第16話 ウェディングパンケーキ
# 第16話 ウェディングパンケーキ
翌朝、私は珍しく早起きして、リビングでチココを待っていた。小さなカーバンクルの体でソファに座り、昨夜見つけた手紙を前足で押さえている。
チココが寝室から出てきた瞬間、その表情が固まった。
「おはよう、ムウナ...」
「座って」
私の声は静かだったが、有無を言わせぬ響きがあった。チココは観念したように、向かいの椅子に腰を下ろす。
「全部読んだわ」
手紙を彼の前に押し出す。チココの顔が一瞬で青ざめた。
「ムウナ、あれは...」
「『僕はもう死んでいるか』って書いてあったけど、随分元気そうね」
皮肉を込めて言うと、チココは頭を抱えた。
「まさか墓守たちを酒で倒すなんて...想定外だったよ」
「息子が生きていたのね」
私は単刀直入に切り出した。
「流産なんて嘘だった。私の元の体の臓器を使って、マロンの研究所で治療を続けている...」
「ムウナ...」
「300年よ。300年間、私は息子が死んだと思って生きてきた」
チココは深いため息をついた。そして、顔を上げると、その瞳には深い苦悩が宿っていた。
「全部話すよ。もう隠し事はしない」
彼は姿勢を正した。
「君が妊娠してから、僕たちは本当に幸せだった。毎日、生まれてくる子供の話をして、名前を考えて...」
チココの声が震える。
「でも、出産予定日の一ヶ月前、定期検診で異常が見つかった」
「異常?」
「産科医が深刻な顔で言ったんだ。『このまま出産すれば、母体が持たない』って」
私は息を呑んだ。
「君の体は病弱すぎて、出産の負荷に耐えられない。胎児も通常より大きく、魔力も異常に高い。このまま産めば、確実に君は死ぬ」
「それで...」
「医師は中絶を勧めた。今ならまだ間に合う、君の命を救えるって」
チココの手が震えている。
「君も最初は迷っていた。でも...母さんが言ったんだ。『その子は、いずれ来る世界の危機を救う鍵になる』って」
「メリルが...」
「君はそれを聞いて決意を固めた。『私の命で世界が救えるなら、喜んで捧げる』って」
チココの目が暗くなる。
「でも、僕の選択は違った」
「え?」
「その夜、僕は一人で執務室に籠もった。騎士団長としての責務と、夫としての感情の間で引き裂かれそうだった」
チココは遠い目をして続ける。
「机の上には山のような書類があった。貴族たちからの嘆願書、騎士団幹部からの進言、各ギルドからの要請...全てが同じことを言っていた。『騎士団長には跡継ぎが必要だ』って」
彼の拳が握りしめられる。
「騎士団は国の要。その長に後継者がいないことは、国家の不安定要因になる。実際、隣国との緊張も高まっていたし、アノマリーの脅威も増していた。騎士団長として、僕には跡継ぎを作る義務があった」
「それで...」
「でも、同時に別の提案もあった。『ムウナ様がご病弱なら、第二夫人を迎えては』『側室制度の復活を』『養子を取るという選択肢も』...どれも理にかなった提案だった」
チココの声に苦渋が滲む。
「騎士団長としては、それが正しい選択だった。国のため、騎士団のため、民のため...君以外の健康な女性と子供を作るか、養子を迎えるべきだった」
彼は頭を抱えた。
「でも、できなかった。君以外の人をパートナーにするなんて、想像しただけで吐き気がした」
「チココ...」
「精神的な呪縛みたいなものかな。一度君と出会ってしまったら、もう他の誰かと人生を共にするなんて想像もできなかった。君以外の女性に触れることすら、裏切りのように感じた」
チココは自嘲的に笑った。
