Chapter11
4月4日の午後は、南関東全域に雨が降っていた。
大手町駅の構内を抜けて地上へ出た瞬間、理吹の頭上から大粒の水滴が降り注ぐ。しかしその落下は不可視の誘引を受けて歪み、彼の身体は洗礼を浴びることなく千代田区の歩道を進んだ。舗装の凹凸によって形成された水溜まりにローファーが踏み込むも、そのソールに沿って下方向へ働く圧が水滴の飛散を抑えつけた。
魔力を用いれば傘もレインブーツも不要である。周囲の者がその不可思議を目に留める可能性は否定できないが、悪天候の中で態々見知らぬ他者の頭上や足元を細やかに観察するものか。また響理会の使徒は魔力そのものを視認できるが、出歩く度に使徒との遭遇を憂慮するなど極めて馬鹿げたこと。従って、このような魔力――魔術の行使を自重する理由は無かった。
護神兵は私的な魔術の利用を控えるよう構成員に布告しているが、それを忠実に守る者など皆無である。『優等生』の彩堂律華すら例外ではない。そもそも証拠や記録を残さずに行使できることは魔力・魔術が持つ最大の強みとすら言え、元より統制は不可能なのだ。だからこそ“ムーンフェイズ”のような組織が自由気ままな乱行を繰り返し、響理会という秘密結社が各国政府や財界と協調する形で魔族狩りを推し進めているのだが。
雨水に濡れる人々と自身を対比し、魔族故の細やかな優越感を覚える理吹であったが、僅か5分後には目的地の施設がそもそも大手町駅の地下通路と直結していたことを知る。
深夜から早朝にかけて護神兵の魔術士として勤務した彼だが、一度自宅に戻ってシャワーと着替えを済ませると再び街へ繰り出した。横浜、渋谷に次いで大手町とは、首都圏への浅い憧憬を抱く者が好みそうな行程である。
何にせよ理吹は目当てのビルを見つけ、その1階にひっそりと存在するホテルのエントランスを通る。朝咲翠蓮から指定された密会の場所は、所謂ラグジュアリーホテルのラウンジだった。高等学校の入学式を控えた15歳の子供が利用するなど不自然の極みであり、チャットでそれを知らされた理吹は呆れに若干の羞恥を混ぜた苦い表情を浮かべたが、翠蓮という少女に常識や加減は期待できない。せめてドレスコードの存在を見越し、護神兵の会合で稀に着用するスーツと、夏凜明の勧めで購入したきり放置していたローファーを引っ張り出した次第だ。
ナロータイを締め直したところでエレベーターの扉が開く。天井の高さ以外は控えめなインテリアによって整えられた空間は思いの外、不相応な子供に対しても寛容であった。護神兵中尉としての振る舞いを流用した理吹だが、スタッフの案内を受けるうちに余計な緊張は融解させられていく。
窓に面した席で待つ翠蓮が理吹を認識して手を振った。美麗な顔立ちを歪めて作る中身の無い微笑が齎す違和感も、理吹にとっては見慣れたものだ。黒やグレーを基調とした内装故、彼女の銀髪は一層の輝き、あるいは無用な顕示を放っている。
理吹が着席すると、スタッフは一礼をして離れていった。
「お疲れ様。今はお互い19歳にしているけど、シャンパン飲む?」
翠蓮の第一声に理吹が「要らない」と返すと、彼女はメニュー表を差し出して続ける。
「アフタヌーンティー予約したの。飲み物は好きなの選んで」
「ありがと」
受け取る理吹だが、彼は紅茶をあまり飲まない。銘柄の羅列に軽く目を通すと、深く考えず1行目のアールグレイを選んだ。
「意外とドレスコード甘いんだな」
メニュー表を置き、周囲の人々を視界に捉えた理吹が言う。このラウンジには、ラフには至らずともカジュアルな装いの利用者が多く存在した。
「何処もそんな感じだよ。ラウンジなんて、予約すれば誰でも来れる所だし」
そう言う翠蓮だが、彼女自身の服装はドレスと言っても差し支えないオフホワイトのワンピース。シルクとレースを組み合わせた仕立てが齎す柔らかな透明感と、肩に羽織った黒いテーラードジャケットが持つ固い光沢のギャップは、単なる名家の令嬢とは評せない品格を構築していた。相手との釣り合いを取るという意味では、スーツの着用を選んだ理吹は正しかったのだろう。特殊を通り越した異常な身の上とはいえ、彼は腐っても準軍事組織の士官。少なくとも服に『着られる』心配は無い。
