人気者
更衣様が御満足なようなので私は胸をなでおろしていたが、小侍従はそうはいかないようで、
「更衣様はああおっしゃったけど、あなたの身が無事でいらっしゃるのは、主上の温情あってのこと。昨日のあなたのお振る舞いが正しかったとは私には思えません。一つ間違えれば大変な事になっていた事を、あなたには分かっていただかないと」と、さっそくお小言が始まった。
「それは、私も反省しています。今朝は更衣様にお詫びに上がるつもりでしたから。正直に言うと、後から怖くなりました。何事もなくて良かった」
つまらぬ意地を張ってもしょうがないので、私は本音を伝えた。
「まあ、無駄に舞い上がってはいないようですね。あなたには大将様の後ろ盾がおありになるから、一層大胆になっておられるのでしょうが、そこに頼るのはお辞めになるべきです」
「別に頼っているつもりは」
「いいえ。あなたはやっぱりお若い。相手に悪意がないと感じると、比較的すぐに安心してしまう。まだおわかりにはならないでしょうけど、公達(公家の男性)というのは悪意は無くても気まぐれで時に残酷なものなのです。あなたのように無防備な方は、いつ、面食らうような思いをするとも限りません。女人がつつましやかに生きることにはそれなりの先人の知恵があるのです。女人には女人の知恵がある。それを生かせる方こそが、本当の貴婦人となられるのです」
へえ。やっぱり小侍従は、世の人々とは少し違うみたい。女人は早く位の高い良い男君に恵まれて、屋根の奥で子供のしつけにいそしむのが一番幸せだといわれているけど、この方は長い乳母勤めのせいか、御所に勤めているせいか、もう少し、理に勝っているところがあるみたい。
でも、私にも言い分はあるわ。
「私の事を心配して下さるお気持ちは嬉しいですけど、私は、世の人々に、伝えたい事があるのです。女人にだって言いたい事、伝えたい事があるというのを、色々な人に知って欲しいのです。他の方々が歌や、しぐさに込める思いを、私は自らの言葉や、琴の音、この姿で堂々と伝えたいのです。女人の名は役職は残されても、名前そのものは記憶にも、記録にも残してはもらえませんよね? 名を隠し、姿を隠し、わずかな歌と、人の口に登った容姿だけを残して、あとは誰とも知られることなく消えてしまうなんて、なんだかさみしい。私は悪口でもいいから、この都に思いっきり、爪痕を残してみたいんです」
「先人の方々が、女人が傷つかず、他の方々も傷つけずに済む知恵を授けて下さっているにも関わらず、あえてそれをしないというのですか?」
小侍従は、あきれた顔で私を見ていた。
「だって、心を閉じ込めて、なにも伝えられずにいれば、やっぱり傷ついてしまうもの。表面が穏やかでも、物言えぬ自分が、自分を傷つけるんなら、意味は無いわ。私が琴を弾く時は、誰かに何かを伝えたい。そのためなら、中納言様や、大将様の後ろ盾だって、利用するわ」
小侍従は軽くため息をついた。
「あなたは大人や、男君を利用しているつもりでしょうけど、人は利用するものでもされるものでもありません。若い女人のあなたは必ず情が上回ってしまう時が来るでしょう。その思い上りが大切なものを失うことにつながるかもしれませんよ。あなたが姿を隠さない事をとがめるのは控えましょう。けれど、もっと良く考えて行動できなければ、あなたが私に何を言ってこようと、私はあなたを認めませんからね」
そう言って小侍従は、私に自分の扇を渡してよこした。これだけは使えということなのだろう。
小侍従にはお冠を受けた私だったが、宮中では、私はすっかり有名人になってしまっていた。
もうすぐ御所に麗景殿の女御がお帰りになると他の女御、更衣様方が、戦々恐々となさっている所に、宮中に着いたその日に主上の関心を惹き、大将様と合奏をし、主上と更衣様の御夫婦仲を深めて、主上から袿を下賜された。
そんな私の大胆な行動で梅壺の更衣様のご注目度が、いっぺんに上がることとなった。
他の女御様方は、うらやむやら妬むやらで、梅壺の琴弾きはなかなか機転の利く、はしっこい女人。主人を立てるのがうまい、やり手の女人。そんな評判が立っているらしい。
梅壺の女房達は、皆、私をほめそやしてくれたし、他の御殿の女房方も、私に注目しているという。
人に褒められて悪い気はしないが、今朝方まで「やり過ぎた」と後悔していた私は、ほっとした気持ちが先に立っていて、それほど、してやったりという気分にはなれなかった。
それがかえって誤解を生んだらしく、私は世間の噂よりは奥ゆかしさがある女人、ということにもなったらしい。
おかげで私は宮中で、ちょっとした人気者になる事が出来た。
皆に受け入れられてみると、宮中はとてもおもしろおかしいところだった。
大きな邸で深窓の令嬢や、北の方様などに使えるのは、情緒あふれる「もののあわれ」が感じられる暮らしだ。
それも勿論、素敵な事なのだけれど、宮中はもっと刺激的で、社交的な場所。「おかし」を感じる暮らしだ。
