5 魔力酔い
香術局に連れてこられてから、何度の朝を迎えただろう。
ミアは、禁呪の残滓をまとっていたという理由で、寮ではなく局内の空き部屋で経過観察を受けていた。
その痕跡は日を追うごとに薄れ、今朝、魔術監査局の最終判断で「完全に消失」と認められた。
――危険性なし。
そう通達された瞬間、胸の奥に貼りついていた不安がひとつ剥がれ落ちた。
足の力が抜けて、その場に座り込みそうになり、慌てて机に手をついて身体を支えた。
覚えていないとはいえ、自分が何かしてしまったのでは? 他人に害を及ぼしてしまうのでは? という不安――この数日、その思考から逃れられなかったのだ。
(よかった……)
「よかったですね、ミアさん!」
隣にいたリズーが、自分のことのようにぱっと笑って、両手をギュッと握ってくれた。
その笑顔につられ、ミアもふわりと頬を緩めた。握りしめてくれた手が温かくて、涙が出そうになった。
「ミアさんには監査局の結果が出るまで、ここの空き部屋を使ってもらってたからね。これで寮に移動できるよ」
「寮……?」
セイロの言葉にミアは首を傾げた。
「ああ。王宮で働く者のための専用の住まいだよ。確認したら、ちょうどリズーの隣室が空いてるそうだ。どうだろう?」
王宮内の多くの職員が利用しているらしい。
「やったぁ! ミアさんと隣なんて、嬉しいです!」
寮の想像がまだつかないミアより先に、リズーが歓声を上げ、ミアの手を握る。
(寮の生活って、いまいち想像できないけど……リズーさんが隣ならきっと大丈夫な気がする)
「よろしくね、リズーさん」
「はい!」
その明るい笑顔を見るだけで、ミアまで元気をもらえるようだった。
*****
寮の部屋には、最低限の家具しか備えつけられていない。
ベッドと机、小さな棚――生活を整えるためのものは自分で揃える必要がある。
「……思ったより、殺風景ですね」
「最初はみんなそう言うんです。でも三日で慣れます!」
「三日……?」
「四日目には『まあ、いっか』って思います!」
リズーのあっけらかんとした物言いに、ミアは思わず小さく噴き出した。
「あっ、そうだ! ミアさん、明日お休みですよね? 一緒に買い物に行きましょうよ。かわいい雑貨のお店、いっぱい知ってますから!」
「本当? どこに何があるのか全く分からないから、助かるわ」
記憶のないミアにとって、外は未知の世界だ。
リズーに案内してもらえたら、とても心強い。
こうして翌朝、二人は町へ出かけた。
休日のせいか、道は人であふれ、店先には色とりどりの布や香草、魔力灯の明かりが並ぶ。歩くたび、さまざまな“香り”が風に乗って押し寄せてきた。
「ミアさん、これ絶対似合います!」
「……派手じゃない?」
「似合う人は派手にならないんです!」
年の近い少女同士、あれこれ手に取りながら笑い合う時間は、ミアにとって不思議なくらい楽しかった。
――こんなふうに誰かと買い物をしたことがあったのかな? ミアは、思い出せない記憶に思いを馳せた。
だが、人の多さは想像以上だった。
広場へ近づくほど、魔力の香気が濃密に絡まり、複雑に渦を巻く。
「……あれ……?」
視界がぐにゃりと歪んだ。
甘い香り、ざらつく香り、熱のある香り――それらが混ざりあって押し寄せる。
「ミアさん? こっち――あれ、ミアさん?」
リズーのミアを呼ぶ声が遠ざかる。
気づけば、人の波に押され、リズーの姿が消えていた。
「……だめ……まわる……」
視界が回り、ミアは気分が悪くなった。
ふらふらと広場の噴水へたどり着き、縁に腰を下ろした。冷たい石の感触に少し息がしやすくなる。
*****
「……おい」
低く落ち着いた声が耳を打ったのは、どれくらい経った頃だろう。
顔を上げると、深紅の瞳がこちらを見下ろしていた。
「バルド……様……?」
力の抜けた声で呼ぶと、男――レオンは眉をわずかに動かした。
「ヴァルドだ。呼びにくければ名前でいい」
目覚めてから出会った人たちの名前は教えてもらっていた。
『国王右腕と呼ばれ、若くして政務庁の参謀局長を担うレオン・ヴァルド様』
『一部の人たちからは“冷徹参謀”って呼ばれてるみたいですよ。確かに、冷たい感じで何もしてなくても怒られてるみたいで怖いですよね!』
脳裏に名前を教えてもらったときのセイロとリズーの会話がよぎった。
「……レオン、様?」
「ああ……どうしてこんなところにいる?」
レオンは噴水の縁に片膝をつき、ミアの顔色を確かめるように覗き込む。
「魔力酔いか」
「魔力、酔い……?」
「人混みでは様々な魔力が混ざる。それに酔ったのだろう。一人で来たのか?」
ミアは首を横に振る。
「香術局の子と……でも、はぐれちゃって……」
「そうか」
これまで数回レオンと言葉を交わしたことがあったが、ピリッとした緊張感をミアは抱いていた。
それは「怖い」という感情に近いものだったが、今のレオンに対して、その緊張感を感じなかった。
むしろ――胸のざわつきを静かに撫でるような、深い森のような香りがした。
(怖くない……どうしてだろう? 安心する)
自分でも理由は分からない。
レオンの魔力の香りは、どうしようもなく心地よいと感じた。
「ここは人が多い」
「え……?」
言うが早いか、レオンはミアを軽々と抱え上げた。
突然の浮遊感に驚き、ミアは彼の胸にしがみつく。
レオンは何も言わず、そのまま広場の端のベンチへ向かう。
「ここなら人が少ない。少し休め」
ミアをそっとベンチに横たわらせると、レオンは立ち上がり、歩きだそうとした。
ミアは無意識にその服の裾をつまむ。
「あ……」
(私ったら、何してるの……)
自分の行動に、思わず固まり言葉が詰まった。レオンを引き止めるつもりはなかった。多分たまたま見かけたから声をかけてくれただけだろう。
レオンの魔力の香りが心地よいからと、離れがたい気持ちになってしまったなんて、恥ずかしすぎた。
「同行していた者に連絡するだけだ。すぐ戻る」
相変わらずそっけない声。
けれど、ミアを見下ろす瞳は、ほんのわずか柔らかくなっていた。
(……優しい、人……なのかな?)
ふわふわした意識のなかで、ミアの中のレオンの印象がそっと変わっていった。




