Chapter13
魔族をそうでない普通の人間から分かち、定義するものは何か。
無論それは、第1世代であれば魔女から、それ以降の世代であれば親から受け継いだ魔力の存在である。魔女の殲滅と魔族の駆除を掲げる秘密結社、響理会が蓄積した膨大な記録や知見に拠ると、人間の2割程度が魔族へと覚醒し得るらしい。
そんな響理会の暗躍によって、魔族を生み出す根源たる魔女の活動は多少なりとも抑制され、魔族は殺害され続けている。しかし2割もの人間に適性があるならば、そして魔力が親から子へと受け継がれる形質であるならば、決して少数とは言えない程度の魔族が人間社会に存在する筈である。
魔族の存在は未だに広く知れ渡っていないが、それは響理会や国家権力による徹底した隠蔽だけが理由ではない。自己の魔力を認識し、自身が魔族であることを自覚している者がそもそも少数派であるのだ。
前提として、魔力の質と量には個人差が存在する。『質』については当人の魔力がどの魔女に由来するかに因り、魔力の行使――魔術における方向性、得意分野に影響する。『量』については響理会や各国が調査を重ねてもなお要因の特定には至っていない。直に魔女の魔力を浴びて魔族となった第1世代が微弱な魔力しか持たない事例もあれば、片親のみが魔族である、所謂ハーフ魔族が多量の魔力と優れた魔術の才覚を有する事例も見られる。
微弱・微量な魔力しか持たない者、あるいは魔力を行使する才覚に恵まれず、衝動にも至らなかった者は、そもそも魔力の存在に気付かない。このような『無自覚な魔族』が、全魔族の大半を占めているとされる。つまりこの世界において、実際の魔族の人口と、魔族であることが判っている人口の間には、相当な乖離が存在するのだ。
そしてそのような『弱い』魔族を識別できるのは、無意識であろうと体外へ発された魔力をほぼ無条件で視認する心眼を持つ響理会の使徒か、人体の内部を巡る微弱な魔力すら感知できる技能を持つ魔術士。つまりはごく僅かである。従って大多数の魔族は余程のことが起こらぬ限り、自らの特性を自覚せず、世界の裏側も知らず、市井で平穏・平凡のままに暮らしている。
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埼玉県戸田市在住の中学生、白縫深影もまた、そんな『無自覚な魔族』の1人であった。少し異なる点を挙げるならば、彼女の保有する魔力はそれなりに多量であり、容姿にその影響が若干ながら及び始めていることか。
行使されず放っておかれた果てに溢れた魔力、あるいは無意識のうちに行使された魔力は、魔族の身体を当人の理想とする形へ誘導する。その影響には個人差こそあるものの、魔族には『美形』と評される容姿を持つ者が多く、また無駄毛や肌荒れの類とも無縁である。頭髪や瞳が人間として有り得ない色に変貌してしまうこと、人種的特徴が半ば消え去ってしまうことも少なくはないが、そのような魔族は流石に自らの特性を自覚しているだろう。
その一方で魔族は、魔力による肉体への歪な負荷故に痩せ易く、筋力等の身体能力を向上させ難い。また、寿命が普通の人間よりやや短くなるとされる。メリットだけではないのだ。身体能力に関しては、魔力を纏うことで取り繕い以上のパフォーマンスも発揮できるが、それは魔術の才覚次第である。
さて彼女の場合、元は黒色に近かった頭髪が黄色みがかったブラウンへと染まりつつあった。そしてこちらは極めて小さな変化であるが、瞳の奥からも同色の光彩が発されていた。
しかしそのような小さな変化は、高校受験を翌年に控えた彼女にとって些事に過ぎない。頭髪の色合いは紫外線の影響と認識していたし、瞳の奥の光彩に関しては気付いてすらいなかった。
4月4日の21時過ぎ、学習塾の帰り道。自宅へ通じる人通りの少ない路地で外国人らしき若者の集団に取り囲まれた時も、彼女は何も理解できなかった。彼ら彼女らが日本に進出した魔道組織“ムーンフェイズ”の構成員であり、実験台とする魔族の拉致を行っている最中であることなど知る由も無い。
