自由
桜子以外の一味は、侍崩れの郎党達と、京わらんべと呼ばれる、ならず者ばかりが捕まった。
彼らは私の脱ぎ棄てていった衣を持って「女房の衣装目当てに誘拐した」と言っているそうだ。検非違使も取りたてて尋問を強いたりはしていないらしい。康行が賊を切り捨てた事さえ、もみ消されていた。
裏では前帝やそれに群がる不遇な貴族達が暗躍しているに違いないのだが、朝廷内の複雑な勢力関係を皆が気にしているので(それは表面からでは見通すことはできない)そういった貴族達に役人が深くかかわることは無い。
ましてや前の帝であらせられた方に、ただ人の役人達が何をできるというのか。結局、真実が世の中に露呈することは無いのだ。桜子は何のために大胆な事を企てた挙句、死なねばならなかったのだろう?
桜子の自害は私にとって十分衝撃だったが、同時に桜子への悔しさがこみ上げてもきた。
もう私が何を思おうとも桜子の心に届くことは無い。
桜子さん。あなたは死ぬべきではなかった。死んではいけなかったわ。本当にこの世に恨みがあるのなら。私へのねたみと、憎しみがあるのなら。これじゃ、なにも世の中に届いていないじゃないの。
何故、命あるうちに私にもっとこの世の不幸を知らしめなかったの? 大納言様達にはっきりとおっしゃらなかったの?
しかし私は考え直す。私達女人が、本当に男君の方々に物を伝える事なんて出来るのだろうか?
もしも本当に桜子さんが、あの検非違使の役人に心の内をぶつけるのなら、越後国司の娘として彼の邸に乗り込むしかないだろう。そうすれば気のふれた愚かな女が男君の元へ乗り込んだと都中の笑いものになり、彼女も彼女の一族も、誇りの欠片も失うような事になるのかもしれない。
まして大納言家にいたっては、彼女の一族の存在すら、もみ消してしまいかねない。彼らの傲慢な耳には、どんなに私達が声を立てても届くことは無いだろう。彼女の胸につかえた心を吐き出すにはあまりにも犠牲が大きすぎるだろう。
御仏は女人は生まれた時から罪を背負っているのだという。その罪ゆえに自らの心のままに生きることはできないのだとか。そんなにも罪深い女人を、何故男君は求め、利用しようとするのだろう?
桜子さん。あなたは結局この世で自分の心を誰にも伝えることはできなかった。私を除いては。
私はあの時のあなたを決して忘れない。憎しみをたたえて立ち上がったあなたを。私だけはあなたを理解するわ。
それでいいでしょう?
「やすらぎ。今日の合奏の他に、私に独奏で琴を弾かせてもらえないかしら?」
私はやすらぎに頼んだ。
熱の下がった私は縁に出て康行と会った。康行はだまりがちでそれでも私に櫛を返してくる。
「ありがとう。昔の約束を守ってくれて」
私は自然に礼が言えた。
「この後若君に会うそうだな」
康行はさびしげな表情で言った。
「ええ。異例な事だけれど、大将様は今朝、こちらに残られたの。体裁を取り繕うために空の牛車は返したけれど。このあと私と会って、夜には三日夜の宴にお出になられるわ」
「若君の妻になるのか?」
康行は直接的に聞いてきた。その方が康行らしい。
「いいえ。その話はお断りするわ」
私は言い切った。
「無理をする事は無いんだぞ。越後の国司の娘に何を言われたかは知らないが、お前が若君に認められたのは他でもない。お前の心根が若君や姫君に通じたからだ。お前は周りに流されるだけの女じゃない。自分の意思で都に入り、自分の言葉で姫君の心を動かし、女房になった。そして姫君のために命をかけて、若君の心さえも慮って、敵の手から逃れたんだ。お前は胸を張っていい。これはお前がつかんだ当然の権利だ」
康行はそういった。そう言ってくれた。私の行動を間違いではなかったと認めてくれた。その気持ちが嬉しい。
「そうかもしれないわね。でも、私は妻の座はいらないわ」
「どうせ、世間はお前を若君の情人として見るようになる。お前は若君と密接に関係したし、昨日は若君も隠し立てすることなく、お前をあつかった。人前で車に乗るように指示を出し、御自分の着物を着せかけた。あれですでにお前は若君の恋人としてみなされる。お前が何を言おうと世間の目は決まってしまったんだ。だったら妻として認められる方がずっといいはずだ」
それは分かっている。おそらく大将様もそれを承知で私をそうあつかったのだ。やはり女の扱いが巧みでいらっしゃる。まるで詰め碁の様に女人達のいきつく先を決め、追い込んでしまう。
しかしそこに悪意は無いのだろう。むしろ自分の誠意を女人に与える手段だと信じて疑わずにいるに違いないのだ。それが女人にとっては時として傲慢に見えたとしても。