「おかしいよね。騎士団長なら、感情を殺して合理的に行動すべきなのに。でも僕は、騎士団長である前に、君の夫だった」
彼の告白は続く。
「そして最悪なことに、僕は両方を望んだ。騎士団の跡継ぎも欲しい、でも君以外との子供は考えられない。だから...」
チココの目に涙が浮かぶ。
「君が死ぬと分かっていて、それでも出産を選んだ。世界のためでも、君の意志のためでもない。僕自身の都合のために」
「身勝手...」
「そう、究極の身勝手さだ。『世界を救う子供が必要』という大義名分で自分を正当化しながら、本当は『君との子供じゃなければ意味がない』という個人的な欲望に従った」
チココは震え声で続ける。
「はぁ、僕より身勝手な人間はフィクションでもいないだろうね。妻を殺すと分かっていて、それでも自分の感情を優先した男なんて」
長い沈黙が流れた。
「でも、予想外のことが起きた。生まれた子供が、不安定な存在だったんだ」
チココの声が震える。
「君と僕の潜在レベルの合計が高すぎて、この世界のシステムが処理しきれなかった。赤ん坊は生まれた瞬間から、存在が揺らいでいた」
「だから私の臓器を...」
「君は出産で意識を失っていた。もう息も絶え絶えで...その時、母さんとマロンが言ったんだ。母体の臓器を使えば子供を安定化できると」
チココの表情が苦しそうに歪む。
「君はもう助からない。でも、君の臓器を使えば息子は生きられる。僕は...僕は君の体を切り刻むことを許可した」
「...」
「最低だよね。死にゆく妻の体を、息子のために利用するなんて」
私は複雑な気持ちで彼を見つめた。
「このカーバンクルの体も、計画的だったの?」
「...半分は」
チココが苦い表情で答える。
「君の魂だけでも救いたかった。他の人間の体に移すことも考えたけど、それじゃ誰かが君のために死ぬことになる。君はそれを望まないだろう?」
確かに、私の性格を考えれば、誰かの犠牲の上に生きることは耐えられなかっただろう。
「だから、ペットのむーたんを...実は、むーたんが病気になった時から、密かに観察していた。獣医からも余命宣告を受けていたし」
チココの声が小さくなる。
「病死する2週間前から、毎日容態をチェックしていた。そして死んだ瞬間、すぐに冷凍保存した。君に『誰かが死んだ』と思わせたくなかったから、自然死を待ったんだ」
「計画的すぎて怖いわ」
「自分でもそう思う。でも、他に方法が思いつかなかった」
私は深いため息をついた。
「本当に身勝手ね。騎士団長としても、夫としても、どっちも中途半端」
「...返す言葉もない」
「でも、それがあなたなのよね」
私は静かに続ける。
「完璧じゃない。時に身勝手で、感情的で。責務と欲望の間で右往左往して。でも、だからこそ人間らしい」
「ムウナ...」
「300年一緒にいて、あなたの弱さも知ってる。だから今更驚かないわ」
私はソファから飛び降りた。
「でも、300年も黙っていたのは許せないわ」
「ごめん...」
「まあ、それも含めて、これからやり直しましょう」
私は厨房へ向かいながら、振り返った。
「あなたが唯一『美味しい』って言ってくれた料理を作るわ」
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厨房に立つと、300年前の記憶が蘇ってきた。
まだ人間だった頃。盲目で、ベッドから起き上がることもやっとだった私が、チココのために初めて料理を作った日。
「パンケーキ...」
でも、思い出せば思い出すほど、顔が赤くなる。
あの時の私は目が見えなかった。それだけじゃない、体も思うように動かせなかった。震える手で、何とか材料らしきものを掴んで...
