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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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視線

「大将はあの琴弾きに、随分責められたようだね」

 主上は大将の顔色をうかがいながら言った。


「いえ、どうという事は無いのですが、身分がら後宮の事は良く分かってはおりませんし、何しろ気の強い女人ですので」

 大将は気を張って、笑顔で答えて見せる。


 本当は気の強い花房が沈んでいた事を気に病んではいるのだが、今度の事をもっと気にしているのは当事者の主上のはずだ。


「主上の方こそ、梅壺の方をお里下がりさせられるのは、不本意な事でしょう。心中をお察し申し上げます」


「いや、父親の謹慎中に更衣をなまじ宮中に残しても、私の通いもないままに、心ない視線にさらされるよりは良いのかもしれない。私も更衣には、少し情が傾き過ぎたようだ」



 主上も、中宮が不在の間は出来るだけそれぞれの女御方の元へ一通りにお通いにはなられていたが、どうしても更衣様にまで足を向ける機会はそう、多い物ではなかった。


 更衣様は主上と最も長く連れ添われている方なので、主上も本当のところはもっとお通いになりたい方ではある。


 しかし、今では主上には、中宮の他にお二人の女御様がおられる。お立場から言ったら女御様方を軽んじられる訳にはいかない。更衣様が女御様を差し置いて、主上のご寵愛を多く受けたとなれば、どんな所から、人のねたみを更衣様が受けるとも限らないし、その父親も難しい立場に追い込まれるやもしれない。


 そうなると、それぞれの方のお立場や、様々な人の思惑を考慮しながら通わなくてはならない。中宮様が不在の時は向こうも待っているだろうとは思ってはいても、色々な事情を気にしなければならない。


 更衣様もそこを気にかけていて、いつも控えめに、一歩引いた態度でいらっしゃるが、やはり寂しさは現れてしまう。その姿を見ると主上も哀れに思われて、つい、情が傾き過ぎて通いつめたり、それを反省して全く足が遠のかれたりしてしまうようであった。それがかえって更衣様を苦しめるのではあろうが。


「梅壺の方は長く私を理解しているので、私もつい、あの方には甘えてしまった。多少通う事が途絶えても、あの方なら我慢して下さるだろうと思っていた。あの涙を見るまでは。だから、あの方へのお詫びのつもりで、通いつめてしまったんだ。私はかえってあの方を追い詰めたようだ」


「主上のせいでは御座いません。ここはそういう場所です。お二人のお立場ではこういう事が起こるのも仕方のない事でございます。お里下がりまではまだ二日あります。お二人でごゆっくり話し合われるのがよろしいでしょう」


 大将もそう言って主上をお慰めするが、生涯を縛られた女人の立場からすれば、このような事に耐えるのは、やはり苦しい事に違いあるまい。同じ女人の花房に理解しろというのも、無理があるのかもしれない。


 こういう事で主上が出来る事は殆んどないと言っていい。あるとすれば主上のお優しい温情ぐらいのものだろう。


 その主上の優しさが、更衣様をお救いする事は出来るのだろうか?


 こればかりはお二人の心のうちの問題だ。大将は花房に尋ねられた答えを見つけられぬまま、主上の心情に思いをはせていた。





 夕方の琴の練習の前に、私は梅壺を覗いて見たが、やはり皆、元気がない。更衣様の御父上が御謹慎中なのだから静かにふるまっているせいもあるのだろうが、ようやくはなやぎが戻ったところに冷や水を浴びせられたような事態に、皆が沈んでいるのだろう。


 私が余計な事をしなければ、こんなに急に更衣様のお立場が追い込まれるような事は無かったかもしれない。私はすっかり後ろめたくなってしまった。


 今日は公達達が、叔母の局を冷やかしに来る事もなかった。公達だけではない、誰もが梅壺を遠巻きに眺めているような気配がする。昨日とは打って変わって、手のひらを返したような空気が流れている。


 これが後宮というところの本質か。私は梅壺に注がれる痛いまでの視線を感じていた。


 更衣様のお立場では、ちょっとした事が起こるたびに、こんな視線が集まったのだろうか? これでは最初に更衣様にお会いした時の梅壺の雰囲気もうなずける。皆、普段から慎重にならざるを得なかったのだろう。


 初めて梅壺に来た日は、ここをうっとおしいと感じたが、本当にうっとおしいのは、後宮にかかわる政治的思惑と、それに左右されている人々の視線だったんだ。


 麗景殿に入ると、その視線はさらにあからさまになった。同情と悪意が私に向けられる視線の中に入り混じっている。皆、私から顔をそむけながらも目でちらちらと様子をうかがっているようだ。


 こんな態度を取られたら、いつもだったら黙っていられないところだが、私はすでに更衣様にご迷惑をかけてしまっている身だ。ここで下手な騒ぎを起こすわけにもいかない。我慢のしどころだろう。


 おかげで私は大将様に、かなり八つ当たり気味な視線を送ってしまった。これもそれも、大納言家が更衣様を追い詰めているせいなんだからね! 私は一言も大将様と言葉を交わすことなく、その日の練習を終えた。



