名なき王女と、冷たい断罪
ルベル王宮の東翼。歴代の王族や高位貴族たちが華やかな足音を響かせる白亜の本館から、風雨に晒された長大な渡り廊下を隔てた先に、その建物はあった。
旧離宮――かつて前々代の国王が側室の住まう場所として建てたものだ。しかし、今では宮廷の祝祭や栄華から完全に切り離され、修繕の予算すら削られ忘れ去られた一角である。
冬の終わりの湿った冷気が、石造りの廊下の隙間から容赦なく忍び込んでくる。
薄い羊毛のショールを肩にかき集めながら、フィリア・ルベルは静かに歩いていた。
彼女が纏っているのは、仕立て直しの跡が目立つ淡いオリーブ色の飾り気のないドレスだった。
レースや刺繍といった装飾は一切なく、数年前に宮廷の裁縫室から払い下げられた簡素な布地を、彼女自身の手で丈を直して着続けているものだ。
ふと、渡り廊下の壁面へと目を向けた。
本館へと続く長い回廊に、ルベル王家の正統なる血筋を描いた、豪奢な家族肖像画が飾られている。
中央の豪奢な肘掛け椅子には、威厳ある面持ちで笏杖を手にする現国王。
その隣には、孔雀の羽をあしらった豪奢な扇を手に、冷然と微笑む正妃。
そして二人の背後には、見事な金糸の髪を波打たせた美貌の第一王女、エレオノーラが大輪の薔薇のように描かれていた。
しかし、その壮麗な絵のどこを探しても、第三王女であるフィリアの姿はない。
彼女の母は、東方の小領地を治めていた没落貴族の娘であり、宮廷に強力な後ろ盾を持たぬまま病で早逝した側室であった。
母が世を去ったその日から、王宮におけるフィリアの存在は公の場から消し去られていった。
王族の肖像画に描かれることもなければ、年頭の祝祭行事に列席を許されることもない。
出生登録と王家の法的な血統記録には第三王女として名が残されている一方、儀礼用の家系図や宮廷年鑑では末尾に小さく記されるだけであった。
「……おはようございます」
本館へと続く扉の近くで、銀の食器を載せたワゴンを押す二人の侍女とすれ違いざま、フィリアは小さく会釈をした。
だが、侍女たちは立ち止まることも、会釈を返すこともなかった。
彼女たちはフィリアの存在を一瞥しただけで、まるでそこに冷たい石柱でも立っているかのように視線を素通りさせ、ひそひそと私語を交わしながら歩み去っていった。
「見ました? 今日もあの薄汚れた服で……」
「本館の方へ来ないでほしいわ。エレオノーラ殿下のお召し物に埃でもついたらどうするのかしら」
「平気よ。あの方には誰も侍女を付けないし、お呼び鈴を鳴らしたって、誰も返事なんてしないもの。放っておけばいいのよ」
遠ざかる冷笑混じりの囁き声に、フィリアの胸が小さく痛む。それでも、彼女はその足を止めることや、怒りの声を上げることもない。
幼い頃から、それが彼女にとっての日常だったからである。
専属の侍女すら与えられず、部屋の掃除も洗濯も、朝の湯を用意するのもすべて自分自身の手で行ってきた。
宮廷の礼法や社交教育の教師を求めれば「分不相応だ」と一蹴され、舞踏会の招待状は彼女の手に届く前に処分された。
彼女は王族でありながら、この王宮で最も発言権を持たない、無視されることに慣らされた日陰者であった。
そんなフィリアが毎日を過ごす場所は、旧離宮の最下層にある「第一資料保管室」であった。
王宮の図書室とは名ばかりの、誰も読まなくなった数百年から千年以上前の古い羊皮紙。
カビの生えた革表紙の外交綴り。
そしてひび割れた石板が無秩序に積み上げられた、いわば王宮の古紙置き場である。
埃に覆われたその薄暗い空間だけが、フィリアにとって誰の蔑みも届かない、唯一の安息の地だった。
「……本日の分は、ガルディニア帝国との初期境界誓約の断片」
重い樫の木の机に座り、フィリアは古びた石板の表面を柔らかな刷毛で慎重に掃った。
