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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
2/66

警護

 中納言家ではご婚儀の仕度が着々と進められている。


 姫様のお部屋は姫様の母上の北の対のお近く、北東の対近くに儲けられているけれど、今後は大納言家の若君が毎夜通われる事になるので、屋敷の中を増築し東の対屋を新たに作って、そこを御新婚のご夫婦の寝所にする予定である。もとのお部屋だったところは、中を細かく仕切って私達女房の局(部屋)となり、私達新しい女房が増えて相部屋になってしまっていた古参の方々も、また個室が与えられるという。ここは都の中でも結構広いお屋敷に入るらしい。


 若君は去年の春の除目で、少将から中将に御出世されたばかりだが、あの大納言のご長男、宮廷内での評判もいいとのことなので、今年の春には早くも大将になられた。普通なら出世など簡単にできるものではないし、名目上の官位があっても役職を得られずに、宙ぶらりんな立場に困る人もいるという。つまり若君はそういう人とは対照的な出世街道まっしぐら。勢いのついた若い上達部、貴公子という訳だ。


 そういう婿君を通わせるのはその家にとっても大変な名誉で、人々の関心も集まるし、家族、親せき一同の出世や立場にも大いにかかわる。そのため婿君へのもてなしは、それはそれは心も贅も尽くしきられたものでなければならない。屋敷の中はてんてこ舞いだ。


 大工や職人の出入りも激しく、庭先を見知らぬ人の姿が通り過ぎたりしている。今の姫様の部屋の方や、中納言様の北の方の寝所は静かなたたずまいを保っているが、ちょっと用があって渡廊と呼ばれる、館と館をつなぐ橋状の渡り廊下を渡っていくと、沢山の人がいてびっくりしたりする。



 これは遠い唐土の国や、もっと遠くにある国でも同じだそうだが、貴族の方々は御家族とはいえ同じ屋根の下で暮らすという事が無いらしい。大きな邸の敷地の中に、それぞれの館があり、それぞれに人が雇われ、設備を整えて暮らしている。

 私は物持ちの父が贅をこらした邸に暮らしてはいたが、父や義母と部屋は違えども同じ屋根の下で暮らしていた。家が違うのは下男や下女の者たちで、あとは父が通う先の女人達ぐらいだろうか?

「同じ屋根の下で、家族で毎日ともに食事が出来る。これは貴人には無い楽しさだ」と、父は言っていた。


 初めのうちは、姫様のご家族が、まず歌や手紙で御訪問の旨を伝えてきて、お返事の歌を送り、先駆けの者が来訪を伝えてから、ご本人が渡廊を渡ってお出ましになるのを私は物珍しげに見いってしまった。物語や本で知識としては知ってはいたが、その段取りや所作を見たのは初めてで、私も憶える必要があった。


 私のお仕えする姫君様はまだ御母上である北の方様のお部屋の近くに住んでいられるけれども、増築先が整えば、そちらに移っていただく手筈になっている。だから私達も引っ越しの仕度に大わらわだ。婿君とそのご家来に禄(褒美)として与えるご衣裳の仕度を整えるのもこちらの役目、日が傾いてくると、油に火をともして縫い物に追われる。お針子の下女もいるにはいるが、それでも間に合わないのだ。


 そんな忙しい中、私は姫君様の庭先に数人の侍がいる事に気がついた。その中に康行もいる。


「なんで大納言家の侍達がここにいるの?」


 私は康行に尋ねた。


「のんきな奴だな。こんな大きな邸にこれだけ大勢の人間が出入りしているんだ。いつ、何が起こるか分からないじゃないか。中納言家の侍だけじゃ足りないだろうと、俺達も大納言様に言われて助っ人に来ているのさ。お前なんかは知らないだろうが都ってのは物騒な所なんだ。盗人に強盗、人さらいに人買い。特に女子供は狙われやすいんだ。たとえ権門の家の女房でもな」


