Chapter10
ディートリヒ・パウル・シュタイナーが根岸湾のマリーナに辿り着いた時、既に東の空が白んでいた。
魔装の祈動を認識した際に他の人員を離脱させ、単独で戦場に残った彼は、戦闘後もやはり単独で撤収せざるを得なかった。一応の勝者たる七川理吹がドライバー付きのミニバンで悠々と帰還したこととは対照的である。
戦闘の幕引きを図って湾に飛び込んだため、モッズコートからインナーまでが酷くずぶ濡れの状態。また一昔前よりは大幅に改善されたとはいえ水質も清潔とは言い難く、周囲からは相応の汚れが認識できた。
祝福で強化された肉体は、冷えは勿論のこと感染症の類にも無縁である。しかしそのような身なりの少年が深夜の街を歩いていれば警察へ通報されかねない。かと言って着替えを調達する手段も限られるため、彼は時間をかけて極力灯りの乏しい道を選び、人目を避けつつ移動せざるを得なかった。慎重に過ぎる対応かもしれないが、彼はそこで気を抜くタイプの人間ではない。
親衛隊が現地の第9教団と連携しつつ事後処理を終え、漸くディートリヒの回収を進めようとしたところ、その位置情報はマリーナの近辺にあった。山下埠頭物流ターミナルで繰り広げた暗闘からは4時間近くが経過した頃合いである。使徒は響理会の中で最も強力かつ貴重な戦力だが、同時に祝福という権能故、『死に難い』として粗雑な扱いも躊躇されない存在だった。これもある種の信頼と言えよう。
「失態とは言いませんが、力不足でしたね。シュタイナー特務司教」
此度の作戦において響理会の指揮所となっている、クルーザーのミーティングルーム。
堂々たる十字敬礼を捧げたディートリヒに対し、イライジャ・ルカ・オーウェルⅢ等司教は両手を腰の後ろで組んだまま端的な批評を述べた。
十字敬礼とは、響理会における儀礼的な所作である。脇を締めて右の前腕を垂直に立て、指を揃えて伸ばした掌を顔の真横に掲げる。続けてその前腕の中程を軸に90度回転させ、拳を握って首の前で構える。2種の敬礼を組み合わせて十字を描く形だ。
宗教団体と軍事組織を混ぜ合わせたような結社である響理会らしい文化だった。
「弁明はしない。僕の失態だ」
ディートリヒが敬礼を解いて返す。彼の服装は眼前のイライジャと同じく、司教用の制服に変わっていた。しかしそのカラーリングは異なり、ジャケットとスラックスは純白、内側のシャツはダークグレーである。使徒に割り当てられたパターンだが、親衛隊と対照的なそれには微かな意図を感じざるを得ない。
出頭に先んじて、イライジャはディートリヒにシャワーの使用と着替えを許可していた。それは実戦を終えた要員への配慮か、汚れた状態のまま船内を彷徨かれたくないという衛生意識か。ディートリヒとしては前者であれば喜ばしいのだが。
「映像を出します」
決して和やかではない両者の間に、黒髪の少女の遠慮がちな声が割って入った。ディートリヒが提出したボディカメラの録画データをチェックしていた、ヴェロニカ・ベルティーニⅢ等司祭である。
照明が落とされ、室内が暗闇に包まれた。続けて壁一面を覆うスクリーンに映像が投影される。ディートリヒが繰り広げた戦闘の録画だ。イライジャを始め、室内の要員は皆それを注視した。
交戦した魔術士の放つ魔力によってボディカメラの機能が阻害され、それは殆ど『映像』の体を成していなかった。特に魔術士が標的の魔装を確保、祈動してからは画面全体がワインレッドの砂嵐に塗り潰され、叫び声や鈍い破壊音が反響するばかり。しかしそれこそが、魔装の機能をこの上なく示している。
戦闘の際に悟った『魔女の簡易量産』という事態を、ディートリヒは改めて実感した。
「魔力が濃いですね。やはり映像記録は当てになりませんか」
イライジャが言った。対魔術士戦において光学機器による記録が不可能に近いことは、響理会の人間にとって既知――自明である。今更落胆することではない。
彼は傍らのディートリヒに視線だけを向けて続ける。
