プロローグ
国境近くの森は、淡い朝の気配に包まれていた。
夜露を乗せた葉が朝日を浴びて光り、息を深く吸い込めば胸の奥まで澄みわたる冷たさに満たされる。
レオンは、その空気の清らかさにほんのわずかに目を細めた。
普段、レオンは王宮で仕事をしていることが多い。
王宮は多くの人が集うため、色々な思念や魔力が混じり合う場所である。
王の側近で、参謀でもあるレオンは日々その中で頭痛の種を抱えていた。
(やはり、このあたりは魔力の巡りが落ち着いているな)
森の清浄な空気は、そんな普段の疲れを癒してくれるような気持ちになる。
本来は、ただただ清々しく心地よい場所のはずだ。
(……しかし、以前来たときに比べると魔力が少し乱れているな)
清浄な空気に混じる、ほんのわずかな違和感にレオンは眉をひそめた。
それが彼がここへ視察に来た理由だった。
リュミエール王国は大国ではない。
しかし、豊かな森と湖に囲まれた、穏やかな地形を持つ国だ。
王都では魔術研究が進み、民の暮らしも安定していた。
しかし、国境に近い森で数日前から魔力の乱れを検知したと報告があった。
周辺国との関係は良好。
しかし、その均衡が崩れれば、厄介なことになる。
だからこそ、国境の異変を放置するわけにはいかなかった。
本来は魔術局の管轄事案だが、視察も含めてレオンが直接足を運んだのだった。
足元を踏むたび、柔らかな苔がわずかに沈む。
耳を澄ませば、小さな水音が遠くから響き、鳥の鳴き声が風に乗って運ばれてくる。
森は穏やかだった。
――その奥に、説明しがたい違和感が確かに潜んでいるのを、レオンは感じていた。
(……何だこの感覚は)
森の中心に近づくにつれ、肌をかすめる空気に、ざわざわと産毛を逆なでするような感覚が混ざる。
(こちらからか?)
その感覚が特に強く感じる方向があった。
レオンは、そちらに足を向ける。
人の手が入っていない獣道を、草木を分けて進む。
たどり着いたのは、小さな泉のほとり。
レオンの歩みが止まった。
視線の先に、少女が横たわっていた。
薄い外套が土に汚れ、細い腕がだらりと伸びて、泉に指先が触れ波紋を作っている。
(これは……)
青々と瑞々しい草木が茂る中、少女の周りだけが違っていた。
燃えて枯れたような草、焦げた匂い。
けれど、空気は刺すように冷たい。
それは、禁呪が使われた場所に特有の痕跡だった。
その中心に少女は倒れていた。
(……禁呪、か)
淡々と確認しながら、レオンは少女の傍らに膝をついた。小さく胸が上下しているため、死者ではない。
気を失っているようだ。
「……妙だな」
思わず小さくつぶやき、レオンは眉を寄せる。
禁呪に関わった者は、普通ならもっと荒んだ魔力の揺らぎを抱えるものだ。なのに、この少女の魔力は静かな泉のような穏やかさがあった。
その不協和音がひっかかり、レオンはほんの少しだけ首を傾げた。
とはいえ、感傷に浸る余裕はない。
「放置するわけにはいかないな」
低くつぶやく声には、情けはなかった。
禁呪に関わった者である可能性がある以上、身柄を確保し、王都で調べる必要がある。たとえこの少女にいかなる事情があろうとも、国の安定を揺るがすかもしれない要因を見逃すわけにはいかなかった。
「レオン、何か見つかったのか?」
木々の間から姿を見せたのは、明るい茶髪の男性――騎士団副団長のカイだった。レオンとは幼なじみであり、子どもの頃から何でも遠慮なく物を言い合ってきた仲だ。
今回の調査に同行した相棒でもある。
カイは少女を見ると、眉をひそめた。
「……子供じゃないか。どうする?」
周りの状況から、カイも禁呪の痕跡に気が付いたようだ。しかし、倒れているのがまだ子どもと言っても良い年頃の少女であるため、躊躇する反応を見せた。
「どうもしない。禁呪に関わった可能性がある以上、連行する。事情は王都で聞けばいい」
きっぱりと言い捨てるレオンに、カイは呆れたように笑う。
「相変わらず容赦ないな。じゃあ俺が運ぶよ」
「当然だ。俺は武人じゃない。力仕事は筋肉の塊であるお前の担当だろ」
「はいはい。相変わらず口がお悪いことで」
軽口を交わしつつも、カイの表情には緊張が宿っていた。禁呪の痕跡がある以上、油断はできない。
「なあ、レオン」
「なんだ」
「この子は、どうなるんだろう」
カイは少女を丁寧に抱き上げ、レオンの方へ一度視線を投げた。
「さぁな。まずは調べて見なければ分からないだろう」
「そう……だな」
カイの表情には「少女が禁術を使っていなければ良いな」と希望的な感情が窺えた。
しかし、禁呪に関わっていることは確か。
監視下に置くのは間違いない。
感情を一切排したレオンの眼差しには、少女に対する興味も、憐憫もなかった。
ただ、国の安定を守るために必要な“処置”として、彼女を連れて行く。
己の仕事を遂行する。
(感情で判断しない。それが、俺のやり方だ)
そう言い聞かせるように、レオンは少女から視線を外した。
それが、レオンの役割だった。




