6話 妹と歩んだ。七日間の軌跡
陽葵が学校に行ってしまった。
わかっていたことだ。
四六時中ずっと一緒には居られない。陽葵には陽葵の生活がある。
でもそれは、僕とて同じこと──。
「ヘイYO! 真由美真由美! まっまっママ由美! まゆまゆみ由美ママ由美! 真由美チャーン! 真美ちゃん由美ちゃん真由美ちゃあん!」
今日も今日とて真由美ちゃんをビートに乗せて刻み込む!
「由真ちゃん! 美由ちゃん! 真由美ちゃあん!」
……いや、待て。おかしいぞ。
…………………………………。
どうしてこんなにも、今日の僕のビートはキレているんだ。
このキレの良さなら、日に3万回は真由美ちゃんを刻めてしまえそうだ。……真由美ちゃんを刻み始めて以来の快挙じゃないか。
……もしかして、僕のビートは成長している?
いや。そうじゃなくて……! どうして僕はまだ、真由美ちゃんを刻んでいるのだろうか。
……おかしい。
雨は止んだはずなのに──。
「美由ちゃん! 由真ちゃん! 真由美ちゃぁん!」
もう刻む必要はないはずなのに。まるで呼吸をするみたいに、ついつい真由美ちゃんを刻んでしまう。
思えば、この頃の僕は真由美ちゃんを刻んでばかりだった。
習慣として体に染みついてしまっているのだろうか。
でも明らかに昨日までとは違う。
今日の僕のビートはキレキレだ。
「ヘイYO! 真由美真由美! マンマ真由美! まままママ由美まゆみ!」
このキレの良さは本物だ。もし仮に『真由美ちゃん刻みコンテスト』なるものがあったとしたら、入賞できてしまうのでは?
うん。今の僕ならできる。
だってこのキレの良さは、ホンモノ!
ならば僕の部屋はステージ。遮光抜群のカーテンを観客席と見立てて──。
手を伸ばし、ビートを刻む!
「真由美真由美! Heyチェケマンマ真由美真由美! ヘイMAMA! YUMI真由美!」
なんだこれ。最高の気分だ!
まるでアーティストになってしまったような気分だよ!
「真由美真由美! 真由美MAYUMI! まっまっ真由美! マンマMA・MAYUMI! ママまYUMI! MAMI!」
止まらない。真由美ちゃんを刻む口が止まらない!
「マンママッマママーン真YU美! ママゆみママみ──…………」
そして二万回ほど真由美ちゃんを刻むと──。
玄関が開き、閉まる音。
そして、階段を上る音。
来る! 陽葵の足音だ!
「チェケラ!」
優雅な時間を提供してくれた遮光抜群のカーテンに感謝のお辞儀をして、ドアの前で陽葵が来るのを待つ。
「ただーいま!」
「おかえり! 陽葵!」
「わぁ! 出迎えてくれるなんて、はーじめてだ♡」
「当たり前だよ! だっていい子に待っているように言われたんだから!」
さぁ、早く。陽葵、早く!
「ふふんっ。そうなんだ♡ いい子に待ててえらかったね! いいこいいこ♡」
あぁ。これだよこれこれ。僕はこれを待っていたんだ!
「えらいえらい。お兄ちゃんはえらいぞ〜!」
もっと。もっとだ!
もっとたくさん頭を撫でて「えらいっ!」って言って!!