「いいえ、違うの。私は根っからのじゃじゃ馬なの。世間の言うとおりになんて生きられないの。身分が低いといわれれば、女房になりたくなるし、田舎者と言われれば都で暮らしたくなる。大将様の妻になるのが栄誉だといわれれば、そうはなりたくなくなるの。私は誰の物にもならないわ。私は私。この都で、私は自分の力を試したいのよ。姫様のもとで、どこまで世間に逆らって生きられるのか力を出しつくしてみたいの」
「本気で若君の申し出を断る気か?」
「本気も本気。私には高い身分はない。でも、卑屈になって誰かの世話にすがろうとも思わない。私は都で一番自由な女になるの」
「そんなか弱い女人の身で、どんな自由が得られるっていうんだ」
康行はあきれ顔だ。
「心の自由よ。本当なら誰もが持っている自由よ。きっと桜子さんが一番手にしたかったものよ。彼女はあきらめてしまったけど、私はあきらめない。この心だけは手放さないわ」
「まさか、お前、尼になる気か?」
尼になれば男女の交わりは禁止される。勿論結婚もできないし、親子の情も、友情さえも否定されてしまう。生きながらにしてこの世の人々と縁を切ってしまう。それは確かに心が自由かもしれない。そして孤独だ。
「違うわ。私は俗世に生きたまま、この世を愛したまま、自由に生きるの。私だけの生き方よ」
私は桜子さんとは違うやり方で、この世の中に逆らって見せる。あらためて、そう、決心した。
私は大将様と会った。扇を使わないのは勿論、几帳を隔てる事さえしなかった。それは私には必要がない。正面から面と向かって大将様の目を見ていった。
「結婚のお申し込みは、この場でお断りさせて頂きます」
私に歌は似合わない。はしたなくてもいい。田舎くさくてもかまわない。私は自由だ。
「大将様のお気持ちはとてもうれしいけれど、私は妻にはなれません。たとえ姫様がいらっしゃらなかったとしても」
大将様は少し微笑まれながら
「そう、おっしゃるんじゃないかと思いましたよ」
と言って、私に文を差し出した。良く見ると私が大将様にお送りした文だった。
「これはあなたにお返ししましょう。ほととぎすは藤に鳴く時を聞いたりしてはいけなかった。しかし私はあなたをあきらめませんよ。あなたの心の池を波立たせるまで、気長に構える事にしましょう。それまでは私達には美しい友情が一番似つかわしい。しかし康行には負けません。薄衣一枚のあなたを抱きかかえるような真似は二度と彼にはさせませんから」
そう言ってにっこりなさる。
「私もあのお文をお返しします」
私は懐から文を出そうとしたが
「それには及びません。いつか私はあなたの花を開かせることが出来るかもしれない。それまで楽しみにとっておいてください」
大将様は強気な、少しいたずらっぽい笑顔をお見せになった。
「今宵の琴は、お二人のために心をこめて引かせて頂きます」
私はそう、はぐらかした。
寝所のひさしの方が騒がしくなってきた。男車がお着きになるというのである。どなただろう?
「ああ、お着きになったようですね」
そう言って大将様は立ち上がる。皆がひさしへと向かって行く。何故か中納言様や、北の方までもがお車を出迎えた。
良く見ると、それは大将様のお車だった。見慣れたお車の中から現れたのは、見知った上﨟達と姫様だった。今朝お返しになった車に姫様がお乗りになっていたということは……。
「そうですよ。姫君は大納言家にいらしたのです。変な所にかくまわれるよりは、よほど安全だろうと思ってね」
大将様は私に説明なさった。
ああ、お二人はすでに真の御夫婦でいられたのか。だから大将様は私の事を姫様に御相談出来たんだ。姫様も今までの一部始終を全て知ってらっしゃるんだわ。
大将様はお車に近づくと、姫様を両手で抱きあげて差し上げた。これは本来、帝の御皇女様が貴族の家に御降嫁される時に行うことである。大将様は姫様をそれほど特別にあつかって下さったのだ。中納言様などは「おお」と声を洩らされたし北の方にいたっては涙をこぼしていらっしゃった。
私は頭を下げながらも思ってしまう。まったく大将様は女人の扱いに長けていらっしゃるんだから。
一心地つくと姫様が、私をお呼びになった。
「あなたには本当につらい思いをさせましたね。桜子はあなたと同室だったのでしょう?」
やはり全てを存じているようだ。
「桜子さんは、私たち女人の水鏡だったのでしょう」私は答えた。
「あの人は、私達の不満や苦悩、戸惑いを映してみせる水のような人でした。そして私はそれを覗いてしまいました。でもそれはけして真実だけではありませんでした。彼女の心は波打っていて、その姿は歪んでいましたから」
「あなたにはそれが分かるのね。あなたは素晴らしい人だわ。私はあなたに何をして差し上げればいいのかしら?」
私はただ一つ、本当に欲しい物を答えた。
「私が欲しい物は、一つだけ。心の自由で御座います」
姫様には伝わるのであろうか?この思いが。