「姫、花房の姫。藤花の君」


 大将様が私にお声をかけているのに、無視して梅壺に戻ろうとしていると、さらに追いかけてこられた。


「どなたをお呼びですか? 藤花の君なんて、聞いたことのない名ですこと」


 仕方なく私は足を止めて、嫌みたっぷりに返事をした。


「そんなおっしゃり方をしないでください。前に言ったでしょう? 私はあなたのほととぎすだと」


 大将様は「やれやれ」といった様子で私の前に立ちふさがった。


 確かに以前、大将様は御自分を花房という名の私に寄り添って鳴くほととぎすにたとえられた事があった。


「梅」には「うぐいす」。「紅葉」には「鹿」。「藤の花」には「ほととぎす」。遠い昔からの決った組み合わせ。


 そこにたとえて大将様は私に言い寄られてこられたのだ。


「私は自分の蔓枝にほととぎすを泊らせた覚えはありませんけど?」


「まあ、そうおっしゃらずに。二人の時は私はあなたにお気楽に、ほととぎす、とでも呼んでいただきたいのですよ。ですからそんなに怒らないでください。更衣様の事は、私にも主上にも、どうする事も出来ない事なんですから」


 なーにが「ほととぎす」よ。一国の帝と、国一番の権力者の息子が、か弱い更衣様一人お助け出来ない癖に。


「どうにもできないのでしたら、私達の事はほっといてもらえません? こうして大将様とお話している事も、ひょっとしたら更衣様のご迷惑になるかもしれませんから」


「そう、苛めないでくださいよ。困ったな。実は私はあなたにお願いがあるんですよ」


「大将様が、私にですか?」


「私が、あなたにです。あなたにぜひ、琴を弾いていただきたいのですよ。更衣様と、主上のために」




 梅壺に戻ると、皆の元気のない中で、小侍従が一人、気を吐いていた。


「こういう時こそ、更衣様のお慎み深さ、気品のあるお過ごし方が物を言うのです。人の目を引くことだけが、女人の価値ではありません。皆、もっと胸を張って、恭しく主上をお迎えしなくてはなりません」


 そう言って、逗子の置き方、几帳の下ろし方一つにまで、こまごまを指図をしたりしている。


「けれども、女雅楽が終わればすぐに御所を離れなければならないんですよ。今更気を張ったところで、こちらの更衣様はかすまれてしまうんじゃないでしょうか?」


 女房の一人が、そんな愚痴を吐く。言葉にはしないものの、そう思っている人は他にもいるに違いない。


「何をおっしゃるんですか! 今度の御退出は一時的な事。更衣様はすぐにお戻りになられます。その時に主上に更衣様の事をおなつかしく思われるように、精いっぱい努めるのが私達の役目ではありませんか。ここは麗景殿とは違います。主上を面白おかしく過ごさせ給う場所ではありません。たとえたまさかでも、おなつかしく、心安らかに過ごしていただくところなのです。そこを私達は忘れてはいけません」


 小侍従は扇を開いた中からも、目を鋭く光らせて、私達をしっかり見据えながらきっぱりと言った。


 ああ、やはりこの方は、心から更衣様の事を思ってお仕えしてらっしゃるんだわ。更衣様の良い所を良く御存じの上で、決して他の方々に劣ることのない方だと信じていらっしゃるのだろう。


 でも今宵はこの方から、私の思うがままに弾く琴を、認めていただかなければならない。先日の通り一遍の弾き方ではない、私が魂を込める時の琴の音をお二人にお聞かせしなくてはならない。


 そのためなら私はどんな弾き方もする。小侍従はそれを認めて下さるだろうか?


「小侍従さん。今夜は私はお二人のために琴を弾かせて頂きたく思いますが、私がどんな弾き方をしても黙って見届けていただけないでしょうか? 几帳を立てて、決してそこから姿をあらわしたりはしませんから」


 私は真剣にお願いをした。心からお二人のために弾きたいのだという思いを込めた。


 小侍従は頷いて、私の願いを受け入れてくれた。



 主上が梅壺にお渡りになる。


「こんな時に梅壺にお渡りなんて」と言った、無言の視線が他の御殿から突き刺さってくる中を、主上はかまうことなく訪れて下さる。私達もそれに応えなければならない。落ち込んでいる暇など無いはずだ。


 まして私は女雅楽が終わったら、ここを去らねばならない身。ご迷惑をかけた更衣様のために、精いっぱいの事をしなくてはならない。



 私は几帳の陰に用意された琴の横で、主上と更衣様に深々と頭を下げていた。


「私などの、つたない琴の音ではありますが、今宵は是非、更衣様にお聞きになっていただきたく存じます」


「私に、ですか?」


「そうです。僭越では御座いますが、大将様から主上が今度の事でどれほどお心を痛めておいでか、お聞かせいただきましたので、その御心をつたない私の琴の音に乗せて見たく存じます。どうか、お聞き届けいただきますよう」


 更衣様も、主上も、しばらく無言でいらしたが、やがて


「その演奏を聞かせてもらいましょう。あなたが語りたいという、主上のお心を」


そう、更衣様がおっしゃられて、主上もうなずかれたご様子だった。


「ありがとうございます」


 私はお礼を申し上げると、さっそく几帳のうちに回り、琴の音を奏で始めた。




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