+++
そんな日が三日も続けば──。
心は満たされて、現状に満足してしまうのは仕方のないことだった。
日中はビートに明け暮れ。
夕方になれば妹に甘え狂う。
遮光抜群のカーテンは尚も光を閉ざしているけれど、僕の部屋はもう暗闇ではなくなった。
朝起きれば、陽葵が電気をつけてくれる。
あの日以来、僕の部屋は常夜灯すら点いていなかった。
僕は暗闇に愛される存在。そうでも思わなければ、遮光抜群のカーテンを死守することはできなかったんだ。
でも、電気の明かりなんて些細なこと。
陽葵が側に居てくれる。それがなによりも光を照らしてくれるんだ。
僕にとって陽葵はお日様のように、生きていく上では欠かせない──絶対的存在になっていた。
だからこそ。とっても困った状況に陥ってしまったんだ。
+++
──全肯定よちよち四日目のお昼。
「ほーら、陽葵特製オムライスだよ! あーんだよ。あーん♡」
「うっ……」
今日は待ちに待った土曜日。
学校が休みの日ともなれば、陽葵と一日中一緒に過ごせるドリームデイ。……なのだが、困った事態に直面していた。
僕は陽葵の言う事を守りたくて仕方がない。だってそうすれば「いいこいいこ」「よちよち」「えらい」の幸せいっぱいスリーコンボが放たれるから。
だけど、こればかりは……。
「ほーら、お兄ちゃん? 美味しいよ? 食べよ♡ あーん♡」
スプーンを口元へと運んでくれるけど、胃がNOサインを出して頑なに拒む。意識とは反対に僕の口は開いてはくれない。
「もぉ。ちゃんと食べない子はわるいわるいだよ? ゆっくりでいいから。お口開けて? ほら、あーーーーん♡」
「うっ……うぅぅっ……!」
やはりどうしたって開かない。
良い子の対極である悪い子と言われれば即座に口を開きたいところだが……だめなんだ。
雨は止んだ。だったら食べられてもいいはずなのに……。僕は未だ、ご飯が喉を通らずにいる。
まるで刻み続けるビートのように、染み付いた習慣が変わることを恐れ拒んでいるようにも思えた。
……雨は止んだけど。虹が架かかるまでにはまだ少し、時間が必要なのかな。
ごめんよ。陽葵……。せっかく作ってくれたのに……。
「ごめん。まだちょっと……無理みたい……」
「ん〜。だめかぁ……。じゃあ特別に♡ 陽葵がもぐもぐして柔らかくしてあげましょお! お口移しだよぉお兄ちゃん♡ これなら食べられるよね♡」
え。
「もぐもぐもぐもぐ♡ まっへへね。おにいひゃん♡ 食べやふいほーにやらはふしゅるひゃら♡」
……あっ。あかん!
これは冗談ではない。陽葵はやると言ったらやる子だ!
「だ、大丈夫! 僕、急激にお腹ペコリンになったからそのまま! そのままで柔らかくせずにそのママ食べたい!! そのままそのマーマ!!」
「もぉ……。じゃあ、はい♡ あーん♡」
ほっ。少しふてくされているようにも見えるけど、なんとか特大の過ちは回避できた。
とはいえ、どうせ戻してしまう。お腹だって壊す。
身体がそれをわかっているから、危機管理センサーが働いているんだ。
……困ったぞ。
でも、口移しなんて……。絶対にだめだ。
ここ最近の陽葵を見ていると、どうにも僕を赤ちゃんかナニカと勘違いしている節がある。だから平然と口移しだなんて言えてしまうんだ。
だってどう考えても、第二次成長期を終えた兄妹が至って良い行為じゃない。
ここは僕がしっかりしないと。こんなになってしまったけど、陽葵は僕をまだお兄ちゃんと呼んでくれている。
しかし今の僕では、お兄ちゃんを発動することはできない。これまでの結果が既に物語っている。
だからここは……。根性! 気合! そして願う!
開け! ひらけよぼくのくちぃぃ!!
うあああああああああ!
おおおぉぉおぉおおお!
もう、やけっぱちだった。
まゆみまゆみまゆみ!!
まゆみまゆみまゆみ!!
さらに心の中でビートを刻む。
頼む、ビートの神様。僕に力を貸してくれぇぇええええ!
まゆまゆままゆみ!
まっまんままゆみ!
──そして奇跡が起こる。いや、もしかしたら奇跡ではないのかもしれない。毎日刻み続けた真由美ちゃんの力なのかも、しれない──。
『ウィーン。ガシャン。プシュー!』
…………あ、開いた! 動くぞ、この口!