「コイツにしよっか」
若い女が聴き慣れぬ言語で発し、深影の額に人差し指を当てた。その白髪を不規則に縦断する赤と青のメッシュが鈍く光ると、細く鋭い衝撃が彼女を襲い、一瞬にしてその意識を奪い去った。
次に深影が認識したのは、自身の四方を囲む冷たい金属の感触。小学生の頃に友人とふざけて入った掃除用具のロッカーを思い出した。当時の状況と異なるのは仰向けに倒されていることと、両手両足がロープらしき物で縛られていること、そして口を頑丈なガムテープで塞がれていることである。
誘拐されたと自覚するや否や、彼女は酷く動転しつつ胴を激しく揺らした。肩や頭部が固い壁に衝突し、鈍い痛覚と共に彼女を格納したケースが軋む。相応の金属音が鳴り響くも、それだけだった。眼鏡がずれ、それなりに気を遣って整えている前下がりのボブカットを乱すばかりである。やや遅れて流れる冷や汗と涙が鬱陶しい。
動きを止めて無理矢理に平静を取り繕うと、近くから微かに話し声が聞こえてきた。しかしそれは彼女の知らぬ言語であり、内容を把握することは叶わない。例え受験勉強を通してそれなりに慣れ親しんだ英語であっても、ネイティヴの発音など理解できないのだが。
深影は改めてパニックに陥りかけた。自分が意識を取り戻したことを知られれば、外にいる何者かは再度何らかの処置を講ずる可能性が高い。その際、ついでとばかりに『酷いこと』をされてしまうのではないか――。他人事として捉えていた様々な犯罪の報道がフラッシュバックし、恐怖が彼女の思考を満たす。
しかし彼女のケースに誰かが近付くことは無く、代わりに話し声が次第に大きく、焦燥を帯びたものへと変容していった。1人が叫ぶと、不規則に金属音が鳴る。洋画や刑事ドラマで見られるような、集団が次々と刃物や鈍器、あるいは銃器を持ち出して侵入者に備える光景。ケースの隙間からは僅かな光しか入らないため外の様子など判らないが、彼女はそんな想像をした。
そして怒号が響く。最早、聴覚だけで十分に事態を理解できる。自身を監禁している場に別の勢力が踏み込み、乱闘が始まったのだ。威勢の良い声は次第に悲鳴へと変わり、銃声としか思えない音が反響する。
警察だと、深影は確信した。
彼女は再び狭いケースの中で懸命に暴れ、自身の存在を市民の味方たる侵入者に認識させようとした。無法者が撒き散らす流れ弾に貫かれるなど御免である。どうか戦闘が激化するより早く、保護して欲しい――そう切望するばかりであった。
彼女を閉じ込めたケースが傾く。一瞬の浮遊感が消えると、強い衝撃が彼女の左半身を打った。眼鏡が落ちる。床に安置するのではなく台か何かの上に載せていたのか、重心が動いたことによってケースが落下したのだ。目の前の扉が外れ、暗闇に慣れた視覚が蛍光灯の安っぽい照明に満たされる。眩しさから目を閉じた深影が再び瞼を開けた時、銃声は止んでいた。
最初に齎された情報は、ここがヴィンテージ物のソファやテーブルが並べられた空間であること。アンダーグラウンドを気取る若者が集うバーのように思われた。この状況においてはどうでも良いのだが、白色のライトは似合わない。続けて視界に飛び込んできたのは、鮮血を垂れ流してそこら中に転がる複数の死体。ホームセンターには並んでいないであろう大振りのナイフに、日本では所持自体がまず許されない拳銃やサブマシンガンが幾つも落ちていた。
「んーッ!」
叫びつつ、深影は目線を上げる。この空間で乱闘を繰り広げた侵入者が纏っていたのは警察官の制服ではなくワイシャツとスラックスだった。前者はダークグレー、後者は暗いオリーブ色であり、刑事やSPが着用しがちなスーツとも異なる印象。そして服装よりも可笑しい点は、彼女とそう変わらぬ年頃の少年であることだ。