御簾のうちからそうそう出られないのはここも同じなのだが、何せ御殿の広さが違う。召し使えられている女房も数が多いので、それだけでも華やかだ。
それぞれの御殿が妍を競っているだけあって、女房の衣装も華がある。宮中は流行りごとの発信源でもあるから、みな、それぞれに工夫を凝らしているのだろう。
確かに梅壺はそういう意味からすると少し地味なところはあるが、古風な梅を基調とした統一感があって、落ち着いたたたずまいが感じられる。寄せ集めた華やかさとは違う、しっとりとした趣があった。
そして、主上につかえる女官たちが、清涼殿に彩りを添えている。何をするにも御所に伝わる、古式ゆかしい習わしがあって、普通のお屋敷とは違う雰囲気がある。
そういう、女房や女官、彼女たちに使われる、私達のような少女たち。それだけの女人達が活発に仕事をこなすのだから、そこに生まれる社交も華があった。
互いの衣の重ね方を指摘し合ったり、刺し色の話に興じたり、流行の和歌を教え合ったり、恋の話にも花が咲く。何よりも噂話やおしゃべりに興じるのには、最適だった。
そう、誰それは恋仲と噂も立つはずだ。ここには殿上人の公達達も集まってくるのだから。
お邸では公達達は邸の主として君臨するか、客人としておもてなしを受ける人々だが、ここは彼らの職場でもある。そして後宮は社交の場所でもあるのだ。
御簾を一枚挟むとはいえ、共に物語を楽しみ、歌を詠み、楽を奏で、諧謔を楽しむ。扇で顔を隠してはいるが、御簾の外へ出て事務的なやり取りだってする。こんな世界は初めてだ。
その公達達が、噂の私と一言言葉を交わしてみようと、叔母の局や、ひさしの近くを訪れて、私を待ちうける。
彼らは私にお世辞を言ったり、嬉しがらせたり、からかって見せたりする。何とか私の顔を、外にさらけ出させようと、あれこれ言っては持ちあげて来る。
私も楽しくて、つい、乗せられそうになるのだけれど、小侍従の扇を目にすると、何となく心配してくれている彼女に申し訳ないような気がして、なんの意味もない時に顔を晒すのはやめようと思いなおす。
そのせいで、初めほどには「噂ほど大胆な女人という訳でもない」と、口の端にのぼる事も少なくなった私だったが、彼らと物怖じすることなく冗談を言い合ったりする私に、別の面白みを感じるらしく、公達達は私に声をかけるのをやめずにいたので、結局私は宮中暮らしを十分に満喫した日々を送る事が出来ていた。
それでも私の身分の低さを陰であれこれいう人たちもいたけれど、ここまで身分が低ければ、かえってものの数には入らないので、誰も私に干渉する人などいない。唯一苦言を言うのは小侍従だけだ。
女雅楽の練習も、それぞれの御殿から腕自慢の人たちが集められているだけあって、とてもやりがいのあるものだった。
田舎育ちの私は、もともと都で女房勤めをしていて、大変琴が得意だったのだが、結婚して夫につき従って武蔵の国に来ていた女人に、琴を一から教わった。
でも、あまり他の方の演奏を見聞きする機会が多くは無かったので、どうしても彼女の癖がうつってしまい、さらに私の性格からか自己流になってしまっていたので、こうして大勢の方々と練習するだけでも、いろんな事が解って楽しかった。
女雅楽はお帰りになる中宮様をお慰めするためのものでもあるので、麗景殿で行われる。
そのため、取り仕切っていらっしゃるのは、あの、大将様だ。ばったり出会うどころか、毎日顔を見る羽目になった。
そこは少々ばつの悪い物ではあるけれども、大将様が笛を合わせてみたり、童殿上している子供達も一緒に、太鼓をたたいたり、笙笛を吹いたり、大きな琵琶を懸命に支えながら弾いたりするのも、賑やかでかわいらしかった。
大将様は後宮の人気者らしく、どこに行っても誰かしらからお声がかかってくる。
特に美しい女房の方などが、大将様にお声をかけると、大将様も、わざと私に見せつけようとなさっているのが分かる。この方にそういうかわいらしいところがあるとは思わなかったので、そんな事も私には楽しかった。
しかも、私と梅壺の更衣様を大将様が常に気にかけているというので、更衣様も自然と皆に注目されていた。
決して華やかな、活発な方とは言えない更衣様だが、さすがは皇族の血をひかれるだけあって、どこか気品がおありになる。昨日今日の付け焼刃ではない、奥ゆかしさがあった。
初めにお会いした時は、心を閉ざされていたせいか、小さく固まっているような印象を受ける方だったが、それは主上のお渡りがなくなったにもかかわらず、中宮様に対抗しなければならないという重圧から来るものだったらしく、そこさえ和らげば、この方も、お優しい、控えめで落ち着きのある方のようだ。
このような方に華やかな暮らしはかえって肩がこるんだろうな。注目されるのはいいけど、かえってご負担にならなければいいんだけどな。
そうは思いながらも、私は御所暮らしの楽しさに、すっかり浮かれてしまっていた。ここが妍を競うのは、男君たちの思惑が絡んでいるのだという事を、すっかり忘れてしまっていた。
そう、ここはあくまでも、後宮政治という、政治の世界だったのだ。