噂
姫様の三日夜の宴からふた月。私の事は、すでに都中の話題になってしまっている。
中納言家のとんでもない、やんちゃ女房と言えば、私の事。あるいはこの春の除目で近衛の大将に御出世されたばかりの、大納言家のご長男にまとわりついた、タチの悪い女君、と言ったところか。
そう言われても仕方がない。この三カ月は、御世辞にも平穏無事な日々だったとは言えなかったのだから。
大将様との事だって、世間が言うような仲になった事なんてない。たった一度、お歌をいただいただけだ。
それにしてもこのふた月の間、都人の口さがのない事と言ったら! 噂話の質でいったら、故郷の武蔵の国の方がよっぽどマシだった。
初め私はかの、悪評高い前帝一派にさらわれた悲劇の女房として持ち上げられたらしい。実際それは事実だし。
問題はその後だ。私は大将様と姫君様のご婚儀の三日夜の宴で琴を弾いたのだが、かなり斬新で、独創的な弾き方をした。全身で、感情をこめて、髪が乱れようとも裳がずれ落ちようともかまわず弾いた。
これに都人の意見は真っ二つに分かれたらしい。
これまでに誰も聞いた事のない、初めての調子、初めての音色。天女が弾く虹の琴のようだと言う、称賛の声。
そして、心を乱す、乱暴で、独りよがりで、もののけがついて人を惑わしているようだという、非難の声。
そんな声が渦巻く中で、私は思い切った行動に出た。わが身を隠す事をやめたのだ。
貴人に仕える女房と言うものは屋根の下で暮らし、邸の外の者にはなるべく姿を見せず、御簾の中に几帳を立てて、その影に扇で顔を隠して暮らすのが、しとやかで恥じらいのある生き方だと世間では言われている。特に都では。
しかし私はそれを良しとしたくなかった。その考え方を否定して生きる覚悟を決めた。堂々と顔をさらけ出した。
当然それは、あっという間に噂となって広まった。私のそれまでの行動にも尾ひれがついた。
実は私はさらわれたのではなく、自ら前帝達に近づき、薄衣一枚の姿で誘惑して金品をだまし取っていただとか、本当は姫様を恨んでいて、しびれ薬を盛ろうとしたとか、大将様に姫君様の悪口を吹きこんでいるとか。
しまいには、あの宴で琴を弾いた時は、天岩戸にこもったアマテラスを誘うのに、胸元を広げて踊り狂った浮かれた女神のように、半裸になって弾いていたとまで言われてしまっている。
なんでこんなに言いたい放題言われるのかと言えば、なんてことない、私の父の身分が低いからだろう。
人の噂をある程度信じるなら、私なんかよりも凄い事をしている女房なんていっぱいいる。
実家に金銭的な余裕がなければ、自ら儲け話を振りまいて、貧乏公家に金を貸して蓄えを増やしている人もいるらしいし、地方の受領に情を通じて経済的に援助を受けている人もいるらしい。 現実問題として、女房暮らしは華やかな分手当もいいが、支出も結構かかるのだ。
それまで私は身分は低いが金には困らない父のおかげで、そういうことにはまるで疎かったのだが、都暮らしが長くなるにつれ、そういう裏事情も理解できるようになってきた。
そんな都で上京したての小娘が、親の金の力で女房に成り上がり、雲の上人であるはずの姫君様のそばにお仕えし、その背の君である大将様を恋人にして(これは誤解なのだが)二人の後ろ盾をいい事に、好き勝手にふるまっているのだから、そりゃあ、恨みも妬みも買って当然なんだろう。
だから私の噂が都中に広がっても仕方のないことだと思っていたし、姫君様と大将様の後ろ盾も私は大いに利用させてもらって、堂々と顔をさらしたまま、姫様のお世話をし、暮らしを整えて差し上げ、琴を弾きならしていた。
ところが、まさかその噂が今上の帝のおられる九重の宮中のかなた、御所の奥深い御簾のうちにまで届いていようとは思ってもみないでいたのだ。
その夜、大納言の長男である近衛の大将は、久しぶりに御所の宿直をしていた。
中納言家の一の姫と結婚したばかりの新婚と言う事で、しばらくの間は日を開けずに中納言家に通っていたため、帝の身をお守りする近衛の大将と言う身分に出世したばかりだったにもかかわらず、ふた月の間ほど宿直は免除してもらっていたのだ。
大将はしばらく、私的な時間に主上とお目にかかる事もなかったので、その大将が宿直しているとお聞きになると、主上(帝)は早速、大将を碁のお相手にとお呼びになられた。
前帝は「訳あり」で失脚なされているので、今上の帝はまだ十九とお若くていらっしゃった。
だから年の近い一つ下の大将などは、御公務から離れられると良い話し相手になるらしく、管弦の遊びのお相手や宿直の夜の話し相手などには、よくお呼びつけになるのだ。今夜は久しぶりの碁のお相手らしい。
