Chapter15
東原仙一の運転するコンパクトカーは、東京都世田谷区北沢――下北沢と呼ばれるエリアに辿り着いた。茶沢通りを南進し、高架下の付近で停車させた東原が言う。
「どっかの駐車場に停めてから行くわ」
「ありがとう。後でな」
深影を連れて歩道に降りた理吹の謝意を背に、ブレーキを解かれた車両が走り去る。すぐに合流するのだろうが、一先ず深影は頭を下げて東原を見送った。
下北沢という街は深影も知っていたし、それなりに憧れを抱いていた。まさかこのような形で訪れるとは。若者に人気の街と聞くが、流石に深夜0時過ぎは人通りも少ない。古着屋もカフェも営業しておらず、目覚めたままの名物はごく一部のライブハウスと居酒屋くらいか。
周囲を見回す深影を連れ、理吹は慣れた様子で道を進む。目的地は下北沢駅の南側に位置する雑居ビルであった。1階に入居しているコーヒースタンドは当然ながら営業時間外だが、その『Scylla』という看板の上、事務所らしき2階フロアの窓からは照明の光が漏れている。
「ここって……?」
一体何をする場所なのかと、疑問を抱く深影。先程『仲間んとこ』に行くと言われていたが、その仲間とは怪しい探偵業者の類――少なくとも理吹や東原のような政府に連なる組織の人間ではないのだろうと彼女は予想した。
そんな少女の困惑には構わず、理吹はコーヒースタンドの裏手に回って事務所用の戸口の前に立つ。無骨な金属製のインターホンを鳴らすと、年季の入った外装からは浮いて見える白く分厚いドアがやや大きめな機械音と共に解錠された。
「入るぞ。階段ちょっと急だから気を付けて」
理吹がそう言って進み、深影も後ろ手にドアを閉めて追う。2階フロアに辿り着くと、次は『Third Time's』という青色のステッカーが貼られたガラス戸に突き当たった。理吹の到着を待っていたようで、それは内部から開かれる。
「よう理吹。お疲れ」
少年が軽い口調で理吹を出迎えた。アッシュグレーの短髪を逆立てた彼は、続けて深影に視線を向ける。
「あんたが拉致られたっていう……まぁ入れよ。適当に座ってくれ」
そう言って少年は事務所の中に戻る。理吹が後に続いた。
「お、お邪魔します」
深影も挨拶と共におずおずと入室する。自分達を出迎えた少年の『遊び慣れ』を感じさせるやや派手な風貌に、彼女は失礼ながら警戒心を抱いてしまう。しかしそれはそれとして、彼の顔立ちは非常に整っていた。
――自分はとっくに殺されていて、乙女ゲームの世界にでも転生してしまったのだろうか?
3人のタイプが異なる少年に次々と邂逅した深影は、そんな極めて下らないことを考えた。
「悪いなトキ。寿司奢る件は延期したのに仕事頼んじまって」
脱いだジャケットを畳んでアームチェアの背もたれに掛け、理吹が言った。丁度24時間と少し前、横浜で繰り広げられた暗闘に合わせて実行した破壊工作。その現場で口約束をした『危険手当』への言及である。本日の主役たる深影にとっては知る由も無いことだが。
理吹にとって彼――オーソン時信は無二の友人にして、護神兵から離れた立ち位置にいる同志。自ら実行できない裏工作の類を任せられる存在だった。
「気にすんなよ。こういうのは俺の専門だしな」
笑って返した少年は、思い出したように改めて深影の方を向いて続ける。
「俺、オーソン時信ね。先月から16歳」
「白縫深影、中学3年生です」
少年の名乗りを受け、深影も失念していた自己紹介を返した。数秒の逡巡を挟んで手近なソファへ腰掛けた彼女は、続けて疑問を呈する。
「ところで、これから何をするんですか?」
それに答えたのは理吹だった。
「お前の情報を政府が掴んでいないか確かめる。取り敢えず拉致されるまでの行動……何処に居たかってのを全部教えてくれ」
「確かめるって――」
困惑する深影だが、壁一面に配置された複数のモニターや、それらと繋がる妖しげな光を放つ機器類を見て悟る。雑多なようで秩序だった情報処理の要塞。ゲーミングチェアに体を収めた時信がキャスターを転がして軽快に移動し、中央のキーボードと向き合った。左手にはエナジードリンクが握られている。
「誰にも話すなよ。内務省のデータベースに侵入するなんて、未成年でも実刑確定だ」
そして悪戯っぽい笑みと合わせて言い放つ、悪戯では済まないサイバーテロの宣言。これこそがオーソン時信という少年の本業である。
唖然とした深影は暫しの間、眼前で立ち上げられるシステムの数々を眺めるばかりだった。