「まさか。あんた私を怖がらせようって思ってるんでしょう?」


 私は秘かに、康行は長者の娘である私を出世のために狙っているんじゃないかと疑っている。邸に雇われるのだからまったくの農民と言う訳ではないのだろうが、田舎の地下人。郷里に帰れば田畑を耕して暮らしているであろう彼が、私に対して少々なれなれしいのが引っ掛っているのだ。


「本当にお前さんは世間知らずだな。いいか、都じゃ女はいい金になるんだ。まず、その着物だ、上質の絹の袿から、肌触りのいい綿の下着まで、幾重にも重ねたその着物だけで、貧乏人は当分、面白おかしく暮らせるんだ。それに髪の毛だ。その長い髪はいい、かもじ(つけ毛)の材料になる。髪は女の命だから、買い手は引く手あまただ。そして本人は淀の遊び女の元締めに売られて、春を売ることになるんだろう。その時も出自が良ければいいほど金になるのさ。姫君だって今時は危ないんだ。へたすりゃかえって狙われる」


 そう言えば、女房達の間でも噂になった話がある。さる権門の家の姫君が、家人に裏切られて夜中にさらわれ、そのまま行方知れずになっているが、東の国よりも北の地の遊び女に、姫君にそっくりな女がいたんだとか。


「特に、ここ最近は物騒な事になっている。まして今度のご婚儀は世間の注目の的。何かあったら、大納言様も中納言様も面目は丸つぶれだ。他にも男の社会には色々あるらしいが、俺もそこは噂しか知らない。何にしても俺達はお前さんの姫君をしっかり守らなけりゃならないんだ」


 そういわれると邸の中のにぎわいも、何か落ち着きのない騒々しい物に聞こえてくる。


「嫌だわ。せっかくのお祝い事なのに」


「そう思うんなら、お前さんも姫君から離れないでいてほしいもんだ。それにあんまり動き回らない方がお前さんのためにもなるだろう」


「どういう意味?」


 何か遠回りな言い方だ。


「こういう時、新参者は疑われる。ましてあんたは出自がいい方じゃない。金をつかまされて何かしでかすんじゃないかと、疑っている人間もいる筈だ」


「私がそんなことする訳ないじゃないの!」


 思わず声を荒げてしまう。


「そういう見方をする人間も多いんだよ、都には。実際そういう事が起こっているんだからな。誰もが用心深くなっているのさ」


 そこまで行くと、用心深いというよりも、疑心暗鬼という言葉の方がしっくりくる。しっかりした紹介があって、身元を調べつくした召使まで、信用できない世界なのか。


 物語で姫君がさらわれると言えば、悲恋の恋人が姫を拉致するとか、人妻に恋する間男が、思いあまって夫人を連れ去るとか。そう言った美しい世界は、現実にはあり得ない物らしい。


「まさかとは思うけど、あんた達は大丈夫なんでしょうね?」


 そう聞いて白状する悪党はいないのだが


「そうそう、そのくらい用心深い方がいい。お前さんは姫君から離れるな。なんだかんだ言ったって、姫君のいらっしゃる所が一番安全だ」


 真剣に話していたかと思うと、からかいのそぶりが見える。どこまで気を許せるのか分からない。


「分かったわ。でも、あまり姫様の近くに姿を見せないでね。ご結婚前の落ち着かない時なんだから、少しでもくつろがれる時間を持っていただきたいの」


 本当にそう思っていた。例の琴の一件から、私は姫様への肩入れする気持ちが強くなっていた。


「そこは俺達も若君に言い含められているよ。うちの若君もなかなか面白い人なんでね」

 そう言って康行は仲間の元へ戻ろうとしたが、思い出したように振りかえると


「あの櫛は気に入ったか?」と、聞いてきた。


「何のこと?」


 私はとぼけた。


「……まあ、いいか」


 そう言って今度こそ康行は背を向けて歩いて行った。


 それにしても、康行という男はどういう男なのだろう? 私はちょっと気になった。たかが侍。若君付きの従者と言う訳でもないのに、従者や使いの方が来る時にはいつも康行が警護についている。大納言家ともなれば、飼っている侍の数は相当なものだろう。その中でも高貴な方々に近い所にいつもいるような気がする。下男と変わらぬ立場にありながら、それほど信頼されているのだろうか?




