御所
叔母に連れられて初めて訪れた御所は、ただただ、広いところだった。新参者が一人で入ったりしたら、間違いなく迷って出られなくなってしまいそう。
中納言家も大きなお屋敷だし、大納言家も外から見ると、塀がどこまでも果てなく続くような、広大なお屋敷だ。
ところが御所となると、もうこれは町が一つ、いや、三つ四つはあるのと同じで、そういう部分では大納言家にも似ているのだが、中に、古木がたくさん見受けられて、まるで森のようなところが沢山ある。
庭の一つ一つも大きく広くて、その中に巨大な建物が、いくつも連なっているのだ。女車の中で叔母が指さす。
「紫宸殿は、国の政事が行われている場所よ。帝の詔もここで下されるの」
牛車は奥へと入っていく。
「ほら、ここが主上がお住まいになられている清涼殿よ。向こうに女御様方が暮らすそれぞれの御殿が見えるでしょう?それから梨壺、桐壺、梅壺」
叔母は次々と案内してくれるが、私は御所の巨大さに呑まれて、まるで耳には入っていない。
それにここはすべてが古めかしい。京の都が作られてから、ここは国の中枢だった。その歴史が脈々と生きている事が感じられる建物だ。御所の中には鬼が済むという世間の噂も、成程これならば、と、思わせるものがある。古めかしい建物に巨大な森。夜、とても一人では出歩けまい。
私達は真っ先に梅壺の主である、梅壺の更衣様にご挨拶に上がった。
更衣様は小柄できゃしゃで、おとなしやかな、いや、もっとはっきり言えば、気の弱そうな方だった。何と言うか、覇気がない。こんな広大で古めかしい御所の中で、ひっそりと隠れるように生きている感じがする。
多数の女御、更衣が妍を競っている後宮に暮らしているのだから、もっと、堂々と、きらびやかにしている方かと思ったら、随分地味な印象がある。中納言家の一の姫様もおとなしい方ではあるが、ずっと明るく、生き生きとしておいでだ。お歳はこちらの方の方がずっと上だろうけど、性格は正反対なようだ。
申し訳ないけれど、私は最初の印象で「うっとうしい方だなあ」と思ってしまった。これじゃ、主上の足も遠のくわ。
ただ、私を基準にしたら、すべての女人がおとなしい人になっちゃうんだろうけど。
かけていただいたお言葉も
「雅楽まで日がないけれど、よろしくお願いするわ」
と、言ったきりで、たいして表情も変わらない。そっけない方だなあ。私の噂のせいかしら?
そういえば他の女房達も、何となく身を固くして、ひっそりと暮らそうとしているように見える。のびのびとしたところがない。ここで十日以上も暮らすのか。私はうんざりしてきた。
ところが私の気を引きつけるものがあった。庭だ。梅壺の庭はその名の通り、美しい梅が咲き乱れていた。
パッと目につく紅梅は勿論、清廉な白さが光る白梅も今が盛りとばかりに咲き乱れている。
室内には梅花香の香りがたかれているが、この香はそれだけではない、きっと外には自然な梅の香りがいっぱいに広がっているに違いない。私は嬉しくなって挨拶がすむと御簾から出て、御格子をあげ、縁に出ると思う存分庭の様子を満喫した。
紅白それぞれに幾本も咲き乱れる梅、広がる香、美しいやり水と池。そよぐ風と暖かな日の光。池の周りには、苔むす岩が彩りを添え、水仙が咲いている。私は庭に出ようと妻戸(出入り口の扉)を開け、すのこに足をのばしかけた。
「まあ、何をなさるんです!」
何処からか厳しい声が飛んできた。
見れば白髪の、年老いたいかにも古長けた古参の女房と言った感じの女人が、私を睨みつけていた。叔母の顔色には、はっきりと「まずい」という字が書かれたような表情が浮かんでいる。
「何って。ちょっと庭に出てみようかと思ったんですけど」
「今時の人は、平気で端近によって、困る困ると思っていましたが、よもや、縁に出て庭にまで出ようとする方がいようとは思いませんでした。世の中乱れるにもほどがあります。あなたのご両親はどんなご教育をなされたのやら」
私はかなり、むっとした。女人の教育は、乳母や、召し使う者よりも、両親の人格が現れやすいものと世間では言われている。だから両親の育て方を非難されてむっとしない女人がいたら、私は顔を見てみたい。
「お見かけしない方ですが、あなたが新参の方ですか?」
「本日から、この叔母の使い走りに使われることになっている、花房と申します。女雅楽の琴を弾くことにもなっていますので、よろしくお願いします」
私の挨拶を聞いて、古参の女房は、ますます嫌な顔をした。
「ああ、あなたが。お噂はかねがね伺っております。あなたは運がよろしいわ」
「は?」
「この私の居る、梅壺につかえる事が出来るのですから。私は梅壺の更衣の乳母で、小侍従と呼ばれています」
「乳母? あなたが?」
言ってしまってから失礼だと気が付いた。が、もう遅い。だって、白髪の彼女がまさか若い更衣様の乳母だなんて想像が出来ない。じゃあ、更衣様の乳兄弟の方は、この方のおいくつの時の子なんだろう? そんな私の顔を見て、小侍従も察しがついたらしく、すかさず言う。
「これでも私は姫様と、そのお母さま、自分の子供も六人を育て上げた、乳母の中の乳母です。乳の出も、それは豊かなものでした。今でも女人として現役です。慎み深い女人というのは、いつまでも現役でいられるものなのです。あなたにも、女人としての生き方をじっくりと教えて差し上げましょう」
これは相当うるさそうな方だ。人に小言を言うのを生きがいにでもしていそう。それにしても
「現役、現役って、要は男君が切らさずにいたって事じゃない。どこがつつしみなんだか」と、口に出してしまう。
勿論、小侍従は聞き咎めて
「あなたには、目上の人間への言葉の使い方から、お教えする必要がありそうね」と、私を睨みつける。
「良いですか? この梅壺は、古式ゆかしい暮らしぶりこそが似合うのです。あの、麗景殿とは違うのです。あなたは御所の事などなにもご存じではないでしょうから、私が一から教えて差し上げます。女雅楽の時までには、あなたも素晴らしい貴婦人となられますよう」
麗景殿とは女御様の住まわれる御殿の一つで、今は、大納言様のご長女が、中宮としてお住まいになられている、現在の後宮の中心となっているはずのところだ。
中宮様は半年ほど前に男御子を無事、お産みになられ、今度の女雅楽の折に、宿下がりされている御実家の大納言家から、御所に戻られることになっていた。でも、なんでここに、麗景殿の話が出て来るんだろう?