空きのあったパーキングに車を停め、事のついでに24時間営業のスーパーマーケットで買い出しを済ませた東原が事務所に到着した時も、その作業は続けられていた。
深影の申告に従い、彼女が“ムーンフェイズ”のターゲットとなった事を示す監視カメラの映像記録が存在しないか――厳密には内務省情報管理局のデータベースにおいて存在しないか、時信は手慣れた様子で確認していく。
あまり広く知られてはいないが、情報管理局は行政や公共施設が設置した監視カメラ等の記録を全て掌握・保管している。護神兵は当然ながらそのデータベースを活用しており、今回はムーンフェイズが魔族の拉致を行っているエリア及び時間帯の映像を精査。不自然に消失した人物を仮の『被害者』として取り扱った。
つまり深影を捉えた映像の内容によっては、『拉致された可能性が高いにも拘らず何故か自宅に戻った人物』として相応の疑いが持たれてしまう。それでは理吹が現場から逃した意味が無い。
「ヨシ。戸田公園駅のカメラには映ってたけど、それだけだ」
エナジードリンクを飲み干し、時信が言った。そのままゲーミングチェアを180度回転させて理吹達に向き直る。
「拉致られたっていう現場の近くにはそもそも、護神兵が把握できるカメラは無かったよ」
最早この状況に慣れてしまった深影は興味深そうに時信のクラッキングを眺めていたが、それを聞いて安堵したように息を漏らした。
「こっちの方も大丈夫そうだ」
そう言って、理吹がスマートフォンの画面から顔を上げる。時信が情報管理局のデータベースに侵入している間、彼は護神兵内部の作戦に関わる遣り取りを閲覧していた。他の魔術士が強襲したムーンフェイズの拠点では、拉致された魔族のリストなどは特段発見されなかったらしい。また拘束された僅かな捕虜は、理吹が強襲した拉致の実行グループの状況を把握していなかった。回収した被害者達を警察に引き渡し、作戦は概ね終了したとのことだ。
一先ず護神兵――政府は深影を認知していない。
「何というか、本当にありがとうございました」
自分1人の安全の為に負った手間とリスクに対し、深影は頭を下げて礼を言った。しかしある意味ここからが本題なのだ。
そもそもの話、彼女は魔族であるから今回の一件に巻き込まれたのである。実際に戦闘、魔術の行使までを目撃した以上、他の被害者達のように何も知らせず日常生活へ戻す訳にもいかない。魔族であること、ひいては自身の魔力を自覚させ、相応のレクチャーを施す必要があると理吹は判断した。同意見だとばかりに東原が理吹を見て頷く。言葉を交わすまでもないことであった。
「今更だけど白縫、お前は普通の人間じゃない」
センスの欠片も無い切り出しだと自覚しながらも、理吹は話し始めた。右手の人差し指を立て、先端にワインレッドの小さな火球を灯す。
「赤羽で俺が見せたような術……ああいうのを使える人種、“魔族”なんだ。魔力ってのを持ってる。拉致されたのもそれが理由でさ」
そう言って、理吹は指先の火球を深影の方へ低速で飛ばした。続けて東原が購入してきたチョコレートを念力で浮遊させ、改めての実演として包装を器用に破く。
既により激しい異能を見せつけられている深影は、それらを種と仕掛けに因るマジックの類であると疑いはしない。赤羽の一件が理解と順応の土壌を育てていた。
「自覚は無いだろ?でも魔力ってのは無意識に出ちまうもんだから、それを察知した奴らに攫われたんだ」
横から補足した東原が眼鏡を外す。同色のカラーレンズによる誤魔化しが解かれ、薄暗いネイビーの瞳が露わになった。人種に由来するものとは異なる絶妙な色彩を深影は認識する。そして彼女は、紫外線の影響と片付けていた自身の頭髪の変化を振り返った。
「因みに俺は普通の人間ね。さっきのハッキングは魔術と関係ないから」
理吹が開封したチョコレートを口に放り込み、時信が言う。彼もある意味ウィザードではあるのだが。
「魔術って……人を呪ったり、何かを召喚したり出来るんですか?」
深影は漫画等の創作物において見られるような例を挙げたが、理吹は「いや」と否定する。
「ぶっちゃけ政府の上の方にも勘違いしてる奴がいるんだけど、そういうのじゃないんだよな。そのまま念力として使ったり、炎や突風に変換したりって感じ。
魔力ってのは魔族個人の体に備わったエネルギーだから、詠唱や魔法陣的なのは使わない……というかそんな技術が無いんだ」
理吹の解説は、彼自身が護神兵の一員として最初に参加した座学の内容と殆ど変わらない。異能に対する一般的なイメージと現実の“魔術”の間に存在するギャップ。流石の護神兵も、新人や素人に対しては相応の説明を欠かさなかった。