 その日の夕方に私は姫様にお声をかけられた。


「私の三日夜みかよの宴の席で、あなたも琴を弾いてもらいたいの」


 私は仰天した。そんな大切な席の演奏を新参者の私が勤めたりしてよいのだろうか?


 ご結婚は三日の時間が必要だ。まずは初夜。婿君が姫君のお部屋を訪れて、お二人が初めて顔を合わせる晩だ。そして翌日も婿君はお部屋に通われて、いわば相性を確かめる。そして三日目の夜に婿君のお披露目として盛大な宴が催されるのだ。その後お二人で正式なご結婚をされたあかしとして、三日夜餅と呼ばれる姫君側で用意したお餅を召しあがっていただく。

 この時三日間男君が通わなければ結婚は成立せず、女君は愛人という事になってしまう。だから形式的とはいえ、三日目の夜の宴はとても重要なものなのだ。


 この日の客人達は親族は勿論、中納言家の面子をかけたそうそうたる顔触れになることだろう。演奏に携わる方々も、当代一流の演奏家たちが集められるはず。その中で私に琴を弾けと?


「そんなに緊張しないで頂戴。もちろんやすらぎにも弾かせるわ。この間の合奏のような演奏で私の婚礼を是非、飾って欲しいのよ。あなた達の演奏はどんな名演奏よりも私には価値があるの」


 そう、言っていただけるのは本当にありがたい、とても名誉なことではあるけれども、じゃじゃ馬の私も、これには緊張する。あまりの事に背筋にひんやりと汗をかいてしまう。


 どのような演奏家がいらっしゃるのかとうかがうと、宮中で大切な儀式の時に帝の前で演奏なさっている有名な方の名前がポンポン出て来る。聞かなきゃよかった。


「私はあなた達が心をこめて演奏してくれれば満足よ。でも、急にこんなことを言われても緊張するなという方が無理でしょう。あなたはまだ、この邸にも慣れているとは言えないのだし。練習する時間をあげましょう。花房はしばらく縫い物はしなくていいわ。夜の参上も控えてよろしい。心が落ち着くまで練習に励みなさい」


 励みなさい、と、言われても。


 しかしここまで言われると断ることもできない。私ひとりならともかく、やすらぎも弾くというのだから逃げ場が無い。

 仕方なく、私はしばらくの間、琴の練習に明け暮れて過ごすことにした。



 このことを叔母を通じて父に知らせると、父は家の誉れと大喜びで、新しい琴と弦を用意してくれた。使い慣れない物では心もとないのだが、せっかくの心づかいなので、練習で慣れる事にする。

 衣装も抜かりなく用意できそうだ。康行ではないが、女房は正装にお金がかかる。格の高い方々は、上質で軽く、暖かい品の良い衣装に身を包むが、私達は失礼のないように、十二の衣を身にまとう。質はともかく、よく砧を打ったきちんとした光沢のある絹を色とりどりに染め上げて、宴の花としての振る舞いが求められる。見ようによってはひと財産を抱えているような物なのだろう。


 演奏するには邪魔なのが本音だが。




若くして「大将」にまで上り詰めてしまうというのは話の都合です。

大将の任官時平均年齢は40.3歳。最も若いのは藤原頼道が24歳で任ぜられています。


ただ、やはり位の高い大納言の職に、藤原伊周がわずか19歳で任ぜられるなど、その家の勢いや帝との関係などで重職でもそれなりに融通が利いてしまたようです。


話の途中で主要人物の呼ばれ方が変わるのを避けるために、高めの地位で設定してしまいました。

(そこまで高い必要、無かったですね・・・)

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