1分30秒切れ負け
将棋ショートショート
1分45秒……40秒……35秒……。対局時計の一方の残り時間が減っていく。残り1分30秒となったところでボタンを押す。もう片方が動きだし、残り2分から時間を減らし始める。
こちらも1分30秒となり中断ボタンで止める。
「よし。それじゃあ始めるぞ、伊藤」
「ああ、赤木」
準備が整い対局が開始される。両者ともに鋭い眼光を飛ばしている。
1分30秒切れ負けの将棋。伊藤の先手で始まり、お互いが角道を開ける。
赤木が角道を止めて飛車を四間に振る。今時珍しいノーマル振飛車に対して、伊藤が船囲いから左銀を5七に上げる。こちらも珍しい居飛車急戦だ。
考えている暇はない。両者、序盤を猛スピードで飛ばす。駒を持ち上げずに盤上を滑らせて迅速に時計のボタンを押して極力時間を減らさないように進めていく。
赤木が少し迷ってから5筋の歩を突いた。すかさず伊藤が4筋の歩を伸ばしていく。4五歩早仕掛けとなった。
二人とも物凄い形相だ。ピリピリとした気迫が漲り、近くに寄れば感電するのではないかと思わせる。
伊藤が4筋をこじ開けて角交換する。3三角不成。
駒を裏返す時間も勿体無い。赤木も「マナー違反」などと文句は言わない。お互いにひたすら盤面を凝視している。局面が激しく動いていく。
飛角総交換となって互いに敵陣に飛を打ち合う。徐々に両者の手が止まるようになる。
(これは、どっちが良いのか……? この仕掛けで居飛車悪くはないはずだけど。一手致命的なミスをすればたちまち持っていかれる……)
伊藤が局面を睨む。頭の中の記憶を少したどり、自分の選んだ手順がすでに最善から外れていることを悟る。敵玉と自玉との距離を計りながらやや曲線的な手を選択する。
(やや苦しめながら、難しい。敵玉の弱点は……)
赤木も睨む。自陣に駒を打ち付けて粘る。伊藤の馬引きに対して角を当てて打つ。
(くっ……馬を消されたか)
(よし。ポイントだ)
局面は混沌としてきた。居飛車やや良しから、振飛車が盛り返し、玉形の差から逆転の気配が漂う。嫌な空気を振り払うように、伊藤が強気な手を放つ。赤木も負けずに返す。
どちらが勝っているのか、両者とも分からない。全神経を集中させて必死に読み、相手の手に反応し、あらゆる判断力を総動員させて次に指す手を選択していく。駒の間合いが、読みの射程距離の切っ先が盤上を交錯した。
互いに小ミスがあって形勢が揺れ動くがどちらも致命傷は負ってはいない。壮絶な盤上の殴り合いは相手の仮想の体力を奪い、自分の体力を減少させ、ダメージに心をグラつかせながらも体勢を立て直して両者ともにファイティングポーズをとり続ける。
ともに残り時間は30秒を切った。
(くそっ。負けられない。負けるわけにはいかない)
伊藤が凄まじいほどの殺気を放つ。微塵ほどの緩みもない鬼の顔だ。
(勝つ……絶対に勝つ!)
泣きそうなくらいの表情で、赤木が食い入るように盤を見詰める。全身全霊、全てを賭けて目の前の将棋に向かっている。
相手の手を予想しながら、最善・最強の手を覚悟しながらも、ミスへの対応も意識する。形勢を判断してまた残り時間を判断材料として、自分の指し手の選択として最善を求めるか相手の予想を外すかを考える。
必死に手を読みながらも、純粋な将棋以外の思考も脳裏に浮かぶ。勝つパターン、負けるパターン。彼我の強さ弱さに得手不得手、性格に癖。勝負哲学に運命論、様々な思いが駆け巡る……。
そして局面が煮詰まった。決め手が存在するように見える。伊藤は本能的にそう感じたが、読み切るのは至難の業だ。
(時間を使うのは悪手だ……)
確信は持てないながらも直感を信じて伊藤が自分の飛を叩き切って敵玉に迫る。ついに残り時間は10秒を切った……
(これは……敵玉にも受けはないが……)
赤木も残り10秒を切る。もらった飛を利用して、伊藤玉を詰ましにいく。詰めば赤木の勝ちだ。
詰むのかそれとも逃げ切れるのか?
赤木が玉を追う、伊藤が逃げる。
(くそっ。くそっ、くそっ。詰まないのか……)
(詰まないが、手が回って詰まし切れるのか……)
スレスレのところでわずかに詰まず、伊藤に手番が回る。攻守入れ替えて、猛然と伊藤が襲いかかる。赤木が耐える。
(ぐっ……!)
(うううぅぅぅ……)
ともに残り1秒。赤木玉はあと一手で詰む。何をしても詰むが赤木は金を横に寄る。タダだった。
伊藤がそのタダの金を取らずに金の上にある桂を馬で取った。金が寄る前だったらそれで詰みだったが、金を寄ったために馬を金で取り返された。
(……!)
指した直後、いや指しながら伊藤は己の間違いに気付いていたが手は止まらなかった。そしてその直後に無情にも残り0秒となって時間が切れた。
両者とも顔面蒼白となっていた。硬直したように、しばらく口を開けなかった。
「……無念」
伊藤が下を向きながら力なく呟いた。
「……俺の勝ちだな。では約束通り、これは頂く」
赤木が将棋盤の横に置いておいた、対局開始前にお湯を注いだカップラーメンに手を伸ばした。