だったら急げ! 食らいつけ!
──パクッ。モグモグ。ゴックン。
「……あっ」
もう、無我夢中だった。口移しだけはダメ、絶対。その気持ちが奇跡を起こす。……いや、これもまた。真由美ちゃんを刻み続けた事での、なるべくしてなった当然の結果なのかも、しれない──。
「わぁ! えらいねお兄ちゃん♡ ちゃんと食べられたね!」
「……うん。すごく美味しい。美味しいよ陽葵!!」
およそ三ヶ月半振りに、ご飯がまともに喉を通った。……あれほどまでに食べられなかったのに、おかわりをしたくて仕方がない!
「ふふんっ。よかったぁ♡ ちゃんと食べれてえらいね! お兄ちゃんはえらい! えらいぞ〜!」
「うん! 僕、えらい!!」
「じゃあもうひとくち食べよっか! はい、あーん♡」
──パクッ。モグモグゴックン!
「えらーいえらい。じゃあもっとたくさん食べてみよーう! はい、あーん♡」
パクモグゴックン! ペロリンチョ! チェケラ!
「ひなた! もっと! もっとちょうだい!!」
「わぁわぁ。もぉ~焦らないのぉ!」
途中から褒められていないのに、僕は食べる口が止まらなかった。
最初は褒められてスリーコンボが欲しいだけだった。それなのに……。
美味い。美味すぎる。陽葵特性オムライス……!
そして、気づいたときには──。
「びなだぁ〜もっどぉ……。うぁぁあああ!」
「あらら……。また泣き虫さんになっちゃったね! 甘えん坊さんになったり泣き虫さんになったり忙しいね♡ でもそんなお兄ちゃんが陽葵はだぁいすき♡ ほら、あーーん♡」
違うよ、陽葵。これは天気雨だ!
だって僕の心には──。こんなにも綺麗な虹が架かっているのだから。
雨は止んだ。そして虹も架かった。
これもぜんぶみんな、陽葵のおかげだ。感謝してもしきれないよ。
だから僕は、お兄ちゃんに戻る。もう、戻れる準備はできている。
さぁ、始めよう。お兄ちゃんTIMEを!
陽葵が大好きだったあの頃の僕に! お兄ちゃんに戻ろう!
イッツショーTIME!
ここからは毎日がお兄ちゃん劇場だぜ!
「ごちそうさま! ありがとう陽葵。すっごい美味しかった!」
「ふふんっ。ぜんぶ食べれてえらいね! じゃあベッドに行こっか♡ がんばったお兄ちゃんにはご褒美をあげないとね! たーくさんいいこいいこよちよちしてあげる♡ ぎゅー♡ってずぅーっとしてあげる♡」
「あっ。ちょっ陽葵……あっ……」
う、うん。お兄ちゃんに戻るのは明日からでいいかな。
そう、明日から──…………。
いや、明日は日曜日だから。陽葵とずっと一緒に過ごせるから……。
お兄ちゃんに戻るのは月曜日からでいいかな!
+
そして──。
憂鬱な月曜日が訪れる。
土日の二日間。陽葵とずっと一緒に過ごした反動が僕に襲いかかる。
「うぅ……。どうして……どうしてなの……」
ひとり、部屋に残された僕は枕を濡らしていた。
陽葵は学校に行ってしまった。当然、夕方まで帰っては来ない。
「うぅ……ひなだぁぁ……僕をひとりにしたらやだよぉ……」
ましゅまろではなく枕に顔をうずめるしかない状況は、喪失感に拍車をかける。柔らかさは比べるまでもなく、ここに安らぎは存在しない。
「うぁぁあああ……ひなだぁぁ……うぅ……」
されども絶望の淵で、光は差す──。
「あっ。陽葵の匂いだ! なんで?!」
芳醇で甘美なパルファムが僕のベッドにもんもんと充満していた。
陽葵はどこにも居ない。学校に行ってしまった。それなのに、こんなにも近くに陽葵を感じる。どうして?!
