生きていく自信と頭蓋骨
――詩織は、花火が好きだった。
冬の夜、真っ暗な高校の廊下を歩きながら、彼は娘のことを考えている。
照明も点けず、懐中電灯の灯りのみを頼りに歩く。この警備の仕事に就いたばかりの頃は、薄気味悪さを感じビクビク歩いていたが、いつの間にか慣れていた。
彼が娘を亡くしたのが12年前。まだ6才だった。生きていたら、もう18才。ここの三年生の女子たちと同級生だ。
彼は、幼い頃からいがみ合う両親を見てきた。望んでもいないのに見せられてきた。
自分のことしか考えていない両親から愛情など感じられる訳がない。
あたたかい家庭への憧れは膨れ上がり、二十歳で結婚して授かった詩織。
今までの息苦しく孤独な人生は終わり、本当の人生が始まる気がした。
あの夏、詩織を花火大会へ連れて行った。妻の明穂が夏風邪をひいていたので父娘二人で。
帰りの車内でも詩織は興奮冷めやらぬ様子で花火の感想を話し続け、花火よりも喜ぶ詩織を見たかった彼は幸せを感じていた。
交差点の青信号を直進したとき、左側から猛スピードでクルマが突っ込んで来た。詩織は悲鳴をあげた筈だが、彼は今でもその声を思い出せない。衝撃で耳がおかしくなっていたらしい。
コントロールを失った彼のクルマは、対向車線へ横向きに飛び出した。悲運なことに対向車は再度、左側面へ突っ込んだ。
彼は数カ所の骨折で済んだが、詩織は死亡した。手の施しようがなかったらしい。
最初に突っ込んで来たクルマのドライバーも死亡した。高齢女性で、事故直前に心筋梗塞を起こして運転不能になっていた。
――この感情をぶつける相手も既に消えていた。
なんで、あんな最悪のタイミングで! 1分とは言わない、――5秒だけでも違ったら、詩織は!
ずっと、そのことばかり考えていた。通夜や葬儀は、いつの間にか終わっていた。自分でなんとかしたのか、周りの人達がなんとかしたのかさえ思い出せない。
何故、詩織がこんな目に!
何故、自分がこんな目に!
妻の明穂は、半狂乱で毎日彼を責め立てた。
なんで花火なんか連れてったのよ!
なんでクルマで行ったのよ!
なんで何処も寄らずに帰ったのよ!
彼は、妻の為に耐えようと思った。
明穂は、オレしか悲しみや怒りをぶつける相手がいない。オレしかいないんだ。
彼は自分のことを理性的な人間と思っていたし、事実そうだった。
しかし、それは「普段の彼」の話だ。
娘を突然失った彼が「普段の彼」でいられる訳が無い。限界は恐ろしく低い。
ある日、彼は明穂へ言い返してしまった。
「やかましい! それならお前が風邪なんか罹らなかったら、どうなってた!? お前がいたら5秒くらい、簡単にズレた! あのタイミングで、あそこを走ることはなかった!」
致命的な言葉だった。
(――なんてことをオレは)
彼は謝らなかった。謝れなかった。
どんな言葉で謝罪しても無駄なことくらいは、そのときの彼でも理解出来た。
明穂は黙って立ち上がると、詩織の部屋へ入って行った。
翌朝、彼は首を吊った明穂の死体と目を合わせた。映画のように嘔吐したり、失禁したりすることもなく、ただ立ち尽くしていた。
娘を亡くし、妻を亡くした。
――あれから12年、オレも40手前か。
今は、友人が経営しているこの私立高校で警備員とも用務員とも言えない雑用係みたいなことをしている。
正直、慰謝料や保険金などで贅沢しなければ働かなくても食べていけるくらいの金はある。仕事を用意してくれた友人の顔を立てているだけだ。
「友だちが腐っていくのを、黙って見てる奴なんか友だちじゃない!」らしい。
ふと、彼は考える。
なんでオレ、死んでないんだよ? 普通、自殺だよな。生きてても仕方ないし。
建物内の見回りを終え、彼は腕時計を見る。午後7時50分。
後は、屋上だけだ。丁度いいくらいになった。
今夜は8時から花火大会がある。冬の花火の方が、気温の関係だったか忘れたが綺麗だと聞いた。屋上で花火を見よう。オレが代わりに見よう。
――詩織は、花火が好きだった。
階段を上がり、屋上へ出る鉄扉の前に立つ。
ジャラジャラと音を鳴らし、屋上の鍵を出し解錠する。
「……ん、あれ?」
解錠したつもりが施錠している。
――最初から開いていた? 誰かいるのか?