視線を翠蓮から窓の外へと移す。検索エンジンのAIが表示した情報によると、この33階フロアからは新宿エリアは勿論、時に富士山までを見通せるらしい。しかし現在は生憎の雨天により、眺望に含まれる目星い存在は封建制の遺産たる江戸城跡くらいである。理吹が退屈を感じ始めたところで、紅茶と3段のケーキスタンドが運ばれてきた。下段のセイボリー、中段のスコーン、上段のスイーツ――いずれも見目麗しいが、可愛げの無いカロリーと糖質を秘めている。
今夜、理吹はオーソン時信に謝礼として夕飯を奢る予定である。いくら10代の身体とはいえ、重い食事を重ねることには抵抗があった。消化器に入った食物を魔力で燃焼させることは出来るが、ローマ市民の如き無駄な贅沢は決して好みではない。
「じゃあ、いつものお願いね」
ポットから紅茶を注ぐ翠蓮が言った。理吹は静かに頷き、2人の席を囲うように魔力を展開する。そして四方と上方に構築された不可視の壁――音声をその内部に留める魔術、通称“防音結界”である。これは密談において必須とも言え、光学機器による録画を妨害するマナステルスに次いで習得を求められるものだった。理吹は護神兵に所属して間もない頃、米軍の魔術士戦力を代表する人物からこれを直々に教え込まれている。
原価0円、工期5秒の防音室の完成を認識した翠蓮は傍らのバッグを開けた。その上質なキルトナッパレザーとは馴染まない無機質なタブレット端末を取り出すと、画面を操作しながら言う。
「大丈夫だった?昨日の件、評議会に無断でやっちゃって」
懸念や心配を表した発言であるが、そういった感情は欠片も乗っていないように感じられる。清澄を通り越して空虚な声音。付き合いの長い理吹は今更何も感じないが、人によってはさぞ気に障ることだろう。
昨日の件とは、DIVA争奪戦に際して理吹が仲間と共に実行した工作――戦場となる施設から職員を退避させたことである。
「瑞城さんと音伎さんに文句言われたよ。余計なリスクを増やすなってさ」
理吹は答えつつ、自身のカップにアールグレイを注いだ。湯気と併せて昇る仄かにスモーキーな香りが嗅覚を刺激する。適温に調整されたそれを口に含み、言葉を続けた。
「あの人達、人命には興味無いから」
「理吹も同じでしょ?」
間を置かず、微笑を浮かべたまま翠蓮が放った言葉は決して非難や皮肉ではない。意図が存在しない純粋な指摘である。それを理解している理吹は何も返さず、取り皿に置いたカナッペを口に運んだ。
「はい。調べてきたよ」
続けて翠蓮は、タブレット端末をテーブルの中央に置いた。4つに分割された画面が映すのは、英文によるメッセージの履歴。隠語らしき不自然な単語も多く使われているが、理吹は大凡の内容を理解する。
左2つは響理会――日本に常駐する第9教団と、日本共和国内務省による情報共有。右上は第9教団の高官と朝咲家の遣り取りであり、右下は響理会の本部に対して第9教団が送った報告書だった。何れも日付は2037年4月4日――本日となっている。交わされたばかりの情報だ。
「朝咲が把握できる範囲だと、響理会は昨日の件で日本を疑ってはいない……理吹達がやった事もムーンフェイズの仕業って結論だよ」
その『朝咲』を放逐された身でありながら何食わぬ顔で言う翠蓮。スコーンを割る彼女に、理吹はクロテッドクリームを差し出した。
朝咲家は護神兵の運用に関わる一族であると同時に、日本国内における響理会の主要な協力者でもあった。響理会側にとっては単に内務省と並ぶ窓口という訳ではなく、裏取りや保険として活用できる非公式な外交ルートとなっている。所謂『二重スパイ』のような立ち回りだが、本音としては何れの陣営に与しているのか。実態としては機会主義的に一族や派閥の権益を追求した結果に過ぎないのだろうと、理吹は推測している。なお少なくとも、護神兵の存在などを漏洩した痕跡は無いらしい。
「ありがとう。確かにどれも同じ内容だな」
読み終えた理吹が言った。もし響理会が日本側に対して不信を抱いたならば、内務省と当たり障りの無い情報共有を行いつつも協力者である朝咲家に対して何らかの探りを入れるか、響理会内部の報告書において言及するだろう。つまり響理会は現時点で日本側を疑っておらず、即ち理吹達が行った工作もこれといった疑念を呼ばなかったということだ。