くんかくんか。くんか! ……はっ!
そうか! おはようからおやすみまでベッドの上で「よちよち」されていたから、陽葵の残像がベッドに宿っているんだ!
それだけじゃない。部屋の中は陽葵の残り香で満ちている!
「なーんだ! これならひとりでも寂しくないね!」
そうとわかればやることはひとつ。
僕はビートを刻みだす。
「……ヘイYO」
「マイクロフォンチェケチェケ……」
僕の部屋はステージ。遮光抜群のカーテンは観客席。
さぁ、今日は二日ぶりのステージだ!
行くぜ! ヒアウィーゴー!
「真由美真由美真由美! まゆまゆマンマ真由美!」
今日も僕のビートはキレキレだ。
それでも、頭の中は陽葵でいっぱい。
……陽葵、まだかな。僕、お腹空いちゃったよ。
ママ、早く帰ってきて……。
「ヘイYO! マンマまゆみ! まっマンマまゆまゆまゆみ!」
されどもビートはキレキレだ。
二日間のブランクを全く感じさせない、見事なキレ。
そんな、キレキレのビートを刻み、足音に耳を澄ます。
「YOチェケ! まゆまゆまゆみ! マッンマまゆみ! チェケ! ままゆみままゆみ──…………」
そして、真由美ちゃんを二万五千回ほど刻み終えたところで、玄関の開く音。階段を上る音が耳に届く──。
来た! 陽葵が帰って来た!
「ヘイYOチェケラ! センキューベルマッチ! イェー! マタ・アシタ!」
優雅な時間を提供してくれた遮光抜群のカーテンさんに感謝のお辞儀をして、ドアの前で陽葵が来るのを待つ。
「ひ、陽葵……! おかえり!」
「ただーいま。お兄ちゃん♡ 今日もお出迎えしてくれてうーれし♡」
「陽葵……陽葵ぁ……!」
もはやましゅまろに飛び込まずにはいられない。
「もぉ。だめだよ〜! お外あついあついで汗びっしょりなんだからぁ! お顔汚れちゃうよ?」
あぁ、僕の顔なんてどうでもいい! どうなろうと構いやしない!
ワイシャツ越しのましゅまろも、これはまた風流なもので。夏を感じさせる一級品に仕上がっていた。
今日一日を学校で過ごした結晶。青春と思い出がふんだんに詰まった奇跡の産物。
本日の最高金賞、此処に極まれり──。
それでも、ほんのりと切ない気持ちになってしまうのは……。今日のましゅまろに後ろめたさがあるからだ。
おとさんは七月がデッドラインだと言っていた。
おそらく夏休みに入るまでのこと。……残された時間は僅かしかない。
このままじゃ、だめだよね。僕も学校に──…………。
「もぉ。本当にだめだってぇ♡ 今日は体育の授業もあって体中ベトベトなんだから……。シャワー浴びて来るから、いい子に待ってて♡」
う、うん。とりあえずそんなことよりも!
僕は早くいつものが欲しい!
もういい! 注文してやる!
オーダー方法はこの間の土日で覚えちゃったもんねー!
「僕、ひなたが帰ってくるのをずっと待っていたんだ!」
「うんうん。そっかそっか。ちゃんと待ててえらかったね! お兄ちゃんはえらい♡」
いつものきたー!
あぁ、これだよ。これを待っていた!
ずっとこれを待っていたんだよ!
「じゃあ陽葵はシャワー浴びてキレイキレイしてくるね♡ ただでさえ暑いのに今日は体育がんばっちゃったから……。だからいいこに待ってるんだよ♡」
行かせない。
おかわりの時間だ!
追加オーダーを開始する!
「あのね、僕! すっごい眠たくなったけど、寝ないで待ってたんだ!」
さぁもっと。もっと褒めてくれ!