緊張感が一気に高まる。懐中電灯を消す。
音を立てずに、扉を開けようとしたが古い鉄扉はキイキイと鳴る。
なんとか屋上を覗けるだけ開き、顔を近付けてみる。
誰もいない。
しかし、ここからでは全て見ることは出来ない。安心する訳にはいかない。
少しずつ、闇に目が慣れてきた。
屋上の縁近くを囲んでいる落下防止の柵の近くに誰か立っている。
風でスカートが揺れているので女だろう。距離はよく分からないが、少なく見積もっても15メートル。こちらに気付いてはいないようだ。
更に扉を開き、彼は屋上へ出た。忍び足で女に近付く。段々と外見がハッキリしてくる。
この学校の制服を着ているのが、後ろ姿でも分かる。髪は長く綺麗に揃えられている。シルエットが酷く痩せている。落下防止と言う割には低い柵に、細い手を置き空を見上げている。
その姿に、悪い予感しかしない。
もう、3メートルまで距離は縮まった。
「ここで、何をしているんだ?」
静かに、しかし彼なりに精一杯の威厳を込めて声を掛けた。
彼女は、驚いた様子もなくゆっくりと振り返る。おとなしそうな顔をした少女だった。
「ええ、今夜、花火があるので、いいかなって」
全く悪びれることなく答えられ、彼は気圧されそうになる。
「いいかなって……。いいわけないだろ? 屋上の鍵を開けたのも君か?」
「はい。古いタイプだったので、ネットで調べたら簡単でした」
彼は溜め息を吐く。寒さで白く浮かび上がる。
「おじさんは、何してるんですか?」
「オレは見回りをしている。本当なら、ここで終わりだったんだ」
「君のせいで、余計な手間が増えた」と皮肉を込めたつもりだった。
「おじさん、ここで仕事終わりなんですか? それなら私と花火見ましょうよ。終わったら、すぐ帰りますから」
皮肉は伝わらなかったらしい。
「そんな訳にもいかない。君、クラスは? 名前は?」
「1年D組の水川 早紀です。お願いします。今日しか、今夜しか花火ないんです」
「……しかし親御さんも心配するだろう?」
「大丈夫ですよ。友だちと花火、見に行くって言ってますから。さっきも言ったけど、ホントに終わったらすぐ帰りますから。迷惑かけません。お願いします」
彼女の声は細いが、妙な力強さを彼は感じた。
「本当にすぐ帰るんだな?」
「はい、約束します。すぐに、ここから出て行きます」
彼は、また溜め息を吐く。
――よく考えたら、そこまでクソ真面目にこの仕事するのもバカらしくないか? 別に馘になっても、明日から食うに困るってこともないし。報告書作るのも、結構手間だしな。
彼は、先程感じた悪い予感を押し殺そうか迷う。
そのとき、轟音が響き彼女の顔や髪が赤く染まった。
「あっ! もう始まっちゃいましたよ!」
結局、花火が始まったことが最後の一押しとなり、彼は彼女の案を呑んだ。
しばらく、二人で花火を眺めていた。
突然彼女は、柵に両手をつき乗り越えた。柵の外側から、屋上の縁まで1メートルくらいしかない。縁に腰を掛け、足は投げ出している。
当然、足の下は地面まで何もない。20メートル以上の高さだろう。
彼は驚き、一歩も動けない。
「おっおいっ! 何やってんだ!?」
「こっちが楽で、よく見えますよ。おじさんも来て下さい」
彼は、恐る恐る柵を乗り越え、彼女の隣に座る。下を覗くと、あまりの高さに震えあがった。特に花火が咲き、辺りが照らされると足元もハッキリ見えて恐ろしい。
「なんで生きてるんだ?」「生きてても仕方ない」なんて思いながら、生活している普段の自分と矛盾を感じる。
(とりあえず隣に座ったがこの娘が、もし――。どうすればいいんだ?)
彼が思案している間も、花火は夜空を染めていく。
彼は、隣の彼女の顔をそっと覗いた。顔は確かに空を向いている。しかし、目はガラスのように花火の輝きを反射しているだけで、感動も喜びも見えない。プラプラ動かしている足も、ワクワクしているというより退屈だから動かしているように見える。
――オレの考え過ぎか?
「おじさん、結婚してるんですか?」
夜空を向いたまま、彼女がいきなり訊いてきた。
「あ、いや……」
深く考えない子供の残酷さに心を抉られる。
「あっ、もしかしてバツイチですか? ごめんなさい」
「あ、ああ。色々あるんだ。言いたくない事もある」
彼は小声で応えた。花火の轟音に掻き消されそうな小声。
「じゃあ、子供はいるんですか?」
――さっきの話は、聞いてなかったのか?