「詳細なレポートの提出をお願いします。無論、魔術士のモンタージュ写真も作成してください」
「了解した」
そう返したディートリヒの視線は、スクリーンに注がれたままだった。施設の内部から叩き出された彼の眼前で、魔術士が巨砲を形成する場面。映像としてはワインレッドの砂嵐が濃淡を変化させるばかりだが、彼の脳裏では先程の光景が生々しく、あるいは忌々しく再現される。
「本部に戻り次第、データベースに保存します。殉教者含め、各コマンドの人員からもボディカメラは回収済みです」
映像が終わると、ヴェロニカがそう言って室内の照明を戻した。検証したところで敵の魔術士に関する有意義な情報は得られないだろうが、現場の状況の貴重な記録であることは否定し難い。
なお殉教者とは、響理会としての活動中に死亡した構成員を指す。軍人におけるKIAと相違無い。
イライジャはヴェロニカの発言を受けて頷き、続けて再びディートリヒと向き合う。
「では、シュタイナー特務司教」
彼は敗北について追及や皮肉を重ねるような、不合理な指揮官ではない。退室を許可し、レポートの作成を促す意図で口を開いたのだが、それはテーブルに並べられた端末の1つから響く電子音によって中断させられる。
ヴェロニカがそれを手に取るや否や、気怠げな少女の声がスピーカーから発せられた。
『オーウェル隊長、聞こえてる?』
その緊張感も敬意も無い口調に嘆息しつつ、ヴェロニカは応答する。
「こちらベルティーニⅢ等司祭。ルーチェ助祭ですね、新宿側の状況報告でしょうか?」
ルーチェ助祭と呼ばれた声の主は『おーヴェロニカじゃん』と発し、緩い態度を改めずに続ける。
『こっちも片付いたよ。萩村司教ってば本当に1人で全部殺しちゃった。エースっぽいのもいたのに凄いね』
彼女が示した感嘆の内側からは、見世物を小馬鹿にするようなニュアンスが僅かに滲み出ていた。
ラファエラ・ルーチェ助祭。イライジャの部隊に属する少女で、その年齢に不相応な戦闘技術と、逆向きに不相応な幼稚さ――子供じみた攻撃性を併せ持つ。
横浜に運び込まれた魔装の破壊と並行して計画された、“ムーンフェイズ”の拠点の1つに対する強襲。第9教団が主導し、日本に常駐する使徒を投入して実行された作戦に、ラファエラはチームを率いて増援という形で参加していた。しかし使徒の“萩村司教”は加勢をそもそも必要とせず、彼女は戦闘の機会を与えられなかったのである。それに対する不満が現在、表出しているのだ。
司教と助祭。軍事組織に例えるならば佐官と下士官ほどの格差が存在するのだが、イライジャは眉一つ動かさない。これは彼が上官として寛容な部類であること以上に、ラファエラの気性を買っていることが大きかった。残忍かつ容赦無く魔族や政敵を誅殺せんとする彼女の姿勢は、響理会構成員の範である――そのような評価を下しているのだ。
それを知らぬヴェロニカとしては気が気でないのだが、兎も角イライジャは平然と対応する。
「ではルーチェ助祭、予定通りのルートで撤収してください。魔族狩りの機会はまた遠からず訪れますよ」
簡潔な指示をマイク越しに言い渡し、彼は通信を終了させる。
「流石は萩村司教。ルイス司教と2番手の座を争っているだけはありますね」
続けて彼が発した言葉は、無自覚にディートリヒのプライドを軽く突いた。
「このままラヴクラフト本人も仕留められれば良いのですが……キンバリー司祭、彼女の所在は未だ不明なのでしょうか。回収された魔装の件もありますし、早急な対応が必要かと」
イライジャはそう続け、視線を部屋の隅に控える第9教団のⅠ等司祭、キンバリーに向けた。ラヴクラフトとは、ムーンフェイズの首領とされる女の姓である。
「幾つかダミーの情報を掴まされてしまい、未だ特定できていない状況です。今回強襲した東新宿の拠点についても、彼女の出入りは無かったようでして……」
キンバリーが若干の気まずさを含んだ声で回答した。ムーンフェイズは東アジアの裏社会で覇権とも言える地位を確立しており、こと暗躍においては凄まじい実力を持つ。対ムーンフェイズにおいて一応の協力関係にある日本共和国も捜査には手こずっており、魔装の件についても後手に回っている。
