1 少女の目覚め
水面へ浮かび上がってくるように意識が浮上する。
(薬草の……香り?)
はじめに感じたのは、少し強めの薬草の香りだった。ゆっくりと瞼を開くと、見慣れない白い天井が視界に広がった。
(ここは……?)
身体を起こそうとした瞬間、胸の奥がかすかにざわついた。
痛みではない。
ただ、何かを忘れている気がして、不安が細い糸のように心をかき乱していく。
周囲を見渡すと、整えられた簡素なベッドと、麻布の白いカーテンが風に揺れていた。窓際の棚には瓶が並び、柔らかな陽光に照らされている。
薬草は見当たらないため、はじめに感じた香りは何だったのかと、少女は首を傾げた。
「気がつきましたか?」
優しい声に振り向くと、白衣の女性が立っていた。
落ち着いた栗色の髪の女性は、少女を安心させるように微笑んでいた。
「私はリアナと言います。治療師なの。体はつらくない?」
「……はい。でも……」
言葉を続けようとすると、胸の奥がざわめいた。
大事なことを思い出せない――そう気づいた瞬間、喉がきゅっと細くなる。
リアナはベッドサイドの椅子を引き寄せ座ると、少女の背をさすりながら「大丈夫よ」と優しく声をかける。
「お名前を聞いてもよい?」
(名前……私の名前は……)
「……ミア、です」
「ミアさん。どうして森で倒れていたか、覚えている?」
「森で……」
倒れていた。
その単語は、まるで他人ごとのようにミアの胸をすり抜けていった。どれほど記憶を探っても、その情景が浮かばない。問われた事だけではない。それ以外のことも何も思い出せなかった
「……ごめんなさい。思い出せません。森にいたことも、どうしてここにいるのかも……全部……」
かすれた声が震える。
(どうして、何も思い出せないの?)
霧の中にいるようで、どれだけ手を伸ばしても触れられない感覚に、不安がじわじわと広がっていった。
「無理に思い出そうとしなくていいのよ。とても衰弱していたから、そのせいで一時的に記憶が曖昧なのかもしれないわ」
「でも……」
「大丈夫よ」
リアナが、優しく言葉を掛けてくれるが、それでも胸の重さは消えなかった。
そんなとき、医務室の扉が静かに開いた。
背の高い男性が一人、その後ろに濃紺のローブをまとった女性が続いた。
男性は、鋭く冷たい雰囲気の人で、そこに立っているだけで空気がぴんと張り詰めるように感じた。
リアナが小さく頭を下げる。
「レオン・ヴァルド卿、フランベルジェ長官。お待ちしておりました」
「目を覚ましたのか」
「はい、先程。しかし……」
「何か問題でも?」
「記憶がないようです」
レオン・ヴァルド卿と呼ばれた背の高い男が、淡々とリアナに質問し、その答えに眉を寄せた。
フランベルジェと呼ばれた女性は、ミアに視線を合わせ微笑む。一見冷たそうに見える青い瞳が、ふわりと優しい雰囲気になった。
「私は魔術局のエリシア•フランベルジェと言います。少しだけ、あなたの状態を調べさせてくださいね。痛いことはしませんから」
ミアは戸惑いながらも頷く。
エリシアが手を翳すと、指先に淡い光が集まり、まるで薄い布がふわりと揺れるようにミアの周囲を包んだ。
「解析魔法ですよ」
リアナがそっと教えてくれた。
温かな光は穏やかで、触れられているのにくすぐったさも痛みもなかった。
しばらくして、エリシアは眉を寄せる。
「……とても古い禁呪の残滓ですね。十年……いえ、それ以上前のものかもしれません。それが何らかの要因で最近、解呪され、その余波が彼女に付着したようです」
レオンが静かに言う。
「残滓がある以上、禁呪に関わった可能性は無視できない。だが、本人に記憶がないのでは原因を追うこともできないな」
その声は淡々としており、責める色も情けもなく、ただ事実だけを述べていた。
その冷たさに胸が少し縮む。
ミアは、思い出せないという事実が、一層重く肩にのしかかるのを感じた。
医務室に静かな沈黙が降りた。
どこか、霧が晴れないような、もやのかかった重い空気が漂う。
そんな雰囲気を破ったのは、軽いノックの音だった。
「フランベルジェ長官。すみません、魔法香水の最終チェックをお願いできますか?」
可愛らしい声を共に、小柄な少女が顔をのぞかせる。
赤色の髪を三つ編みにし、腕には細長いケースを抱えている。
「王に献上する、リラックス効果の魔法香水なんですが。念のため最終チェックをして頂きたくて……」
「ええ、いいわよ」
エリシアは頷き、ケースを受け取った。
その瞬間だった。
(……え? なんか……)
ミアは微かに違和感を感じた。
「変な感じが……」
言葉が漏れた瞬間、レオンの視線が冷たく向けられる。言葉はなくても「部外者が何を?」と言われているのが分かった。
その冷ややかさにミアは肩をすくめる。
「変な感じですか……?」
ケースを持ってきた少女が、不思議そうにミアを見る。
(みんなには感じないの? それに、どうして私、変って思ったんだろう)
名前以外の記憶がないのに、どうして変と感じたのか、自分でも分からなかった。
「ごめんなさい、上手く言えないんですけど」
言葉を切り、ミアは視線を落とす。
自分が変だと思ったこと自体が、変なのかもしれない。そう思ってしまった。
エリシアが興味深そうにミアを見つめる。
「変な感じ……ね。解析してみましょう」
彼女が香水へ手を翳すと、青白い光がふわりと広がり、香水の瓶を淡く照らした。
「……本当だわ。効能はほとんど変わらないけど、魔力が淀んでるわ」
少女が目を丸くする。
「そんな……調合手順も保管も、いつも通りのはずなのに!」
そして、レオンの視線がゆっくりとミアへ向いた。
冷たい刃物のような視線が突き刺さる。
「どうして気づいた?」
問われても、ミア自身が一番わからなかった。
ただ、あの香りが――何かおかしいと自然に感じただけだった。
「あ……少し、酸っぱいような香りがして……嫌な香りじゃないけど、落ち着かない感じがしたんです」
「香りが、分かるのか?」
「え……? はい」
不思議そうにミアがうなずくと、室内の全員が静かに息を呑んだ。
その沈黙は、不思議な重さを帯びていた。