社交界にも出られず、家庭教師も付けられなかった少女時代。フィリアが外界を知るための唯一の窓が、この部屋に眠る膨大な古文書だった。
現代の王国魔導士や学者たちは、神聖文字や古代帝国文字で記されたこれらの文献を「意味を失った死に文字」「ただの落書きの山」と呼び、見向きもしなかった。
だが、何年も孤独の中でそれらの文字を拾い集め、文法と音韻の規則を独学で手繰り寄せてきたフィリアにとっては、それらは驚くほど雄弁に過去の真実を語りかけてくるものだった。
(神聖文字は、神や土地への誓約を形にしたもの。規則さえ理解していれば、決して難解なものではないのに……宮廷の学者は、実戦魔導のように派手な光を放たない学問には、最初から興味がないのね……)
誰かに教わったわけでもなく、暗い部屋で一人、退屈を紛らわせるために読んできただけのもの。
自分のような日陰者が読める程度のものなのだから、きっと世の中の専門家たちから見れば、何の役にも立たない奇癖に過ぎないのだろう。
その時、保管室の扉が荒々しい音を立てて外側から蹴破るように開かれた。
「おい! 第三王女フィリアはいるか!」
踏み込んできたのは、銀色に輝く豪奢な胸甲を纏った王宮近衛兵が二人と、大柄な侍従頭であった。彼らは埃の舞う室内を見回し、机に向かうフィリアの姿を捉えると、眉をひそめて露骨に嫌悪感を示した。
「相変わらず陰気な紙屑漁りか。……国王陛下より大議事堂への出頭命令だ。直ちに来い」
「父上からですか……? 私が大議事堂へ……?」
フィリアは驚き、手にしていた刷毛を止めた。
王国の最高意思決定機関である大議事堂など、公式行事から完全に締め出されているフィリアが足を踏み入れたことなど、生まれてただの一度もない場所だった。
「理由を聞く権利など貴様にはない。ぐずぐずするな。閣下方を待たせる気か」
侍従頭は吐き捨てるように言うと、フィリアが机の上を片付ける暇すら与えず、背中を乱暴に押した。
抵抗することの無意味さを知っているフィリアは、静かに頷き、インク壺の蓋だけを閉めると、言われるがままに立ち上がった。
案内された道順は、通常の貴族が通る豪奢な大階段ではなかった。
厨房の裏手を抜け、食材や薪を運び込むための狭い使用人用の通用階段を上らされた。
王族としての尊厳を微塵も認めないその仕打ちにも、フィリアは何も言わなかった。ただ黙々と、薄暗い階段を一歩ずつ上った。
やがて辿り着いたのは、金箔と白大理石で埋め尽くされた、目も眩むような大議事堂の側面扉であった。扉が開かれた瞬間、堂内を満たす無数の貴族や廷臣たちの冷淡な視線が、一斉にフィリアへと突き刺さる。
円形の巨大な議場の最上段、豪奢な天蓋の下の玉座には国王が尊大に腰掛けている。その隣には冷笑を湛えた正妃。
そして議場の中央、一段高くなった壇上には、ひときわ眩い光彩を放つ二人の男女が並び立っていた。
第一王女エレオノーラ。
金糸の髪を芸術的な夜会巻きに結い上げ、真珠とエメラルドを散りばめた豪奢な深緑のドレスを纏った彼女は、現れたフィリアを見下ろすと、小鼻をわずかに膨らませて嘲笑を漏らした。
そしてその隣に立つのは、フィリアの婚約者であるユリシーズ・アルスター公爵令息であった。
筆頭公爵家の嫡男にして、若干二十一歳で外務卿代理の地位に就く宮廷随一のエリート。
怜悧な美貌を仕立てのよい礼服で包んだ彼は、入ってきたフィリアのみすぼらしいワンピースを一瞥するなり、まるで汚濁の泥水でも目にしたかのように、あからさまに唇を歪めた。
「……第三王女フィリア、参内いたしました」
フィリアが冷たい石床の上に跪き、深く頭を垂れる。
その瞬間、静まり返った議場にユリシーズの冷たく通る声が響き渡った。
「フィリア・ルベル。貴様をこの神聖なる議場に呼び出した理由、言わずとも理解しているな」
「……いいえ、ユリシーズ様。私は何も知らされておりません」