「あの、花房はまだ、こちらに着いたばかりで、私の局に案内もしておりませんので、この辺で失礼させて頂きたいのですが」
叔母がいつまでも小言が止まらなくなってはいけないと思ったのか、小侍従の話に割って入ってきた。
「そうでしたね。では、一旦下がってよろしい。夜にはまた、参上するように。一度、その琴を聞かせてもらわないと」
そういって小侍従は私達を解放してくれた。
でも、私は小侍従がさっき言った言葉の方が耳に引っ掛った。私を貴婦人に仕立てようなんて、以外に大胆な事を言う人だ。
私の噂が届いている以上、私の父の身分がどれほど低いかは、真っ先に伝わっているはず。
つまり、私をどんなにしつけた所で、所詮は下司の子。誰に感謝される訳でもないだろう。むしろ、私にはあまり表に出ずに、おとなしく引っ込んでいてほしいとは思っても、自分が恥をかかない程度のしつけさえすれば、そんなにかかわりたくないというのが本音のはず。でも、小侍従は(あれが嫌みでなければ)本気で私をしつける気持ちがあるようだ。
どうやら彼女は貴族としてはかなり珍しく、身分で人を判断しない人らしい。案外悪い人じゃなさそうだ。
私と気が合うかどうかは、全然別の話だろうけど。
叔母の局に着いて一心地つくと、私は早速尋ねてみた。
「ね、なぜ、小侍従さんは急に麗景殿の話を持ち出したりしたの?」
「こちらの更衣様に長らく主上のお渡りが無かった話はしたわよね?実はお渡りが途絶えたのは主上が中宮をお迎えになってからなの。小侍従の君はそれをとても気にしてらっしゃるのよ」
「それは、主上と中宮様の気があったからじゃないの? 御夫婦なんだから、相性ってあるもんでしょうし」
「違うわよ。もちろんお二人の御相性もあるのでしょうけど、主上は大納言家の大将様と、大変仲の良い御学友なの。中宮様はその大将様の姉上に当たられる方なので、主上は一層、中宮様へのお渡りが多くなるみたい。それに大納言様のご威勢も大変強い物があるから、他の女御様方もお父様方の事を気遣って御遠慮気味になるのよ。ましてうちのお姫様は更衣でいらっしゃるから、女御様方を差し置くような真似はできないしね。それに」
「それに?」
「こう言っちゃ失礼だけど、梅壺の更衣様の御実家は、あまり経済的に恵まれている方じゃないわ。お母上は皇族の出だから女御様でいらしてもいいくらい血筋は申し分ないけど、御父上は先の帝にかかわっていらっしゃった方だったから、今では政治的権力は無いに等しいし、財力だって……。実はあなたのお父様の援助に頼ってらっしゃる所も大きいのよ。表には出せないけどね。だからせめて、きらびやかで華々しい、中宮様に負けないように、つつましやかで品のいい、皇族らしいお暮らしを小侍従の君は更衣様にお求めになっているの。私達にもね」
それで、みんな、あんなに縮こまるように暮らしているのか。ああ、うっとおしい。
「だから、大将様とゆかりのあるあなたの事を、みんなどこかで気にかけているの。あなたによくない噂がある事は知ってはいても、あなたの存在が更衣様のお立場を強くしてくれるんじゃないかと、心の中では期待しているのよ。あなたには飛んだ災難でしょうけど、あなたが梅壺の切り札になってもらえる事を私も期待しているわ。どうかあなたも大将様の気を引いていて頂戴ね。無理なお願いをしているのは分かっているけど」
無理を承知のお願いが、どうやら私には付きまとうものらしい。私は自然にため息が出てしまった。