彼の右拳がワインレッドの光を纏い、両手にナイフを構えた男の顔面に叩き込まれた。拳そのものではなく光のグローブが激突することで、男の頬が容易く陥没し、首が異常な方向に折れ曲がる。男の体は2メートルほど吹き飛ばされてコンクリートが剥き出しの壁に当たり、そのまま床に伏して動かなくなった。口と鼻孔からだらしなく血液が溢れ、深影を目指して小さな水流を作る。
生理的な嫌悪感に慄く被害者を少年が見留めた。彼は何故か酷く苦い顔をして「居たのかよ」と呟く。そして手足を縛られたまま強引に体を起こす深影へと近付き、ワインレッドの光を霧散させつつ彼女の口元に手を伸ばした。
「大声は出すな」
少年の言葉と共に、深影の皮膚を相応に痛めつつガムテープが剥がされる。続けてその指先が彼女の手首に近付いたかと思うと、僅かな発光と熱を伴ってロープが切断された。足首の拘束も同様に解かれる。今の深影にとって理解不能な現象であることは言うまでもない。兎も角、彼女は身体の自由を取り戻した。味方ではあるのだろう少年に対し、感謝と混乱、恐怖を混ぜ込んだ落ち着かぬ情緒のままコミュニケーションを試みる。
「あの、貴方は……」
無自覚な震え声。ケースの扉の上に落ちていた眼鏡を拾って視力も回復させた深影は、上目遣いで少年の顔を見つめ、改めて自身と同年代であることを認識する。身長は平均的な15〜16歳の男子のそれで、少し痩せ型か。頭髪は丁度、長さも形も彼女と似通っている。ライトに照らされて滲む赤みが印象に残った。
少年の正体を問うべく言葉を選ぶ深影の視界は、彼の背後に、上半身を壁にもたれて座り込む浅黒い肌の女を捉えた。事切れているように見えた女だが、自動拳銃を握ったその右手が少しずつ上昇していた。言うまでもなく、銃口は深影に相対している――即ち女に背を向けている少年へ向けられている。
「後ろっ!」
深影は反射的に叫んでいた。それだけで少年は状況を理解したのだろう。顔貌の中で唯一可愛げを欠く目元が、より一層の鋭さ――攻撃性を帯びたかと思うと、彼は右腕を背後へと振り抜いた。動作に合わせて180度回転した視線がワインレッドの残像を引く。少年の右腕の袖口から射出された何かが女の右目に突き刺さり、頭蓋を貫通。小気味の良い音を鳴らして壁に縫い留めた。拳銃を握ったままの掌が力を失って落ちる。トリガーは引かれなかった。
「ひッ――」
叫びにもならぬ引き攣った声を上げる深影に構わず、少年は殺害した女の元へ向かう。彼がその頭部に突き刺さった直剣のグリップたる扁平な棒を引き抜くと、銀色の刀身は液体となって女の体に落ちていった。続けて彼女の眼窩から粘性を帯びた血液が流れ出す。
この光景が映像作品であればスタイリッシュな白兵戦に感嘆できるのだろうが、眼前で行われた生の殺人、容赦無い肉体の破壊など、少なくとも一般的な感性を持つ中学生にとっては悍ましいものでしかない。正当防衛とはいえ自らがその手助けをした事実もあり、吐き気を催すばかりか意識を失いかける深影だが、そんな彼女に少年が言う。
「通話するから、少し黙ってて」
深影が無言のまま小刻みに何度か頷くと、彼はソファの背もたれに掛けていたジャケットを羽織り、その内ポケットからスマートフォンを取り出した。他に殺し損ねた者がいないか警戒しているのか、部屋に転がる人体を見渡しつつ操作し、通話を開始する。
「こちらシーカー1。地下の連中は全て排除。予定通りに来てくれればいい」
彼の発言に続き、相手も何かを言ったようだ。少し離れている深影には聴き取れないが。
「救出の方は任せる。こっちは死体だけだから、俺は帰るよ」
そして少年は何食わぬ顔でそう言い、短い通話を終了させた。
――ん?
発言の内容に違和感を抱く深影。彼は然りげ無く、被害者の存在を抹消しているではないか。そんな彼女の当惑に対する答えは、続く彼の言葉だった。
「逃げるぞ」
深影は思わず「えっ」と声を上げる。どうやら未だ、身の安全を保証されたとは言い難い状況らしい。