なお呪術や召喚術のような神秘は、どちらかと言えば響理会の使徒に備わった神性が起こすものだろう。神性のバリエーションなど、理吹や東原の立場では深く知り得ないが。
あるいは魔女であれば、そのような固有の魔法を有している可能性がある。
深影は「超能力みたいな感じだろうか」と、ある程度の理解に至った。その上で問う。
「それで私、これからどうすればいいんですかね……?」
遠慮がちに助言――というより指示を請うた彼女に、理吹が応じる。元より今後の立ち回りについて指導する予定であった。
「まず、今回みたいな事件は本当にレアケースだから気にしなくていい。魔族を一目で判別する奴なんて滅多にいないから」
今回の拉致事件を起こした“ムーンフェイズ”のように、何らかの事情で魔族を利用したい組織。魔道に纏わる事柄の隠蔽を、時に独占を図る国家権力。そして何より、魔道の根絶を掲げ、魔族を絶滅させんとする響理会。
理吹は、魔族を取り巻く世界観と勢力図について直ちに詳細を語るつもりは無い。そういった講義は追々行えば良いと考えていた。
彼は続ける。
「お前は取り敢えず自分の魔力をコントロール出来るようになってくれ。その上で、バレる使い方はするな。
魔族だと発覚した奴を無条件で殺しに来る連中がいるから」
使うな、とは言わない。余らせ過ぎた魔力は容姿――頭髪や瞳に影響を及ぼしてしまうため、むしろ意識的に消費した方がよいのだ。大まかながら理吹の感覚に伝わってくる深影の魔力量を鑑みれば。
そんな彼女は魔族であるという一点のみに拠る生命への脅威を聞かされ、表情を曇らせた。理吹が言及した『連中』とは無論、響理会である。
「肝心な魔力の出し方だけど……まぁ、何となくのイメージで。離れた所の物を掴むとか、指先からビーム出すとか……」
実践的な魔力の行使を語るに至り、理吹の口調から自信がやや失われた。これは彼の指導力や言語化能力の問題ではなく、魔術というものが結局は魔族本人の感覚に依ってしまうためである。
出来る事は何となく出来て、出来ない事は取り敢えず出来ない。
マナステルスや防音結界のような必修と言える魔術の習得は、元より魔力の制御が十分に可能な者が進む段階。護神兵などにおいても完全な未経験者を0や1から指導するノウハウは確立されていないのだ。
雑にならざるを得ない説明に、恐怖から一転して「ん?」と困惑を示す深影。
「周りに人が居ない所で色々試してくれ。割と気合いの問題だから……今度、暇な時に教えるよ」
理吹としてはそう伝える他になかった。チョコレートに手を伸ばした彼に代わり、続けて東原が口を開く。
「お前の両親、少なくとも片方は魔族である可能性が高い。子供に何も教えてないってことは自覚が無いんだろうけど」
それを聞き、理吹から受け取ったチョコレートを口に含んだまま深影は固まった。
「え、遺伝するんですか」
同じく手渡された緑茶で口内の甘味を流し込み、彼女はそう反応して次の言葉を待つ。
「少なくとも今の日本で、普通の人間を魔族に変える存在は確認されていない。だから海外に行った事が無い限りは大概、先祖からの遺伝だ」
東原が言った。厳密に言えば生物学的な『遺伝』とは異なるが、今その本質は重要でない。それは振り撒く魔力によって魔族を生み出す“魔女”についても同様だ。
生まれてこの方祖国を出た経験の無い深影は、失礼ながら平凡と評していた両親が異能を備えた人種であるという可能性に何とも言えぬ気分になった。そして説明に拠れば、祖父母や従弟などの親戚もその可能性があるという。
「親族が魔族かもしれないって、一応は気にしておいてくれ。無自覚の内に魔力を出して騒ぎになることもあるからな」
締め括った東原は好物のブラックコーヒーを飲みつつ、自らもチョコレートを手に取った。
気付けば初対面の男子3名と卓を囲んでいた深影だが、ふと気になって言う。
「あの……私が裏切って通報するとか、考えないんですか?」
余計な発言であると自覚した上での問い掛けに対し、理吹は苦笑すらせず自然に応じる。
「それやった時はお前も終わりだろ。解ってる奴を疑ってたらキリが無い」
東原と時信の2人は特に反応を示さず、それは理吹への同意に等しかった。陰謀と流血に満たされ、疑心暗鬼が渦巻く業界に慣れ切ったが故の割り切りである。
比喩ではなく、住む世界が違う。深影は改めて底知れないものを感じた。