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第9話 スカーデットハーミットクラブの海鮮ラーメン③

# 第9話 スカーデットハーミットクラブの海鮮ラーメン③


 翌朝、ヴォルフガングが用意してくれた厨房で、私は材料を前に深呼吸をした。


「死霊術を料理に使うなんて、チココが見たら卒倒するだろうけど」


 小さなカーバンクルの手では扱いにくい大型の魚を前に、私は黒い靄を召喚した。


「死者よ、我が呼び声に応えよ」


 厨房の床に魔法陣が浮かび上がり、その中央から骨だけの手が現れる。続いて腕、そして全身。三体のスケルトンが、カタカタと音を立てながら起き上がった。


「ムウナ様...これは...」


 扉の向こうでヴォルフガングの声が震えている。


「大丈夫よ。調理用のスケルトンだから、清潔だし無害よ。24時間休まずアク取りをしてもらうの」


 スケルトンたちに指示を出す。一体目は大きな鍋で魚のアラを煮込み、二体目と三体目は交代制でアク取りを続ける。


「人間だと集中力が途切れるし、疲れて手が震える。でもスケルトンなら、0.1mm単位の精密なアク取りを12時間継続できるのよ」


 鍋から立ち上る湯気とともに、魚介特有の生臭さが厨房に漂う。しかし、スケルトンたちの手にかかると、その不純物が次々と除去されていく。


「レンゲを持つ角度、すくい上げる速度、全て完璧に制御してるわ。この技術は、魔法ギルドでも私にしかできない」


 正午が近づく頃、鍋の中のスープは見違えるほど透明になっていた。最初は濁った茶色だったものが、今では水晶のように澄み切っている。外の気温も上がり始め、冷たい料理にはぴったりのタイミングだった。


「すごい...本当に透明ですね」


 ヴォルフガングが感嘆の声を上げる。


「でも、これからが本番よ」


 私は昨日ヴォルフガングが使ったスカーデットハーミットクラブの残りの身と、天然の鯛の切り身を取り出した。


「魚素麺を作るのよ。でも普通の作り方じゃない」


 まず、ヤドカリの身をすり鉢に入れ、塩を少量加える。


「ヤドカリの身は甘みが強いけど、繊維が粗い。つなぎに鯛を使って、より滑らかで弾力のある食感を作るの」


 続いて鯛の身も加え、すりこぎで丁寧にすりつぶしていく。しかし、カーバンクルの小さな手では限界がある。


「死霊術・精密操作」


 黒い靄がすり鉢を包み込み、見えない力がすりこぎを動かし始める。人間には不可能な精密さで、一定のリズムを保ちながら、魚の身を完璧にすり潰していく。


「温度管理も重要よ。熱くなりすぎると身が固くなる」


 氷魔法で温度を一定に保ちながら、30分かけてすり身を作り上げる。ヤドカリの鮮やかなオレンジ色と鯛の白が混ざり合い、美しい薄オレンジ色のすり身が完成した。


「次は練りの工程」


 すり身に卵白と片栗粉を少量加え、今度は力強く練り上げていく。死霊術で制御されたすりこぎが、一定の方向に力を加え続ける。


「この練りが足りないと、麺にした時にボロボロと崩れてしまう。でも練りすぎると硬くなる。絶妙なバランスが必要なの」


 15分後、すり身は滑らかで弾力のある状態になった。手で触ると、まるでシルクのような滑らかさと、しっかりとした弾力を併せ持っている。


「さあ、いよいよ麺作りよ」


 平らな台の上にすり身を置き、包丁で薄く伸ばし始める。しかし、ここでも死霊術の精密制御が威力を発揮する。


「死霊術・分子制御」


 すり身の分子構造を魔法で操り、均一な厚さ1mmの薄いシート状に伸ばしていく。通常なら職人が何年もかけて身につける技術を、魔法の力で完璧に再現する。


「そして、麺状に切る」


 薄いシートを丁寧に巻き取り、髪の毛ほどの細さに切っていく。死霊術の精密制御により、一本一本が完全に同じ太さ、同じ長さに仕上がる。


 切り終えた麺は、まるで絹糸を編んだかのように美しく、薄オレンジ色に輝いている。


「最後に茹でる工程。でも、これが一番難しい」


 沸騰したお湯に麺を入れるが、魚素麺は非常に繊細で、茹で時間が数秒違うだけで食感が変わってしまう。


「温度魔法・精密制御」


 お湯の温度を85度に保ち、正確に30秒間茹でる。高温すぎると身が固くなり、低温すぎると生臭さが残る。


 茹で上がった麺を氷水で締める。急激な温度変化により、麺の表面が引き締まり、独特のコシが生まれる。


「完成よ」


 12時間後、太陽が真上に昇り、厨房も暑くなり始めた頃、ついに完成した。


 器に注がれたスープは、まるで空気のように透明で、底の絵柄まではっきりと見える。冷やされたスープが、暑い昼下がりに涼しげな輝きを放っている。その上に、色とりどりの魚身麺が涼やかに泳いでいる。


