2 魔法香水①
医務室を出て、清潔感のある回廊をエリシアに導かれるまま進んでいくと、ふいに空気が変わった。
どこか甘く、胸の奥にすっと染み込むような香りが漂い、ミアは思わず足を止めた。
エリシアが振り返り、柔らかな笑みを浮かべる。
「ここが香術局よ。魔力の香りを扱う場所だから……少し独特でしょう?」
ミアは小さくうなずいた。
初めて訪れるはずなのに、ほんの少し懐かしさを覚える自分に戸惑う。
(……知っているような、知らないような……不思議な感じ)
扉を開けると、静謐な香りと淡い光が満ちた部屋に、数人の職員が整然と並べられた作業台で瓶を扱っていた。
「皆、紹介するわ。この子はミアというの。魔力の香りが分かるようなの」
職員たちは、作業の手を止めミアに視線を向けた。みな、驚いたような表情をしている。
多数の視線を受けて、ミアは緊張で少し後ずさりした。
エリシアは続ける。
「魔力の“香り”を感じ取り、術として扱う特別な魔法を香術というの。この局にいる職員の中でも、魔力の香りを感じ取れる者はほんのわずかなの」
説明を聞きながら、ミアはそっと視線を落とした。
(私がそんなすごい力を? ……自分のことなのに、何も思い出せない)
エリシアは先ほど赤毛の少女が持ってきた魔法香水の瓶を取り出し、机にコトリと置いた。
そして、皆の前で再び解析魔法をかけた。
淡い光が瓶を包み、しばらくしてその光が揺らいだ。その結果に、彼女は眉を寄せる。
「やはり効能はいつものと一緒だけど、少し魔力が淀んでいるわ。不良品よ」
室内に緊張が走った。
「そ、そんなはずはありません!」
「材料の受け取りから調合まで、何度も確認しました。王への献上品ですから……普段以上に注意を払って……」
職員たちの声は動揺に震えていた。
エリシアは静かに首を振った。
「解析魔法の結果は正確よ。でも、普段通りの解析だったら私も見落としていたかもしれないわ」
「え……?」
「ミアがね。私が解析する前に、香りの違和感を言い当てたの」
驚きと疑問が混じった視線がミアに注がれた。
ミアは肩をすくめ、か細い声で言う。
「わ、私……ただ、少し変な香りだなって……」
黙って成り行きを見守っていたレオンが、鋭い眼差しで室内を一瞥した。
「この者は香術への理解があるようだ……香術局に預けるのが妥当だろう」
事務的で、感情の籠もらない声音だった。
(……預けるって……私は、どうなるんだろう)
ミアは胸の奥に不安が広がるのを感じた。
逃げたいという気持ちはある。でも、ここから逃げたとしても、どこに行けば良いのかも分からない。
どうすることが最適なのか、記憶のないミアには判断できなかった。
(今は……指示に従うしかないわ)
ミアは不安に負けないように、キュッと両手を握りしめた。
レオンは、言葉を続ける。
「それと──献上品である魔法香水に不備が生じた件だが……効能は変わりないと言ったが、もし害を及ぼす成分が混入していたらどうなる? 王家への献上品に瑕疵があった時点で、これは王国全体に波紋を及ぼす重大インシデントだ」」
室内の空気が、一気に冷たく引き締まった。
「王国全体」
「重大インシデント……」
職員の何人かが、事の重大さを恐れるように呟く声が聞こえた。
「調査を行う。材料をすべて並べろ」
レオンの言葉に、職員たちが慌ただしく動き出し、今回の魔法香水に使用された材料の入った小瓶が並べられていった。
レオンがミアに視線を向ける。
「……何か気になるものはないか?」
突然の問いに、ミアは小さく目を瞬いた。
ミアは、瓶をひとつひとつ確かめるように香りに意識を向けていく。
澄んだ香り、甘い香り……その中で、ひっそりとした違和感が胸に触れた。
透明な小瓶。
ほんのかすかに、酸味のある香り。
(……これ、さっきの魔法香水の……あの違和感に似てる)
「これ、です……。少しだけ……酸っぱい香りがします」
職員が瓶を取り、魔導具で香りを確認するが、首を傾げる。
「……よく分からないな」
エリシアが解析魔法をかけると、先ほどのように淡い光がわずかに揺らぐ。
「確かに微弱な違和感があるわ。でも……さっきも思ったんだけど、混ざり物があったら解析結果に出るはずなのに……妙ね」
「この材料は?」
レオンが問う。
「よく使うものです。先日納品されたばかりで……」
「納品した者は?」
「長年、香術局と取引している者です。品質も信頼も……これまで問題はありませんでした」
レオンの指示で、すぐに納品者と連絡が取られた。
返ってきたのは、「献上品に使う材料はいつも以上に精査している。不備があるはずはない」という返答。さらに、一度に何本か精製したものなので、一瓶だけ異変があるのはおかしいと言われたのだった。
念のため、エリシアが他の小瓶にも解析魔法をかけていく。
しかし異常はひとつも見つからなかった。
では、なぜ、この瓶だけが──。
沈黙が部屋の隅々まで染み込むように広がっていく。
その静けさを断ち切ったのは、レオンの低い声だった。
「……香術局だけの問題で済む話ではない可能性がある。この件は、俺が預かって調査する」
そして、ミアを見る。
その眼差しは鋭く、逃げ道など最初から許さないようだった。
「お前の能力は……役に立つようだ。調査を手伝ってもらおう」
ただ、使えるものは使う──その冷徹な姿勢だけがあった。
ミアは小さく息をのむ。
(……怖い。でも……私、何か……できるのかな)
「分かりました」
震えた声だったが、ミアは顔を上げて真っ直ぐにレオンを見た。
「私にできることがあるなら、やります」
自分が何者かも分からないまま。
けれど、ミアを取り巻く世界は、確かに動き始めていた。