深夜1時頃にイライジャが内務省より受け取った、「日中に行われた入庫の段階で魔装の1つが回収されていた」という情報。彼に失望の溜め息を吐かせた遅い報告は、その状況をよく示していた。
「仮にこれから突き止めたとして、戦闘となれば間違いなく魔装を使ってくるでしょうね」
そんなイライジャの言葉を受け、ディートリヒが進み出て言う。
「僕に残らせて欲しい。2つとも連中の手に渡っている以上、使徒も2人いた方が良いだろう」
魔装の1つを強奪した魔術士は護神兵――日本共和国の尖兵であるのだが、今のところ響理会はそれを認識していない。無論、中華人民共和国を始めとする『その他』の勢力が魔装の強奪を狙っていたことは承知の上である。ムーンフェイズによる双方の入手を前提としているのは、単に可能性の高さ故だ。
従って魔装を祈動させ、ディートリヒを撃退した魔術士――七川理吹は、現状ではムーンフェイズの構成員であると仮定されていた。
ディートリヒの提言を受けたイライジャは、首をゆっくりと横に振る。その動作からは皮肉、あるいは疑念のようなものが感じ取れた。
「以降の対ムーンフェイズ戦に投入する使徒は萩村特務司教1名に留めよ……。貴方が合流する直前、テスマン大司教から下された指令です」
イライジャの発言を受け、傍らのヴェロニカがタブレット端末をディートリヒに差し出した。その画面に表示されているのは正式な命令書。響理会の本部を治め、使徒に対する指揮命令も担う存在、ヴァルテル・ヨブ・テスマン大司教によるものだった。
ディートリヒは訝しむ。使徒は“一代”につき11名しか存在しない貴重な戦力であるが、状況によっては複数名を同時に投入することも珍しくない。むしろ逐次投入や出し惜しみこそが避けられていた。
相手は東アジア最大級の魔道組織であり、極めて強力な魔装を入手している。投入する使徒の追加はあれど、削減は非合理的――ディートリヒはそう認識していたし、彼と折り合いが悪いイライジャもそこに関しては同意見であった。
ディートリヒは、本部で幾度となく対面したテスマン大司教の若白髪が目立つ黒髪から覗く、どこか冷たい瞳を思い浮かべた。表面的な愛想の良さを通して底知れぬ腹黒さが透けて見える男なのだ。
「敗けたまま、のこのこ帰れということか」
歯噛みするディートリヒだが、彼は大司教に逆らうほど意固地でも傲慢でもない。指令に対する了解と退室の意思表示を兼ねて再びイライジャに十字敬礼を示すと、回れ右をして立ち去った。
そんな彼を見送ったイライジャは不信を隠さぬ声音で呟く。
「萩村唯鶴特務司教」
それは独り言ではなく、ヴェロニカら周囲の者に届けるべく発せられた。
「使徒としての実力は確かなようですが、彼はあまりに謎が多い」
日本人の響理会支援者である父親と、北方人種の母親の間に生まれたとされる少年。幼少期は英国で暮らしていたようだが、国籍は出生時から日本共和国にある。彼は欧州や北米の出身者ではない初の使徒として、響理会の内部では相応の注目を集めていた。それは主に、ヨーロッパ中心主義や人種主義に基づくバッシングという形であるが。
しかしイライジャが表明した不信の性質は異なる。とある大司教によるやや不自然な後援と、特定国への常駐という前例こそ多いが特殊な運用に拠るものだ。
「親衛隊として、本人とは一度お話をしたいものですね」
響理会本部の直属である親衛隊は、世界中に展開される組織と構成員に対する監査のような役割も担う。各地を管轄する教団からは時に反発を以て迎えられるが、その権威を軽んじることは不可能である。
使命に忠実なイライジャにとって、使徒や大司教であろうと追及の例外にはなり得ない。
親衛隊ではなく第9教団の所属であるキンバリーは若干の気まずさを覚えつつも、萩村唯鶴という使徒の持つ得体の知れなさについては同意するばかりだった。