3 魔法香水②
香術局の一角は、外の喧騒から切り離されたように静かだった。
磨かれた棚には淡く光を宿す瓶が並び、ひとつひとつが微かな魔力の香りを放っている。ミアは、その間をそっと歩きながら、胸の奥がふわりと揺れるのを感じていた。
エリシアが穏やかな声で言う。
「香術というのはねーー」
エリシアの説明を聞きながら、ミアは棚に置かれた瓶に視線を移す。
かすかに漂う魔力の香り。
どこか懐かしいようで、けれど知らない世界に触れているような、不思議な感覚が胸に残る。
「リュミエール王国には魔術師は大勢いるけれど、香術士になれる人はほんの一握り。さっきも言ったけど、王宮で働いているのも数人だけなの」
淡い光が瓶の中でゆらりと揺れ、その動きに合わせるように甘やかな香りが漂う。
(私……前にも、どこかで、これと同じような魔力を感じたことがあるような……)
触れられそうで触れられない記憶が、遠い霞の向こうで揺らめいた。
*****
王に献上する予定だった魔法香水を、改めて作り直すことになった。
前回の不備を受けて、エリシアと職員たちは慎重に工程を見直し、万全の体制で調合に臨む。
「緊張するわね」
「王様に献上するものだもの……今回は本当に失敗できないわ」
職員が小さな声で話している声が聞こえてきた。
ミアはそばでその作業を見守る。
周囲の緊張が伝わってきて、ミアも落ち着かない気持ちになった。
魔力の瓶を少しずつ混ぜ合わせ、調合し、魔力同士を馴染ませていく。透明だった液体に淡い光が生まれ、静かに脈打つように色を帯びていく。その変化は美しく、どこか胸の奥をざわめかせた。
(……この魔力が混ざり合う感じ。やっぱり……知ってる)
やがて調合を終え、エリシアが解析魔法をかける。淡い光が瓶を包み、数息後、――
「問題なし。完璧だわ」
その一言に、香術局には安堵の空気が広がった。
けれどミアは、胸の奥に小さく残る違和感を拭えなかった。
(もし……別の魔力が“混ざって”いたのなら、こんな違和感じゃない。もっとはっきりと歪むはず……じゃあ……あれは、“混ざった”んじゃなくて……“抜かれて”いた……?)
魔力がひとつ欠けるだけで、調合全体の香りがわずかに変わる。酸味を帯びるのも、魔力の均衡が崩れたときだ。
記憶はない。
でも、そうであると身体が知っていた。
(私、魔法に関する仕事をしていたのかしら……)
考え込んでいると視線を感じ、ミアは顔を上げた。
レオンが静かにこちらを見つめていた。
「……何か、分かったことがあるのか?」
低い声。ミアのほんの小さな表情の揺れすら見逃さない、鋭い眼差しだった。
ミアは緊張から背筋を伸ばしつつも、自分の気づきを丁寧に言葉にした。
「……“混ざった”んじゃなくて……“抜かれた”んじゃないかと思いました。本来あるはずの魔力が、欠けているように感じて……」
職員が驚いたように声を漏らす。
「ですが、材料はいくつもの魔力を混ぜて精製しています。そこから特定の魔力だけを抜くなんて……そんなこと、可能なんでしょうか?」
エリシアが静かに言葉を継いだ。
「とても難しいと思うわ。でも……私の解析魔法でも異常が見つけられなかった理由を考えると、ミアの推測が一番自然なのよね。“ないもの”を探すのは、解析魔法が一番苦手とするところだから」
レオンは沈黙し、目を伏せる。
その横顔には、押し込めた苛立ちのような影がわずかに走った。
「……分かった。こちらでも詳しく調べてみる。その結果で判断しよう」
その声音は淡々としていたが、深い思案が滲んでいた。
*****
数日後。
レオンは独自に調査を行った。
材料の入手先、製造過程、保管状況……すべてを丁寧に洗い直したが、不審な点は何一つ見つからなかった。
「原因は分からずじまいか……」
そして最終的に、この件は『材料の不備』として処理されることになった。
レオンはわずかに眉をひそめる。
胸の奥で、静かにくすぶり続ける違和感があった。
(何かがあるはずだ。だが、痕跡が残らないなら……これ以上は追えない)
ミアのいう「魔力が抜かれた」という見解が間違っている可能性もある。
(しかし……)
その魔力の香りを感じ取る力は――誰よりも確かだとレオンは判断した。
事実、魔法香水の異変に気が付いたのはミアだけだった。
(……彼女が最初に気づかなければ、この異変は、最初から存在しなかったことにされていた)
レオンの脳裏にふと、ある女性の姿がよぎった。
精密に魔力の香りを嗅ぎ分け、“香りの魔女”と讃えられた女性のことを。
すぐにレオンは頭を振り、その記憶を追い払う。
(あの方は……もういない。思い出したところで、何も変わらない)
事件はひとまず“解決”として蓋をされた。
けれどミアの胸にも、レオンの胸にも、静かなざわめきだけが残り続けていた。