大将の方でも主上からのお誘いは嬉しかった。碁のお相手も楽しみである。
大将は幼い時から主上の元に童殿上して、主上とともに手習いを受けて育っていた。
おそらく父である大納言が、前帝よりも当時東宮だった主上に目をつけて、自分を親しい位置に据えたに違いない。実際、そのおかげで大将は今の地位を手に入れている。
それはさておき、幼い頃からまるで乳兄弟か、幼馴染のように育った主上と過ごす時間は、大将にとっても楽しいものがある。身分は違えど、腹を割った親友に会うような心地さえするのだ。
貴族たちの世界はとてもせまい。まして上流ともなれば付き合いのある人間は皆、血縁が誰かに突き当たってしまうほど世間が狭い。その中でさまざまに接するのは、むしろ召し使う身分の下の人間たちだ。
貴族の生活とは昼夜問わず、人々に囲まれた生活でもあるのだろう。人がいなければ成り立たないのだから。
彼らは自分達の地位を守るためにも、長年慣れ親しんでしまう心情的にも、召し使う者たちを懸命に養っていく。
召し使われる者たちもそんな彼らに心を寄せるし、まさに手足となって働いている。
実生活ではあまり顔も合わせる事もなく、関係も希薄になりがちな親類縁者や、離れて暮らす父、母、兄弟など、政治的な風向き一つでいつ、心が変化するか分からない同じ血筋の人間よりも、時として、より深いきずなが生まれることだって少なくは無い。
恋や友情だって当然生まれる。主従関係とは奥の深い物なのだ。
それはたとえ帝と臣下であっても変わりは無いらしく、主上と大将の関係は、まさにそういったものであるらしかった。要するに二人は気が合うのだ。
そんな気の合う主上と、大将は久しぶりの碁で主上に押し気味の展開をしていた。遊びで花は持たせない。それが主上との昔からの約束事である。
「ううむ。腕をあげたな。ここの隅を取られたのは痛かった。こっちの地を取られまいとムキになり過ぎたかな?」
「婿入り先の中納言殿は碁の名手でいらっしゃいますから。お相手をしているうちに、私の腕も上がったようでございます」
「なんだ。宿直もせずに碁の特訓をしていたのか? これではかなわぬはずだ。それでは夫の務めも果たしているか分からないな」
主上は負けを認めて碁石を器に戻しながら笑った。
「新婚と申しましても、妻はまだ十五で御座います。まだまだ形ばかりで、子供の遊びのようなものですので、中納言殿と碁を打ちましたり、女房達に話し相手になってもらっているのですよ」
大将がそういうと、主上がまるで待ち構えてでもいたかのように視線を合わせて来た。なんだ?
「そうそう、中納言家の女房と言えば、大将は早速お気に入りの女房を見つけたそうじゃないか。まだ新婚だというのに偉く手回しが早い事だ」
主上はそうからかって笑われる。
花房の事か。これはちょっと厄介だ。普通の女房を落とした後なら戯れ話を主上と楽しくできるところだが、花房は事情が違う。こんなところにまで噂が広まっているとは思わなかった。
「別に手などまわしていませんよ。実務的なやり取りなどを言付かってもらっている、普通の女房の一人です」
「普通かな? 何でも大変なやんちゃぶりで、顔も隠さずに歩くそうではないか。しかもたいそう面白い琴の弾き方をするのだろう?」
噂はどの辺までねじれて伝わっているのだろう? あまり品のない事もいいかねる。
「それほどでもありませんでしたよ。やや、斬新ではありましたが、美しい、良い音色で御座いました」
「良い音色か。本当は大将が手とり足とり教えたのではないか? 衣を着せかけた仲だそうじゃないか」
大将は返事もせずに、曖昧な笑い方をした。自分は宮中では名うての色事師、女人相手ならそんじょそこらの男達には負けないという自負がある。そういう自分が結婚まで持ち出したのに、身分の低い、わずか十六の娘に袖にされたとは絶対に知られたくなどない。あまり突っ込まれたくない話だ。
「お前は笛が得意だが、その琴の音と合わせた事はあるのか?」
「いいえ、そのような機会がありませんので」
大将はなるべくそっけなく答えた。
「それはもったいないな。私はその琴の音と、お前の笛を合わせた演奏を、ぜひ、聞いて見たくなった。今度後宮で女雅楽の演奏をしたいと思っているのだ。その中納言家の女房も殿上させて、お前の笛と合わせてみよう」
主上は好奇心丸出しで、面白そうにおっしゃった。
これは厄介な事になったと、大将は心の中で歯がみする。