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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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窮地

 そんな練習の真っ只中に、叔母の姿が躍り出たのは最後の合奏曲の仕上げに入ろうかという頃だった。


 女雅楽は明日に迫っていたので大がかりな合奏を合わせて稽古できるのはこれが最後。皆が気を引き締めたところだったので、叔母の姿は一層目立ってしまう。


 しかし、叔母の顔色は芳しい物ではなかったので、私はすぐさま叔母のもとへ駆け寄った。


「どうしたの? また、何かあったの?」

 すぐさま叔母に聞く。


「それが、こんな時間になってもあなたのご衣裳が届かないから役人に問い合わせたら、あなたの衣装が行方不明になっていたの。どちらの御殿に問い合わせても出てこないのよ。こんなこと一度もなかったのに」


 宮中での催し物は、それなりの格式が要求される。表立った晴れの儀式は勿論だが、今回のような後宮の女人達による私的な催しであっても、そこに主上や、様々な公達達が居並び、それぞれの才を競う場であれば最低限の格は守られなければならない。それは当然衣装にも及ぶ。用意出来なければそれぞれの女御、更衣様方の顔がつぶれてしまう。勿論後ろ盾をしている高貴な方々もだ。


「役人の手落ちにも程があるわ。こちらの更衣様のお立場を甘く見て、舐められてしまっているのかしら? 上の役人に言って、責任を取らせないと」


 役人の責任となれば、手落ちのあった役人には出世の機会が遠のくだけでなく、彼の家族、一族郎党にまで影響が及ぶはず。


 後宮勤めの上﨟(身分の高い女房)である叔母には下っ端の庶民の役人が、そう言う責任を負わされる事がどれほど大変な事か分かってはいないだろう。そのあたりの感覚は私の方が見当をつけやすかった。それに、


「今は役人の責任を問題にしている時じゃないわ。明日の衣装の事を考えないと」


 私達にとってはこの問題を乗り切る事の方が切実だ。


 私達は小声で話していたが、状況を察したのだろうか? 何処からともなく忍び笑いが漏れている。私達をチラチラと窺う視線も不愉快だ。だが今はそんな事を気に留めている場合ではなかった。


「袿は主上にいただいた袿があるわ。これ以上の礼装は無いはずよ。あとは持っている中で一番いい物を着る他にないでしょう」


「袿以外は私の持っている中で一番良い物を着ればいいわ。あなたには少し地味かもしれないけれど」


 確かに叔母はとても質の良い、鮮やかな浅縹(あさはなだ、藍色)の唐絹を持っていた。まだ腰結(女性の成人の儀式)を済ませて間もない私には多少地味ではあるが、格式は守られる。


「でも、裳をどうしよう?」


 裳というのは腰から下に身につける女人の装束で、格式の高い場では自らより上の方々にかしこまって見せるための、正式な礼装に欠かせない物である。勿論御所に上がっている以上、今も身につけている物はあるが、華やかな場で上質な袿や年不相応な唐衣と合わせて着るのは、不自然さが目立ってしまう。


 本来、十二単と言われる女房衣装はすべてが統一された合わせによる、総合的な美を競う衣装だ。


 だから、今回のような催し物があれば、誰もかれもが早いうちから衣装の織り、染め、重ね目、焚き締める香にいたるまで統一された物を用意する。


 しかも私はまだ成人して間もないために、あまり衣装の用意も多くは無い。仕える者の姿や容姿はその主人の威厳にかかわる。本当なら年若い私などは精一杯めかしこんで、梅壺の服飾感覚をお見せすべきところなのだが。


「しかたがないわ。こうなったら更衣様にご相談申し上げましょう。黙っていても更衣様にご迷惑をかけてしまうのだから」

 そう言って叔母は私を更衣様のところへと引っ張っていく。


 これは役所の手落ちなどではない。おそらく誰かが仕組んだ事に違いない。更衣様の後ろ盾の父上は只今ご謹慎中の身。とっさに動きがとれない事を知った上で、あわよくば私が女雅楽から外されるように仕組み、私を窮地に立たせようとしている者がいるのだろう。




 私達が更衣様に事情を説明すると、更衣様はしばらく考え深げなお顔をなさった後、小侍従に手紙を書く用意をさせた。そして、何事かご決心された表情でお手紙をお書きになると、それを小侍従に渡す。


「よろしいのでございますか?」


 小侍従が手紙を見て更衣様に確かめると


「ええ、これで分かっていただけると思うの。もし、断られた時には私の裳を花房にお貸ししましょう。大丈夫よ、心配いらないわ」


 そう言って更衣様は私にほほ笑まれる。一体どなたにお手紙を書いたのだろう?