フィリアが視線を上げずに答えると、ユリシーズは鼻を鳴らし、手にした羊皮紙の巻物を議長卓へと叩きつけるように置いた。
「白々しい真似をするな! 貴様のその鬱屈とした態度、王族としての教養の欠如、そして社交界に一度たりとも顔を出せぬ無能さ――それらすべてが、我がアルスター公爵家に対する耐え難い侮辱なのだ!」
ユリシーズの語気には、長年溜め込んできた苛立ちが容赦なく込められていた。
「我が公爵家が求めていたのは、王国の外交を華やかに支え、社交界の頂点に君臨し得る真の貴婦人だ! だというのに、貴様は公式の肖像画にすら載せられぬ王家の恥さらし! 宮廷教育すら受けておらぬ者を妻として迎え入れるなど、公爵家の名誉が地に堕ちる! 本日、この厳粛なる議場の面々の前で宣言する。貴様との婚約は今この瞬間をもって完全に破棄させてもらう!」
冷酷な宣告が、広大なドーム状の天井に反響した。
周囲を取り囲む廷臣たちから、低い嘲笑と賛同のざわめきが波のように広がる。
誰もフィリアを擁護しようとはしない。彼女の後ろ盾のなさと、王宮内での徹底した無価値扱いを、この場の全員が知悉していたからである。
「そして――」
ユリシーズは誇らしげに向き直り、隣に立つエレオノーラの手を恭しく取った。
「我がアルスター公爵家の正妻として相応しいのは、王国の美と知性を一身に体現される、第一王女エレオノーラ殿下のみ! 我らは正式に婚約を取り交わすことで合意した!」
エレオノーラは優雅に扇を広げ、跪くフィリアを見下ろしながら、憐れむような声音で言った。
「フィリア、貴女を責めるつもりはありませんのよ? 身分の低い側室から生まれ、社交の場にも出られない貴女に、外務卿代理たるユリシーズの妻が務まるはずがありませんもの。身の程を知るということは、とても大切なことですわ」
エレオノーラの言葉に玉座の国王が鷹揚に頷いた。
「ユリシーズ卿の申す通りだ。儀礼の場にすらほとんど名を出されぬ者を、筆頭公爵家の嫡男に嫁がせるなど、最初から無理があったのだ。エレオノーラとの婚姻こそが、ルベル王国の未来を盤石にする正しき道である」
フィリアは床の冷たさを指先に感じながら、ただ静かにその光景を見つめていた。
涙は出なかった。胸を引き裂くような激痛もなかった。
幼い頃から、父の温もりを知らず、姉からは存在しない者として扱われ、婚約者であるユリシーズからも面会を幾度となく拒絶され続けてきた。
彼らにとって、自分という人間は最初から「勘定に入っていない余剰」に過ぎなかったのだと、改めて冷徹な事実として突きつけられただけだった。
「婚約破棄の儀、謹んで承知いたしました」
フィリアが震えのない声でそう応えると、ユリシーズはわずかに眉を寄せた。
取り乱して泣き叫ぶか、あるいは足元に縋り付いて見苦しく命乞いでもすると思っていたのだろう。
その平然とした態度が、彼の傲慢な自尊心をかえって逆撫でしたようだった。
「ふん。どこまでも血の通わぬ陰気な女だ。だがフィリア、話はこれで終わりではないぞ」
「……と、仰いますと?」
「貴様にはこれまで王宮で無為に飯を食んできたことに対する、最後の務めを果たしてもらう」
ユリシーズの合図を受け、玉座の正妃が氷のように冷たい視線をフィリアへと向けた。
「我がルベル王国は現在、東方の隣国――ガルディニア帝国との不可侵条約の十年ごとの更新期を迎えております。……かの国が提示してきた更新の絶対条件を、貴女も知らぬはずはありますまい」
ガルディニア帝国。
大陸全土にその武威を轟かせる強大な軍事覇権国家。
そしてその頂点に立つのは、わずか二十代前半の若さで即位し、国内の腐敗貴族や反逆者を容赦なく粛清して「冷酷皇帝」「氷血の覇王」と周辺諸国を震撼させている若き皇帝。
レオンハルト・フォン・ガルディニアであった。
