表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/8

第7話 沈む京、裂ける心

◆ 信長の影が去った後 ◆


信長の影が廊下の向こうへ消えても、二条城にはしばらく音が戻らなかった。義昭は胸に手を当てたまま動けず、心臓がまだ信長の視線に握られているようだった。光秀は膝をついたまま、震える指先を必死に押さえていた。


「……御所様……」


光秀がかすれた声で呼ぶと、義昭はようやく息を吸い込んだ。


「光秀……そなた……無事か……」


光秀は頷こうとしたが、喉が震えて声にならなかった。


その時、廊下の奥で灯がひとつ揺れた。風もないのに揺れる灯──そこに“何か”がいる。


光秀は立ち上がった。


「……御所様。わしは……呼ばれております」


義昭の顔色が変わる。


「光秀……行くな……!」


光秀は一瞬だけ迷ったが、すぐに首を振った。


「行かねば……信長公は……わしを疑われる」


義昭は光秀の腕を掴んだ。その手はまだ震えていた。


「光秀……そなたまで……奪われたら……」


光秀は義昭の手をそっと外した。


「御所様。わしは逃げませぬ。逃げれば……あのお方は、もっと多くを奪う」


義昭は言葉を失った。光秀は静かに微笑んだ。その微笑みは、どこか壊れそうだった。


「御所様。わしは……そなたのために立ちます」


光秀は深く頭を下げ、信長の待つ方角へ歩き出した。背中が闇に溶けていく。義昭はその場に崩れ落ちた。


「光秀……行くな……行くな……!」


声は震え、涙が頬を伝った。だが光秀は振り返らなかった。振り返れば、二度と歩けなくなると分かっていたからだ。


◆ 京の沈黙 ◆


光秀が去った後、二条城は異様な静けさに包まれた。侍女たちは息を潜め、兵たちは目を合わせようとしない。京の町もまた、巨大な獣が通り過ぎた後のように沈黙していた。


藤孝が義昭の部屋に駆け込んだ。


「御所様……! 光秀殿は……」


義昭は涙の跡を拭おうともせず、ただ首を振った。


「……信長のもとへ……」


藤孝は息を呑んだ。


「……最悪の時は、わしが……」


義昭は遮った。


「藤孝……光秀を……守ってくれ……」


藤孝は言葉を失った。


「……御所様……承知いたしました」


だが胸の奥には、言葉にできない恐怖が渦巻いていた。


──信長の“静寂の暴力”が京全体を飲み込み始めている。そして光秀はその中心にいる。


◆ 安土の影 ◆


光秀は信長の居館へ向かう道を歩いていた。足音がやけに大きく響く。京の町人たちは光秀を見ると道を開けた。誰も声をかけず、誰も目を合わせない。まるで死に向かう者を見るように。


「……わしは……ここで死ぬのかもしれぬな」


だが足は止まらなかった。義昭の震える手の感触がまだ残っていた。


「御所様……わしは……そなたを守るために……」


拳を握りしめた時、背後で影が揺れた。


「……十兵衛」


振り返ると、森蘭丸が立っていた。微笑んでいるのか怒っているのか分からない表情。


「殿がお待ちです」


光秀は喉を鳴らした。


「……参る」


蘭丸は一歩下がり、光秀を先に歩かせた。その背後で、蘭丸の目が細く光った。


「(殿は……十兵衛様の“熱”を……見逃しませんよ)」


◆ 信長の間 ◆


光秀が信長の間に入ると、誰もいなかった。広い部屋。灯は少ない。風もない。ただ“静寂”だけがあった。


光秀は膝をついた。


「光秀、参りました」


沈黙。返事はない。


──いる。


信長はどこかにいる。だが見えない。


「……十兵衛」


背後から声が落ちてきた。光秀は振り返れなかった。信長はいつの間にか背後に立っていた。


「……ほう」


信長は光秀の肩に手を置いた。軽い手。だが光秀の心臓は握りつぶされそうだった。


信長は耳元に顔を寄せた。


「……十兵衛。その目に宿る“熱”……大事にせよ」


光秀の背筋が凍った。


「冷めぬうちに……わしが喰うてやる」


視界が揺れた。信長は肩を軽く叩き、歩き去った。


光秀は崩れ落ちた。


「……生きて……帰れた……?」


蘭丸が支えた。


「十兵衛様。殿は……あなたを“気に入られた”のです」


光秀は震えながら立ち上がった。


「……それは……死より……恐ろしい……」


蘭丸は微笑んだ。だがその微笑みは、どこか歪んでいた。


蘭丸は自分の首筋に指を滑らせた。衣の隙間から、薄く白い痕が覗いた。


傷ではない。噛み跡でも、刃の跡でもない。

だが──何かに“刻まれた”痕だった。


蘭丸は恍惚とした表情で言った。


「殿に気に入られるというのは……そういうことです」


光秀の背筋が、氷のように冷たくなった。


◆ 義昭の決意 ◆


二条城。義昭は光秀が戻らぬまま夜を迎えていた。


藤孝が言った。


「御所様……光秀殿は……必ず戻ります」


義昭は首を振った。


「藤孝……わしは……もう待てぬ」


義昭は木札を握りしめた。


「光秀を救うためなら……わしは……禁じ手でも使う」


藤孝は震えた。


「御所様……それは……」


義昭は涙の跡を拭わずに言った。


「戦国が“暴力”で理を撥ね退けるなら……わしはその暴力すらも“買い叩いて”やる」


義昭は筆を取り、紙を広げた。


筆先は迷いなく走った。


その文書には、「義」も「情」も一切なかった。

利害、損益、交易量、通行税、供給網──

数字と条件だけが淡々と並ぶ。


まるで、この国全体をひとつの巨大な市場として再設計するかのような、

不気味なほど冷徹な書面だった。


藤孝は、その異質さに息を呑んだ。


「……藤孝。堺の宗久に伝えよ。“黄金”を動かす時が来た、とな」


◆ 光秀、生還 ◆


その時、廊下の向こうから足音が聞こえた。


「……光秀……?」


襖が開いた。光秀が立っていた。血の気のない顔で、震える足で。だが確かに、生きて。


義昭は駆け寄った。


「光秀……!」


光秀は膝をついた。


「御所様……戻りました……」


義昭は光秀を抱きしめた。


「光秀……よく……生きて……!」


光秀は義昭の胸に顔を埋めた。だが光秀の目は義昭の背後を見ていた。


そこには誰もいない。

だが光秀には見えた。


──信長の影。


義昭の背後に、静かに立っている。


光秀は震えた。


「御所様……どうか……お気をつけて……」


義昭は気づかない。光秀は義昭の背後に立つ“死”を見ていた。




その夜、二条城の屋根の上で、ひとつの影が義昭と光秀を見下ろしていた。


「……面白い。将軍と光秀……どちらが先に折れるか……殿は……それを見ておられる」


影は闇に溶けた。


京の夜風が揺れた。


その揺らぎは、まだ誰も知らぬまま──


本能寺まで、あと二年。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