「……いや、いない」
「ふぅん、そうなんですか」
会話は終わり、再び二人は花火を眺めていた。
不景気の影響か、花火大会は30分程度で終わったようだ。
「もう、終わりなんですか?」
「まあ、スポンサーとか不景気で付かないんだろう」
彼は立ち上がる。
「とにかく約束通り、帰ってくれ」
「はい」
彼女も立ち上がる。
彼は緊張する。全身に力が入ってしまう。しかし、それを彼女に悟られてはならないと思う。
彼女は、彼の微妙な変化など気にした様子もなく柵を乗り越え、内側へ戻った。
彼は安堵し、静かに息を吐く。
――やはり、オレの考え過ぎか。
彼も柵を乗り越え、二人で鉄扉へ向かい歩き始める。
「早く終わっちゃったけど、綺麗でしたね」
「あ、ああ、そうだな」
「あれ?」
彼女は制服のポケットに手を突っ込んだ。
「どうした?」
「スマホを忘れちゃったみたいです」
「え?」
呆気に取られた彼を置いて、彼女は小走りで戻り、柵を乗り越える。
――スマホなんか持っていたか? あっ! なんかまずい!
一瞬で自分の過ちに気付き、彼も柵へ走って近付く。
「それ以上、来ないで!」
柵の向こう側から彼女が叫んだ。
彼は足を止める。
彼女まで3メートル。
「おじさん、ごめんなさい。たくさん嘘をついた」
「……」
「親が心配するから、友だちと花火見てくるってのも嘘。私の親は、私に興味ない。だから心配なんかしないの。……それに友だちなんか一人もいないの。イジメられてる訳じゃなくて、誰も私に興味ないの」
まるで他人事のように彼女は話す。
「そっ、そんなこと……」
「あるのよ。ずっとこんな感じで生きてきたのよ? 私って」
轟音が再び響いて、周囲が青く染まった。
元々、二部構成だったのか、何かトラブルが発生して中断したのか、とにかく花火大会は続いている。
「高校に行ったら、親はともかくクラスメイトは何か変わるかもって思ったけど、そんな事なかった」
彼は何も言えない。
「だからもう、終わりにするわ。最期くらいロマンチックにさせてよ。これでも、花火が好きなのは嘘じゃないのよ?」
「……君は、花火が好きなのか?」
彼は詩織の笑顔を思い出していた。
「……好きよ。本当に」
「だから、今夜、死にたいと?」
「陳腐なのも、分かってるの。色々、迷惑掛けるのは悪いけど許して」
――本気だ。本気で死ぬつもりだ。オレも本気で話さないと。
「花火を最後まで見て、一人で終らせたかったのよ。ホントは」
彼女は彼をまっすぐ見て話し続ける。
「……」
「だからもう、出て行って。お願い」
「……オレは、自分が何で生きてるのか、分からなかったんだ」
花火が咲く度に、彼女の表情は逆光で見えなくなる。
「さっき、子供はいないって言ったけど正確には……いた。いたんだ」
正直に告白する。
「事故だった。たった6才だった。生きていたら、君くらいだ。……妻はそれが原因で、自殺した」
「えっ……」
「なんか、ずっと無意味に生きながら考えてた」
花火は空を鮮やかに、染め続ける。
「何で生きてんだ、オレは? 何で死なないんだ、オレは?って」
「……」
「でも、さっき、屋上の端に君と座って気付いた」
「……オレは死ぬのが怖い、めちゃくちゃ怖い」
「君も詩織のように、死んじゃ駄目だ。生きろ。生きてくれ」
いつの間にか、涙が流れていた。
「上手く言えないが、君が生きてくれたら……オレも今までの自分と決別して、生きていく自信みたいなものを持てそうな気がするんだ」
「……おじさん」
彼女の声は涙声に、なっていた。
よく見ると、彼女も涙を流している。
――伝わった。
泣きながら彼女が、口を開く。
「おじさん、殺されそうになったら命乞いする?」
「……なっ!? 何を言ってるんだ?」
「質問したのは、私よ」
静かに、しかしゾッとするほど強い声に彼は驚く。
「あっ、ああ、するだろうな。さっきも言ったが、オレは死にたくない」
「おじさん、死にたくない人をむりやり殺したら罪なのに、死にたい人をむりやり生かしたら罪だと何で分からないの?」
「!?」
「私が泣いたのは、感動したからじゃないわよ。おじさんの浅さと軽さが、気の毒で同情して泣いたのよ」
花火が大量に打ち上げられ、周囲を今まで以上に照らし始める。今度こそ、花火大会はクライマックスを迎えるようだ。
「私の人生は、おじさんの為じゃないわ。おじさんの子供の供養の為でもないわ。すごく簡単なことよ。他人だもの。……でも、ありがとう」
そのとき、彼は見た。花火の絶妙な重なりの結果か、彼女の顔がハッキリ見えた。
彼女は笑っている。彼女は完全に彼を嘲笑っている。
「最期に笑わせてもらったわ」
彼女はこちらに笑顔を向けたまま、ふわりと後ろへ跳ぶ。
彼には、花火に照らされ落下していく少女がスローモーションに見えた。
彼は一歩も踏み出せない。
彼は一言も発することが出来ない。
数秒後、鈍い音を立てて砕け散る。
彼が掴みかけた「生きていく自信」と彼女の「頭蓋骨」が砕け散る。
最後まで読んで頂き、感謝します。