「あなたは早く戻って、琴の稽古をしなさい。私達はあなたの琴を楽しみにしているのだから」


 更衣様にそう言われて私は後ろ髪を引かれながらも琴の稽古に戻って行った。


 私に裳をお貸し下さるといっても、私と更衣様とではあまりにも格が違いすぎる。お気持ちは嬉しいが叔母の古い裳を借りた方がましだろう。


 衣装で琴を弾くんじゃないわ。私の琴の音で、皆に衣装の事など忘れさせて見せるわ。


 気強くそう思い込もうとしても、やはりちぐはぐな衣装を着た自分の姿を想像すると気が重くなる。大将様が心配そうな視線を下さってはいるが、今、大将様と言葉を交わせば、また何を言われるか分かったものではない。


 もうこれで何度目の我慢だろう? そう思いながらも、私は口を真一文字に結んで、黙って琴を弾き続けた。



 その後、一晩中私の衣装についてあちこち訪ね回ったが、結局気の毒がられたり、意地の悪い視線を投げかけられるだけで、衣装は出てこなかった。あまり赤い目で御前に出る訳にも行かず、明け方私は叔母の局でうつらうつらしていたが、叔母の声で起こされてしまった。


「ご衣裳よ! あなたのご衣裳が届きましたよ!」


「衣装が届いたって、何処から?」

 私は寝ぼけていた。


「中納言家の一の姫様からですよ。あなたのお仕えするご主人さまから、お祝いの品として届けられたんです!」


 私はいっぺんに目が醒めて飛び起きた。見ればそこには見事な紅梅色の唐絹と、それに合わせた裳がとりそろえられている。主上から頂いた海老茶色の袿とも色を合わせてあり、梅壺の代表として琴を弾く私にはピッタリの衣装だ。


 私はとても姫様にこういうお願いが出来る立場ではない。と、言うことは。


「昨日の更衣様のお手紙は、一の姫様に宛てられたものだったんだわ」


 中納言家の一の姫様は大将様とご結婚なさる前には、女御として御所に上がられるお話のあった方だ。


 つまり、もしかすると、ここで更衣様方と妍を競われていたかもしれない、競争相手だったかもしれないお方。しかも更衣様は主上に一番古くから寄り添っておられる。その更衣様が私などのためにその身を下げられて、一の姫様にお願いのお手紙を書いて下さったのだ。そして姫君様も、その意をお汲み取りになって私に衣装を送って下されたのだ。


 衣装にはお手紙が添えられてあった。しかも御真筆で。



「あなたは弾き続けるのよ。そうするだけの価値があるわ。決して迷われたりしないように」



 形式的には使いの女房が私に送った手紙になっているが、私が姫様のご筆跡を見間違える筈は無かった。


 本当なら一生私などは姫様から直筆のお手紙などもらえる身ではないのに。


 私はどれほど多くの人に恵まれているのだろう。身分が低い? 育ちがいやしい? そんなのなんだって言うの? 私はどこに行っても、こんなにも大勢の人に愛されているじゃないの。郷里にいた時も、都に出てからも。


 今夜、私が奏でる琴に込める思いは決まったわ。私を愛し、心寄せて下さるすべての方々のために。人は人を利用出来たりはしない。人の心はこうした思いだけが動かせる。


 つまらない張りあいなど、真心や友情の思いの前では足元にも及ばないという事を、この、琴の音に寄せて演奏しよう。


 私は体の内から充実した思いが沸き上がってくることを感じた。今日はいい演奏が出来そうだ。



 取り急ぎ姫様へのお返事を書き終えると、私は早速装束にそでを通した。重い礼装に身を包み、しっかりと化粧を施すと、いつもとは違う私が鏡の中にあった。


 衣装は女人の心を引き立たせるものだが、今日の衣装は特別だ。


 主上が贈って下さった、私なんかを認めて下さった袿を身にまとい、更衣様と姫様が私のために心を尽くして下さった唐絹と裳を身につけて、私はいま、誰よりも守られていると思う。幸せ者だと思う。


 もう、卑屈になったりなんかしない。誰にも後ろめたさなんて感じない。少なくともこの衣装を身につけている間は、誰よりも強くありたいと思う。


 私はお礼を申し上げるために、更衣様の御膳に向った。小侍従から渡された扇を広げて、深々と頭を下げた。


「顔をあげなさい」


 更衣様にそう言われて、私は顔をあげる。


「美しいわ。女人が最も美しく映える時って、こういう時なのね。自信と誇りを持って、まさに全力を出し切ろうとする姿。綺麗ですよ。花房」


 あまりの讃辞に私はお礼を言うつもりが言葉を失ってしまった。


「お礼の言葉はいらないわ。あなたは琴の音で十分、その言葉を聞かせてくれるから。あなたを見ていると、私はこれからここでどのように生きていくべきかが見えるような気がするの。楽しむ心、感謝する心、挑んで行く心。そんなものをあなたは教えてくれた。短い時間だったけれど楽しかったわ。あなたのような女房を召し使えるなんて、中納言家の姫君が羨ましい。また、機会があったら、是非、御所に琴を弾きに来て下さいね」


「ありがとうございます。ええ、ぜひともまた、更衣様にお目にかかりたく存じます」


 私はそう言うのが精いっぱいで、ただ、ひたすら頭を下げ続けていた。


 でも、私は再び顔をあげた時に、常につつましやかで、私をほほえましく見て下さっている、今の更衣様の方が、ずっと美しいと思った。横に控えている小侍従の目も、同じように思っているだろうと思った。




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