立冬の鬼
立冬の朝でした。
葉の色を変えた木々の合間に漂う冷たい空気に、昇ったばかりの陽の光がきらきら反射していました。
黄色い落ち葉を乗せた岩の上、その人は立ち尽くし、空を見ていた。
ただただ神秘的でどうしようもなく胸が震えるようなその光景に、私はしばらく呼吸も忘れて見入っていました。
お互いにどれほどそうしていたのか、はっと我に返った私は躊躇いながら近づきました。その岩の足元には湧き水があって、お供えのために毎朝汲むのが私の役目だったからです。驚かせてその人を岩の上で転ばせたりしないように、ゆっくり歩を進めました。手前で足元の枝がパチリと鳴って、向こうも気づいて私を見ました。私はぺこりと頭を下げました。村の男ではありません。服装も、早朝こんな山奥にいるにしては薄手の着流し姿。旅途中の浪人かと思いましたが、それにしては手ぶらだし、不思議な姿でした。
「あのう、どうされましたか」
「マイゴ」
「マイゴさん」
名前を尋ねたつもりはなかったのですが、私は声に出して確認しました。マイゴさんは眉を下げ、困惑した様子でしたが、それだけでした。
マイゴさんを伴って村へ戻りました。みんながぼちぼちと朝の準備で家の外に出始めていて、私が山から見慣れぬ若い男を連れてきたことに目を丸くしましたが、村の年寄である田吾郎爺さんのところへマイゴさんを連れて行くと、すぐに庄屋さんの家に数人集まって寄合が始まりました。私は普段通りに家のことをしながら、やや緊張して寄合の終わりを待ちました。母や、他の家の子にもマイゴさんのことを聞かれましたが、湧き水のところにいた、以外の説明は私にもできません。昼前、そろそろ休もうかとしていたとき、庄屋さんの家からぞろぞろと男たちが出てくるのが見えました。マイゴさんは、田吾郎爺さんや村の男に挟まれて、薄い着流しのまま歩いていました。間に混じると、そのひょろっとした体躯や弱々しく俯いた顔つきがより際立って、背丈は高いのにまるで子供のようでした。
一行はまっすぐ、うちのほうへ歩いてきました。母が慌てて出迎え、田吾郎爺さんは黒い大きな顔を真面目にしていましたが、どういう意図なのかはわかりません。
「とにかく、これから冬だから。しばらく村に置くことにした」
寄合をしていた数人とマイゴさんはうちの土間に入り、田吾郎爺さんは長式台に腰かけて、気軽な声ではありましたが表情はなんとなく厳しいものでした。
「自分がどこから来たかわからんらしい。話もはっきりせん。もしかしたら……」
誰も明言はしませんでしたが、私たちにも察することはできました。普通に暮らせない性質の家族はいい扱いをされないと、どこかから聞いたことがあります。そういう境遇にあったのなら、着流し一枚でうろうろしていたのも合点が行くように思います。
「届け出るのは暖かくなってからでいいだろう。こんなひょろっこがひとりくらい、増えたところで食い物が尽きるわけでもないし」
寄合の結論に、私は胸を撫でおろしました。みんながマイゴさんをこのまま他所へ追い出してしまうのではないかと、無性に不安だったから。母は、マイゴさんを拾った張本人である私の心境を察したのか、小さく笑って背中を撫でてくれました。
「それでな」
田吾郎爺さんは私に笑顔を向けました。これからいじわるをするぞ、と教えてくる、年甲斐もなくいたずら好きの愛嬌のある顔ですが、ときどき本当にとんでもないことを言われるので私は思わず身構えました。
「夜はうちで引き取る。朝になったらこっちに連れてくる。飯を食わせて、仕事を教えて、春まできちんと働かせるんだぞ。タダ飯はならん」
その発言には、両親もびっくりして顔を見合わせました。確かに、見知らぬ男性が住み着くのは母も嫌でしょう。田吾郎爺さんの家は野良仕事で鍛えられた男ばかりなので、みんなが無防備になる夜に自ら預かろうという発想は、助け合って暮らしてきた村だからこその情であると思います。その機転はありがたいのですが、日中はうちで、というより田吾郎爺さんの顔を見るにおそらく私自身が、責任を持って世話を焼く。つまりこれが村にマイゴさんを保護する条件となったのです。しかし野良仕事の時期は過ぎたとはいえ、このか細くて不慣れそうな人になにを教えて任せればいいのか見当もつきません。