「帝国は、条約遵守の担保として、王族の直系を人質として差し出すことを求めてきた」
国王が重々しく、しかし一片の躊躇いもなく告げた。
「我が国の至宝であり、未来の光であるエレオノーラを、あのような残虐非道な皇帝のもとへ送るわけには断じていかぬ。よって――フィリア。お前がルベル王女として、帝国へ赴け」
人質。
それは紛れもない「生贄」であり、「体裁のいい追放」であった。
冷酷と恐れられる隣国の皇帝の元へ送られれば、二度と生きて故国の土を踏むことはできないだろう。
些細な外交上の摩擦ひとつで即座に処刑されるか、暗い牢獄に一生幽閉されるのが目に見えている。
彼らが十八年前からこの日のために何かを企んでいたわけではない。
ただ長年自分たちで冷遇し、公の場から遠ざけてきた末に、「今なら捨てても誰も困らない王女」と身勝手に判断したのだ。
「感謝なさい、フィリア」
エレオノーラが嘲笑を隠そうともせず扇の陰から囁いた。
「公式の記録にも残らない貴女が、初めてルベル王家のお役に立てるのよ。帝国でどのような扱いを受けようと、それは王家の血を引く者の尊い犠牲というものですわ」
「……はい。父上、エレオノーラ姉上」
フィリアは、深く、深く頭を下げた。
「国王陛下の仰せの通りにいたします。喜んで、ガルディニア帝国へ参ります」
その声音のあまりの静けさに、ユリシーズは吐き捨てるように言った。
「絶望のあまり正気すら失ったか。まったく、どこまでも底の浅い女だ。……出発は明朝だ。帝国の引き渡し部隊が待つ国境要塞まで、護送兵をつけて送り届けてやる。二度とこの国の地を踏むなよ」
「謹んで、お受けいたします」
大理石の床に額をつけるフィリアの胸の内に広がっていたのは、彼らが想像したような絶望でも底知れぬ恐怖でもなかった。
澄み切った冬空のような、深い解放感。
(ああ……これで、ようやく出られる……)
誰からも名前を呼ばれず、すれ違う者に存在を無視された日々。家族の食卓にも座れず、暗い保管室の隅で息を潜めていた十八年間。
冷酷と噂される皇帝の手で命を落とすことになったとしても、自分を人間として扱わなかったこの冷たい檻から抜け出せるのなら、それはいっそ救いですらあるように思えた。
議場を退出するフィリアの背中に、温かな眼差しを向ける者は誰一人としていなかった。
背後からは、エレオノーラとユリシーズの新たな婚約を言祝ぐ廷臣たちの華やかな拍手と、国王の安堵に満ちた笑い声が、冷たい風のように響き渡っていた。
◇
旧離宮の保管室に戻ったフィリアは、淡々と旅立ちの支度を整えた。持っていくべき私物はあまりにも少なかった。
自分自身の手で繕った二着の簡素な着替えと薄い防寒用のクローク。そして、病で亡くなった母の唯一の形見である、細工の剥げかけた銀の小鳥のペンダント。
最後に、長年使い続けて軸が短くなった一本の黒漆の羽ペンと、革表紙の薄い手帳を鞄の底に滑り込ませた。
十八年間の彼女の人生の重みは、小さな革鞄ひとつにすべて収まってしまった。
夜が明けきらぬ未明。
霧が立ち込める王宮の裏門に停められていたのは、王族の旅立ちにふさわしい意匠など何一つない、ルベル王家の紋章すら削り取られた古びた黒塗りの護送用箱馬車であった。
見送りに立つ家族も、別れを惜しむ使用人も、そこには誰一人としていなかった。
「乗れ。定刻だ」
御者台の護送兵が無愛想に顎をしゃくる。
フィリアは足を止め、朝霧に煙る白亜の王宮を、最後にもう一度だけ振り返った。
美しく、冷酷で、自分を存在しないものとして扱い続けた場所。
彼女は誰に向けるでもなく静かに一礼すると、一度も後ろを振り返ることなく、粗末な馬車の中へと乗り込んだ。
重い車輪が軋んだ音を立てて転がり始め、馬車は王都の裏門を抜けていく。
向かう先は、大陸の覇者ガルディニア帝国との境界――国境要塞であった。