「そっかそっか♡ いいこだね♡ お兄ちゃんはえらい! とってもえらい! じゃあ陽葵は……──」
へへっ。これだよこれこれ!
さらにもう一回おかわりだ!
「僕ね!!!! ひなたが帰ってくるのをずっとずっと待ってたの!!!!」
「うん。えらいえらい♡ お兄ちゃんはえらい♡ じゃあシャワー──」
「僕ね!!!!!!!!! ずっとずっとずっと待ってたの!!!!!!!」
おかわりの無限コンボ!
「うん。えらいえらい♡ 嬉しいよ♡ じゃあもう本当にシャワー浴びてくるから、このままじゃ汚いもん。だからいい子に待っててね!」
「陽葵ぁひなたひなたひなたひなたぁぁ! YOチェケひなたひなたぁああ!」
そして僕はまた──。過ちと知りながらも、陽葵をベッドに押し倒してしまう。
「あっ♡ ちょっと……だめ……♡ 落ち着いてお兄ちゃん! あん♡ そんないきなり……。本当にお布団汚れちゃうから! 今日体育があったから! だ、だめぇー♡」
これさえあれば、他にはなにもいらない。
かけがえのない確かな安らぎが、此処にはあった──。
+++
僕は陽葵に甘やかされるのにハマっていた。
まるで取り返しのつかない沼にハマっているようにも思えたけど、やめられなかった。
こうしている間は、嫌なことをぜんぶ忘れられた。そして、許されているような──。そんな気持ちにもなれたんだ。
だから今日も明日も明後日も──。
来年も再来年も。ずっと。ずっとずっと──…………。
その先も、永遠に。
こんな日が続けばいいな。……なんて。願ってしまうんだ。
間違っていると、わかっているのに──。
+
間違っていると知りつつも、そんな生活がさらに二日も続けば──。
──全肯定よちよち六日目の朝。
「行ってらしゃいママ!」
学校に行く陽葵を笑顔で送り出す。
なんてったってこの部屋は芳醇な残り香でいっぱいだ。ひとりでも寂しくはならない!
だから僕、いいこに待てるもん!
なんて、思っていると……。
「もぉ。陽葵はママじゃありません!」
あっ……。
「ごめん。ついうっかり……」
まただ。また、やってしまっていたのか。
──うっかりお母さん。
「あのね、お兄ちゃん。陽葵はママになりたいんじゃなくて、お嫁さんになりたいの! だからママって呼んじゃ、イヤ!」
けれども、すべてを肯定してくれる陽葵も『うっかりお母さん』に関しては寛容ではない。
それが僕の心にブレーキをかけ、既の所で常時ママ呼びを止まらせている。
「う、うん……。気をつける……!」
「いいこいいこ♡ 早く陽葵をお嫁さんにしてね? おにーちゃん?♡」
しかし問題は山積みだ。
これは陽葵の口癖でもある。以前までの僕なら「バーカ!」とお兄ちゃん風を吹かせている場面。
しかし今は、元気よく返事をすれば頭を撫でてぎゅーってしてもらえることを体が覚えてしまっている。
だから──。
「うんっ!」
元気よく返事をせずにはいられない。
「元気に返事できてえらいね! いいこいいこよちよち♡ ぎゅー♡」
「うん。僕、いいこ! 陽葵ぁ……もっと。もっとして!」
「もぉ。甘えん坊さんなんだから♡ でもだーめ。学校に行って来るからいいこに待ってること。約束できる?」
「……うん。いい子に待ってる! だから返ってきたらいっぱい撫でて褒めて!」
「いいよぉ♡ たぁーくさんしてあげる♡ じゃあ陽葵は学校にいってきまーす!」
「うんっ! いってらしゃーい!」
………………………………。
誰だこの情けない男は。まるでショタ。下手したら赤ん坊だぞこいつ。
……あぁ僕だよ。よもや今の僕はコレモンなんだよ!
