地面の中の着信音
あなたにはひょっとしたら、弟はいないのかもしれませんね。
ですが今は置いておきましょう。重要なのは今の「あなた」が中学生であるということです。「あなた」には弟がいます。歳の離れた弟です。
その日は夏の茹だるような日でした。時刻は夕方6時頃。何度目かのそうめんの日でもありましたね。夏休みに入ったものの部活動に追われていた「あなた」は家のリビング、ソファの上でうつらうつらとしていたはずです。少しずつ思い出してきましたか? そうですね。「あなた」の母親が困ったようにリビングとキッチンを行ったり来たりしていたので「あなた」の眠気は段々と離れていったようです。疲れているのになと思いつつ「あなた」は母親に話しかけたことでしょう。
母親は「あなた」の弟が帰ってきていないことをしきりに気にしていました。「あなた」の弟は小学生です。近所の公園に友達と遊びに行って、いまだ帰ってきていないようなのです。
「あなた」は嫌な予感がしました。わかりますとも。母親が次に何を言うのか。そうですよね。案の定、彼女は「あなた」に弟を探して連れ帰るように言いました。
嫌ですよね。だって「あなた」は疲れている。そしていくら6時でも夏の日本はまだ明るくてとても暑い。再び外へ出るなんて正気ではないと「あなた」は拒否の構えをしたことでしょう。しかし母親も上手です。「あなた」をソファから追い立てて、玄関から追い出してしまいました。
そうして「あなた」は嫌々ながらも、弟を探しに公園へ向かったのです。
「あなた」にとって弟は決してかわいいばかりの存在ではありませんでした。生意気盛りの小学生というのは得てしてそういう存在です。それに「あなた」の弟はとても頑固です。覚えていらっしゃいますか? 昔、弟とかくれんぼをした時のことを。「あなた」が見つけるまでまったく出てきませんでしたよね。我慢強いと言えばいいのか、意固地といえばいいのか……。名前を読んで呼びかけても無反応でしたので、怒って先に帰ってしまいましたよね。そして「あなた」だけが母親に怒られたんでした。苦い思い出ですね。
「あなた」は今どきの中学生ですからスマホを持っています。弟もキッズケータイを持たされているので連絡先はわかるでしょう。ですが鳴らしても繋がる気配がありません。あの日のことを思い出すようで「あなた」は大変気が重いのですね。
とはいえ歳の離れた弟です。心配する心がまったくないわけでもありません。それが「あなた」の優しいところです。
公園は「あなた」も幼い時はよく通っていた場所です。滑り台、ブランコ、ジャングルジムにてつぼう。しかし時の流れか、ブランコは数年前に撤去されてしまいました。あとは普通の公園です。名前はカリンカ公園といいます。住宅地にある公園にしてはオシャレな名前ですね。
「あなた」は到着早々に弟の名を呼ぶでしょう。「あなた」にとってはもう小さい公園です。一周ぐるりと見回せば収まってしまう程度の広さ。かつての「あなた」そして今の弟にとっては広い公園ですが、それほど人が隠れられる場所があるとも思えません。しかし弟は一見して見当たりません。
「あなた」は溜息をついてからもう一度弟のキッズケータイへ電話をかけるでしょう。
すると、着信音が「あなた」の耳に入ります。
軽快な着信音です。「あなた」はそれが弟のキッズケータイの着信音だと気が付くでしょう。
しかし同時にあることにも気が付きます。
「あなた」は自分の直感が信じられず、発信元を探そうと歩くでしょう。かつてブランコが設置されていた場所。記憶の中でゆらゆらとブランコが揺れている。
その地面の下から音が鳴り響いてくるのです。
「あなた」は有り得ないと思いつつ、こんな想像までしてしまいます。
ゆらゆらと揺れるブランコの下。ミンミンうるさい蝉の声、背を伝う汗の鬱陶しさ。地面の下でうずくまったまま動かない弟。
「どうしたの?」
「あなた」は声を掛けられて振り返ります。そこには「弟」がいました。「あなた」はほっとするかもしれません。しなかったかもしれません。だって「あなた」はとっても目敏い。どちらにしろすぐに気付いたでしょうからね。
「弟」が持つケータイが一切鳴っていないことに。
弟。ずっとコール音を鳴らしたままの「あなた」のスマートフォン。地面の下から聞こえる着信音。鳴らしているはずなのに反応しない目の前の「弟」のキッズケータイ。
そのすべてに「あなた」は不安を覚えているはずです。
「早く帰ろうよ」
「弟」の黒々しい目が「あなた」を見つめます。「あなた」はそれに返事が出来るような人間性でしょうか。それとも口籠ってしまうのでしょうか。でももう関係ありませんね。
「あなた」の指はもうスマートフォンの呼び出しを切ってしまうのですから。
本当に切ってしまったのですか?
いいえ、わかりますよ。「あなた」は自分の直感よりも事実を信じたかったのですよね。目の前の「弟」を弟と認めなければ、頭がおかしくなったと言われかねませんものね。
「あなた」は目の前の「弟」に違和感を覚えながら。意固地な弟が自力で地面から出てこれないとわかりながら。
我が身の可愛さを優先したのですね。
いいえ、そうするべきです。なにより「あなた」が納得したのですから。
そうですよね?
遠雷が聞こえます。夏の気候は移ろいやすい。まるで「あなた」の記憶のよう。ゆらゆら規則正しく揺れる「あなた」の頭の中のブランコ。「あなた」はカリンカ公園の地面を踏みにじる。低くツバメが飛ぶ。目で追った先には入道雲。地面越しにジッと「あなた」を見つめる冷たい弟の瞳。
「あなた」は「弟」と帰っていきました。
そういえばセミは幼虫の時、十年の時を地面の中で過ごすそうですよ。「あなた」の弟も同じかもしれませんね。
おや?
あなたには弟はいないんでしたっけ?
でもいたことをこれで思い出せたでしょう。
中学時代のあの夏から十年経ちましたか?
聞こえているのでしょう?
聞こえてますよね?
はっきり耳元で音がしているはず。
今度は地面の下ではないみたいですね。良かったですね。
振り返らないのですか?
普段のあなたなら気にしていますよね?
よく耳にしたはずです。ケータイの着信音ですからね。
いますよ。




