ姿を撫子がいつまでも見送っている事に気づきもせずに。

 




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