マイゴさんも私を見ていました。おそらく私たちは同じような顔で、茫然とお互いを眺めていました。
この話に食いついたのは父でした。うちは女所帯で、母も私も力仕事は積極的にしてはいましたが、やはりそこそこ大変な思いをしていたようです。午後、着流し一枚だったマイゴさんの装いを動きやすく整えてやり、薪割りをさせると意気込んで外へ連れ出しました。
ところがすぐに、げんなりした顔で戻ってきました。
「やっぱり駄目かい?」
母が、予想通りだという言い草で苦笑を見せると、父は首を振ろうとして、曖昧に、困り果てた顔で額を押さえました。どう言おうか悩むような、自分でもよくわかっていないという顔で土間の土を見つめています。母と私は目を見交わすと、急ぎ足で家の裏へ回りました。
マイゴさんは斧をおろして、じっとしていました。彼の足元には薪はありません。ずっと使っていた薪割り台もありませんでした。代わりに、おがくずのように粉々になった木片が散らばっていました。私たちに気づくと、マイゴさんは申し訳なさそうにそれらの木片を一瞥しました。
それがおそらく薪割り台の残骸でした。
状況を察するまでややあって、母が笑い出しました。
「あらあら、まあ、見事に。怪我はしてない?」
静かに頷く。マイゴさんの反応はそれだけでした。母はマイゴさんの手から斧をそっと取って安全な場所に置くと、背中を優しくさすりながら家の中へ連れ戻りました。父がまだ茫然としていて、戻ってきたマイゴさんを見つめました。
「あんた、あれもう古かったのよ」
マイゴさんへの優しい態度とは違って、音がするほど荒々しく父の背中を叩く母。そのおかげで父も頭が切り替わったようで、そうか、そうだなと自分に言い聞かせるように繰り返し、なんとか笑顔を浮かべました。
「ちょうどいいじゃない。見た目より力持ちみたいだし、手伝ってもらって新しいのこさえましょう。ね」
「そうしよう。一撃であんなに粉々にできるなら、丸太なんかすぐ切り出せる」
どことなくしょげていたマイゴさんは、父と母がすっかり賑やかに新しい薪割り台の計画を話し始めると、その様子を不思議そうな目で眺めていました。
菜っ葉の塩漬けを仕込んだり、大根に藁縄をかけて吊るす準備をしたり。家の中でもこの時期はすることがたくさんあります。マイゴさんは器用そうに見えましたが、細かいことは全くだめでした。塩漬けの樽を抱えて運んだりするのは造作もないのですが、それ一辺倒で、菜っ葉を持たせるとぼろぼろ。藁縄のかけかたを教えても、縄が崩れるほど握りしめて考え込んでしまう。でも軒下に大根を吊るすのには、高い背丈が重宝しました。着流しの裾を端折って寸足らずの股引を履いた姿に、通りかかった村の人も立ち止まって声を掛けました。母はマイゴさんがしでかしたことを全部自慢のように話してしまったので、その日のうちに、マイゴさんがとんでもない怪力の不器用男という評判が村へ広まっていきました。
それからマイゴさんは引っ張りだこでした。柄が抜けなくなった古い農具の分解、梁の上に乗ってしまった子供のおもちゃの回収。庄屋さんの家の裏戸が噛んで動かなくなっていたのも、これは戸の枠を少し……ほんの少しだけ破壊したけれど、結局は外して直すことができたのでマイゴさんのお手柄でした。家仕事は相変わらず下手くそでしたが、他の家からわらわらご婦人たちが来て、右から左から、後ろから向かいから、わあわあと教え込んで、そのうち藁をちょうどよく編むまでになりました。自分で試作した不格好な草鞋を履いて、少し嬉しそうにしたのは、みんな気づいたけど目配せして黙っておきました。