しかし理吹にはもう一つの不安要素があった。少し冷めたアールグレイを飲んで、翠蓮に問う。
「使徒の情報って判るか?交戦した時に顔を見られたから、日本に居座られると困る」
魔術と神性を交わす数分間の苛烈な殺し合いの果て、煮え切らぬ決着を迎えた使徒との一戦。蜂蜜色の頭髪と虹色の瞳を持つ少年が理吹に対して相応の敵意を維持していることは想像に難くない。
スコーンの断面にクロテッドクリームを塗る翠蓮は、首を小さく横に振った。
「使徒は機密レベルが高すぎて無理だよ。でも響理会本部から派遣されたみたいだから、戻るんじゃないかな」
ムーンフェイズの一件が片付いた後ならね、と言い添え、彼女はタブレットの画面を切り替える。
表示された動画投稿サイトでは、報道機関によるライブ放送という形で現在の山下埠頭物流ターミナルが映されていた。当然のことながら未だ警察と消防が展開しており、規制線が張られている。画面の下側に表示された字幕によると、専守防衛軍の高官による会見が行われているらしい。
『参謀本部長「テロの可能性を念頭に捜査する」』
『内務省情報管理局による初動捜査が終了。警察ではなく専守防衛軍へ引き継ぎか』
『軍部によるテロ防止体制の不備に対し、与野党から懸念の声』
昨晩の一件は何らかの勢力によるテロ事件として扱われていた。護神兵、ひいては内務省にとっては予定通りの展開である。
「何も知らないのに責任だけ問われるなんて、大変だよね」
翠蓮が言った。毎度のことではあるが、隠蔽の果ての責任転嫁は理吹としても愉快ではない。
しかし現在の参謀本部長は『市ヶ谷の妖怪』としてその名を知られる切れ者。5名しか存在しない大将位にある彼女が、果たして護神兵や響理会の暗躍を見過ごしたままでいてくれるだろうか。理吹を含め、そんな憂慮を抱く関係者は数多い。そしてもし軍部が真相に辿り着いてしまった場合、理吹達の計画も大幅な修正を強いられる――。
尤も、今それを懸念しても仕方がない。理吹は次に食すセイボリーを選び、取り皿に載せた。
「正規軍の方はどこまで解ってるんだろうな」
そう言ったところで、彼のスマートフォンが通話の着信を知らせる。画面に表示された発信元は『鈴木』。護神兵における理吹の上官、鈴木三義中佐だ。
防音結界がある以上、このまま通話を行ったところで問題は無い。翠蓮に内容を聞かれることなど今更の話である。しかし周囲の目は気にかかるため、理吹は彼女に断りを入れて結界を解き、ラウンジを一度退出した。エレベーターホールまで移動した上で改めて防音結界を自身の周囲に構築し、着信に応じる。
「鈴木さん。どうしました?」
『DIVAの少女が目覚めた。会話は可能な状態だから聴取する……同席してくれ。17時に来れるか?渋谷ベース4階だ』
鈴木から淡々と告げられた指示に、理吹は「了解」と返す。元よりDIVAを使用した影響について医師の検査を受けるため、渋谷ベースには向かう予定だった。
鈴木は続ける。
『それと今夜、ムーンフェイズ絡みでまた仕事が発生する見込みだ。戦闘は可能か?』
その声音は、若干ではあるが険しかった。
1つのみとはいえDIVAを入手した魔道組織が次に何をしでかすか――いくつか予測は立てられるが、いずれも極まった厄介事である。
「可能です」
『分かった。詳細は後ほど説明する』
理吹の返答を受けた鈴木は、そう言って通話を終わらせた。
2日連続で戦闘任務に駆り出されるとは、替えが利き難いエースウィザードの理吹といえど珍しい事態である。やはり東アジア屈指の魔道組織は一筋縄では行かぬ相手ということか。恐らくは、凜明を始めとする他の魔術士も呼び出しを受けているだろう。
兎も角、時信に寿司を奢る件は明日以降に持ち越しである。重い食事の連続は避けられたようだ。
「今夜も仕事かな?」
理吹が席に戻るや否や、翠蓮は見透かしたように言った。
「ん、またムーンフェイズだってさ。時間はあるけど別件もあるし、食べ終わったら行くわ」
防音結界を張り直した理吹が答える。少しだけ食事のペースを早める彼を、翠蓮は見つめた。
「そっか。もう少し一緒に居たかったな」
本来は殺し文句に等しいであろう彼女の発言だが、愛らしさの類は感じられない。理吹は平常運転の相方に微かな笑みを返し、紅茶のカップを口に運んだ。