 白い鯛、薄茶色の平目、オレンジの車海老、黄金のうに、赤いいくら。まるで宝石を散りばめたような美しさ。


「冷製でお召し上がりください」


 私はヴォルフガングの前に器を置いた。


「これは...芸術品のようですね」


 彼は箸を手に取り、恐る恐る魚身麺を持ち上げた。透明なスープから現れた鯛の麺は、まるで生きているかのように柔らかく、しかし確実にコシがある。


 一口すすると、ヴォルフガングの表情が驚きに変わった。


「なんという...これは鯛なのに、まるで麺のような食感が...でも、魚の甘みと旨味がダイレクトに伝わってきます」


 続いてスープを一口。


「!」


 ヴォルフガングの目が大きく見開かれた。


「これは...なんという透明感。魚介の旨味だけが純粋に抽出されている。昨日の私の料理とは全く違う」


 彼は箸を置き、真剣な表情で私を見つめた。


「ムウナ様、これは私の完敗です。技術的にも、発想的にも、完全に負けました」


 私は小さな体で背筋を伸ばした。


「あなたの料理の何が問題だったか、分かる?」


「...申し訳ございません。私の技術不足で」


「違うわよ」


 私はきっぱりと言い切った。


「あなたの料理は技術的には完璧だった。チココのレシピを忠実に再現していたもの。でも、それが問題なのよ」


 ヴォルフガングが困ったような表情で首を傾げる。


「チココが作ったそのレシピは『来賓用』でしょう?つまり、魚介をあまり食べ慣れていない人向けに、濃厚で分かりやすい味に調整されたもの。確かに万人受けする美味しさだった」


 私は立ち上がり、ヴォルフガングの前に歩み寄った。


「でも私は違う。300年間、世界中の高級魚介を食べ尽くした『通』よ。濃厚で豪華な料理なんて、もう飽き飽きしてるの。本当に欲しいのは、素材の真の美味しさを引き出した洗練された一品」


 ヴォルフガングの表情が、だんだん理解に変わっていく。


「つまり、相手を見極めずに料理を作ったってことよ。それは職人として、料理人として未熟なのよ」


「でも、私はチココ様に教わった通りに...」


「はい、そこよ」


 私は彼の言葉を遮った。


「あなたはチココの言う通りにしか生きられない人形なの? 状況を判断して、最適解を考える頭はないの?」


 ヴォルフガングが青ざめた。


「チココが欲しがっているのは『考えない人形』じゃないわよ。信頼できる右腕、状況に応じて最適な判断ができる部下よ。それなのに、あなたは思考停止してチココの真似をしているだけ」


 私は小さな手で彼の大きな手を叩いた。


「剣闘獣時代の奴隷根性から抜け出しなさい! あなたは自由な人間なのよ。自分の頭で考えて、自分なりの答えを出しなさい」


 ヴォルフガングは長い間黙っていたが、やがて深々と頭を下げた。


「...おっしゃる通りです。私は、チココ様に甘えていました。考えることを放棄して、全てを他人任せにしていました」


 彼が顔を上げると、その目に決意の光が宿っていた。


「チココ様に真に必要とされる部下になるためには、私自身が成長しなければならない。ムウナ様、貴重な教えをありがとうございました」


「分かってくれたなら良いのよ。でも」


 私は少し意地悪な笑みを浮かべた。


「まだまだ甘いわね。本当に理解したかどうか、これから試させてもらうから覚悟なさい」


 ヴォルフガングは苦笑いを浮かべながら、力強く頷いた。


「はい、どのような試練でも受けて立ちます」


 窓の外では、昼下がりの太陽が照りつけていた。暑い日差しの中、冷たいラーメンを囲んだ二人の新しい関係が始まろうとしていた。


 今度チココに会ったら、部下の教育方法について、きっちりと意見してやろう。優しいのは良いことだが、甘やかしすぎるのは相手のためにならない。


 それに、私の料理を「まあまあ」以上に評価しない夫にも、少し刺激が必要かもしれない。


 小さなカーバンクルの体で、私は大きな野望を抱いていた。

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