身元なんてどうでもいいくらい、みんながマイゴさんを村の一員として認めていました。田吾郎爺さんも、父と母を交えて届け出をどうするか、マイゴさんの気持ち次第だと言い始めていました。新しい季節を、新しい仲間と迎える。みんながそう思っていました。
節分の日、いつも通り湧き水を汲みに行くと、マイゴさんがいました。初めてその姿を見た岩の上、あの日のように空を見ていましたが、その表情は厳しく、近寄りがたいものでした。視線の先には、赤い上等な着物、同じように赤くたっぷりの長い髪の毛。白い顔は笑っている、けれどゾッとする目つき。人の姿をしている、人ではないなにかがマイゴさんと対峙していました。
「探したよ」
親しげな声が森の空気を伝いました。赤い髪がゆらりと揺れて、紅を差した唇がくっと笑った。
「人間の世界に迷い込んだりして。どんくさいなあ。歪みは次の時期まで開かないんだから、気を付けないとだめじゃないか」
子供を諭すような甘い声でしたが、威圧しているのはわかりました。
「この村に入るな」
鋭く響いた。マイゴさんの声でした。この人がそんな大きな声をできるなんて知りませんでした。山の空気を震わせ水面に波紋が這うような、でも力強く芯のある言葉でした。次の瞬間、ふたりの姿は霧になり、木立の中をふわりと漂いました。私は木陰に隠れて、霧を見つめていました。争っている。見えないのに、聞こえないのに、息遣いや緊迫がひしひしと伝わって、私は手のひらを握りしめ、じっとりと汗をかいていました。
どのくらい経ったでしょう。どさ、と落ちる音。赤い髪が地面に広がり、赤い着物をどす黒く濡らして、相手は震えていました。マイゴさんは立っていた。けど、同じようにたくさん、血で濡れていました。
人のようで人でない何かは、赤い髪を振り乱して立ち上がると、破れた着物の袖をそこに投げ捨てて笑った。
「掟を忘れるな」
マイゴさんの目が揺れたのを見て、相手は満足そうに消え去りました。
「マイゴさん」
自分の声が震えていて私はびっくりしました。振り向いたマイゴさんは、落ち着いた表情でしたが、こちらへ近づく足取りは少しふらついて、しかし迷いはありませんでした。
「行かなきゃ」
どこに。聞こうと思ったけど、聞いてもしょうがないという気持ちがそれを打ち消しました。さっきの場面を見れば、私たちの世界とは全く違う場所へ行くであろうことは明白でした。
「伝えたいことがある」
血を着物で拭い、マイゴさんは私の震える肩に手を置きました。大きくて、熱いくらいの手のひらでした。
「これから毎年、立春前の節分には、鰯の頭を棒にさして玄関に飾ってほしい」
「いわし」
なぜいま鰯の話になったのか、私は場違いに阿呆みたいな顔でマイゴさんを見上げたと思います。マイゴさんは笑ったりせず、真面目な顔で頷きました。
「鬼はあれが嫌いだ。今年はもう大丈夫、けど、次から。柊と一緒に」
「柊と一緒に」
「そう。そうすればこの村は守られる。僕はもう、守ってあげられないから」
最後の一言が、意味はわからないのに、ずしりと胸にのしかかりました。気づけばぽろぽろ涙が落ちて、ただただマイゴさんを見ていました。
「行くね」
マイゴさんは微笑んだ。そして泣いている私をそのままに、あっさりと手を離して向こうへ歩いていきました。
もう会うことはないでしょう。
そのひとは、ひとつの季節、うっかり帰れなくなっただけの、ただのどんくさい迷子だったのです。
私は泣きながら村へ戻りました。私とマイゴさんがいないことで、起きてきたみんなが不安そうに、今にも捜索に出るところでした。私を見つけると母が走ってきて、少しだけ着物に残った血を見て悲鳴をあげかけましたが、私がマイゴさんから教えられたことをすべて話すと、困惑のあと、微笑んで抱きしめてくれた。お互い、過ぎた季節がくれたものへの惜別でいっぱいでした。
翌年の節分には、庄屋さんが手配して塩干の鰯を配り、頭と柊を玄関に飾りました。村中がやや生臭くなりましたが、誰も不満は言いませんでした。
私は今日も、湧き水を汲みに行きます。
あの大きな岩の上には、苔と落ち葉が静かに積もっています。