「小麦粉だと思って触ったのは、片栗粉だったかもしれない」
私は頭を抱えた。
「卵も、殻ごと入れた可能性が高いわ。牛乳の量も、カップじゃなくてボトルごと注いだような...」
そして何より恥ずかしいのは、焼いたかどうかも怪しいということ。
「火をつけられたかも分からない。もしかしたら...」
生の小麦粉と卵と牛乳を混ぜた、ドロドロの何かを皿に盛っただけかもしれない。
「それをチココは...」
『美味しい』と言って、完食してくれた。
今思えば、どう考えても食べられる代物じゃなかったはずだ。生の小麦粉なんて、お腹を壊すに決まっている。
「あんなもの、作ってもしょうがないわね」
私は苦笑いを浮かべた。
あれは料理じゃない。ただの愛情の塊だった。不格好で、食べられたものじゃなくて、でも私の全てが詰まっていた。
「でも、あの時の気持ちは本物だった」
私は深呼吸をした。
「だから今度は、ちゃんとした料理で、あの時の気持ちを表現するの」
そうだ、ウェディングケーキを作ろう。
300年前、私たちは正式な結婚式を挙げなかった。私があまりにも病弱で、式を挙げる体力すらなかったから。
ケーキ入刀も、ファーストバイトも、何もできなかった。
「今なら、できる」
私は材料を並べ始めた。
「でも、ただのウェディングケーキじゃつまらない」
そうだ、パンケーキを重ねてウェディングケーキにしよう。あの日の思い出と、今の技術を融合させて。
「まず、生地から」
今度はちゃんと目が見える。手も自由に動く。300年の経験もある。
小麦粉、卵、牛乳、砂糖、ベーキングパウダー。基本的な材料を正確に計量する。
「でも、少しだけ...あの日の不格好さも残そう」
わざと生地を少し緩めに作る。完璧じゃない、少し歪な形。それが私たちらしい。
フライパンを熱して、生地を流し込む。今度はちゃんと火が通るまで焼く。
ジュウジュウと音を立てて、生地が膨らんでいく。香ばしい香りが厨房に広がる。
「これを何枚も焼いて、重ねて...」
私は次々とパンケーキを焼いていった。大小様々なサイズ。完璧な円もあれば、少し歪な形もある。
「これが私たちの300年」
完璧じゃない日もあった。喧嘩した日も、すれ違った日もあった。でも、それ全部が私たちの歴史。
焼き上がったパンケーキを、大きい順に重ねていく。間にはクリームとフルーツを挟んで。
「一番下は、出会いの日」
大きくて、少し不格好なパンケーキ。でも、しっかりとした土台。
「次は、新婚の頃」
甘いクリームをたっぷり。幸せで、夢に満ちていた時期。
「これは、私が死んだ時」
少し焦げたパンケーキ。苦い思い出も、私たちの一部。
層を重ねるごとに、思い出が蘇る。楽しかったこと、辛かったこと、全てがこのケーキに込められていく。
「そして、一番上は...」
小さいけれど、一番綺麗に焼けたパンケーキ。
「これからの私たち」
真っ白なクリームで全体をコーティングする。でも、あえて完璧には塗らない。下の層が少し透けて見えるくらいに。
「過去を隠さない。全部受け入れて、前に進む」
最後に、砂糖細工で作った小さな飾りを乗せる。カーバンクルと、青い髪の騎士。
「完成...」
不格好だけど、愛情がたっぷり詰まったウェディングケーキ。これが、私たちの再出発の象徴。
「チココ!」
私はリビングに向かって呼びかけた。
「ケーキができたわ!」
しばらくして、チココが厨房に入ってきた。テーブルの上のケーキを見て、目を見開く。
「これは...」
「私たちのウェディングケーキよ」
私は小さな体で精一杯背伸びをした。
「300年遅れたけど、ケーキ入刀をしましょう」
チココの目に、涙が浮かんでいた。
「ムウナ...」
「ほら、ナイフを持って」
私たちは一緒にナイフを握った。大きな手と小さな前足で、不格好だけど、しっかりと。
「せーの」
ゆっくりとナイフを入れる。柔らかい生地が、すっと切れていく。
断面から、層になった歴史が見える。明るい色、暗い色、全てが混ざり合って、一つのケーキを作っている。
「あの日のパンケーキよりは、ずっとマシでしょう?」
私が冗談めかして言うと、チココは涙を拭いながら笑った。
「あの時のも、美味しかったよ」
「嘘ばっかり。生の小麦粉だったかもしれないのに」
「それでも美味しかった。君が作ってくれたから」
チココは一切れを口に運んだ。
ゆっくりと咀嚼して、目を閉じる。
「今度のは...」
私は緊張して、彼の言葉を待った。
「最高に美味しい」
その言葉に、私も涙が溢れそうになった。
「本当に?」
「うん。技術的にも、味も、そして何より...」
チココは私の頭を優しく撫でた。
「300年分の愛情が詰まってる」
私たちは顔を見合わせて、笑った。
秘密も嘘も、身勝手さも、全部ひっくるめて、これが私たちの人生。完璧じゃないけど、だからこそ愛おしい。
「さあ、食べましょう」
「うん」
二人でケーキを食べながら、私たちは新しい一歩を踏み出した。
過去は変えられない。でも、未来は二人で作っていける。
息子との再会も、きっともうすぐ。その時は、家族三人で、もっと大きなケーキを作ろう。
窓の外では、新しい一日が始まろうとしていた。