わかっているのに、止まれない。
陽葵を前にすると、甘えたくて甘えたくて仕方がなくなってしまう。
その思いは日々、強まる一方だ。
しかしそれと同時に〝このままではだめだ〟という気持ちも強まっている。
僕の中では常時、このふたつの思いが綱引きをしている状態だ。
そしてその綱引きはひとりで居るときに限り、完全に後者が勝るようになった。
正直、僕自身の進退はこのままでもいいと思っている。それこそお兄ちゃんでいることへの拘りや思い入れも薄れてきている。……それくらいに、陽葵のましゅまろは温かくて心地がいいんだ。
けれども陽葵がだめなんだよ。どうしようもなく、だめなんだ。
ここ最近……。というか僕が塞ぎ込むようになってから、家と学校の往復しかしていない。
学校が終われば真っ直ぐ家に帰って来て、休日は一日中僕の側に居てくれる。
僕が陽葵の時間を縛りつけてしまっていることは明白だ。
こんなの、許されるはずがない。
陽葵は不出来な僕とは違って、運動も勉強もできて美形スタイルの持ち主で──。兄のお眼鏡を抜きにしても顔だって超可愛い。
雑誌の表紙やTVCMに出ていても不思議じゃないくらいに、可愛いんだ。
さらには大っきなましゅまろまで兼ね備えている。
はっきり言って、勝組だ。パーフェクトガール。
そんな持って生まれてきた妹が、僕みたいなダメなデブに構って時間をムダにするのは間違っているんだ。
……以前の僕なら、こんな風には思わなかった。ちゃんとお兄ちゃんをやれていたと思うから。
でも今の僕は違う。もう、お兄ちゃんではなくなってしまった。
こいつはいい歳した、ベイベちゃんだ。
それもとびきりしょうもない、大っきなベイベちゃんなんだよ。
こんな大っきな赤ん坊が、パーフェクトガールである妹の大切な時間を奪っていいはずがない。
真由美ちゃんは言っていた。
「あんたの一秒とわたしの一秒はぜんぜん違うの」
「まじ時間の無駄じゃん。13年間を返して?」
本当にそのとおりじゃないか。
一日と二日の差が曖昧になってしまった今の僕と、パーフェクトガールである陽葵とでは兄妹であっても比べる以前の問題だ。
それでも僕はお兄ちゃんだ。
もう、かつてのお兄ちゃんではないけれど、赤ん坊になってしまったけれども──。
胸の中にはずっと、消えずに残っている。
兄として生を授かり、お兄ちゃんとして過ごした日々の記憶は決して消えやしないんだ。
……だから、終わらせないと。陽葵を僕から解放してあげないと……。一日でも早く、僕は──。以前のお兄ちゃんに戻らなければならない。
その強い気持ちが、僕にビートを熱く奏でさせる。
「……Heyヨー」
あのとき──。奇跡は起こった。僕はオムライスを食べることができた。
だからもう一度。力を貸して、真由美ちゃん。
「マイクロフォンチェケチェケ……マユーミMAYUMI」
……違う。そうじゃないだろ。
願っていてはだめだ。その力をいつでも自由に引き出せるように、自分のものにしなければだめなんだ。
でなければ過ちは繰り返される。
たった一度の奇跡ではどうしようもない。奇跡を奇跡ではなく、日常に。当たり前にしなければ、ここから先へは進めない。
陽葵は優しくてとっても良い子だから。
僕が一度や二度「いいこいいこ」「よちよち」「えらい」を断れたとしても、きっと「無理しなくていいんだよ」「陽葵がずっと側に居てあげるから」って優しく包み込んでくれるんだ。
そして確実に僕は──。「ママー!」って抱きついてしまうんだよ!!
あぁ、わかっている。僕って人間がどれだけクッソタレでしょうもないベイベちゃんかわかっているんだ!
だから僕は、奇跡を日常に変える!
そのために必要なのは真由美ちゃんを刻むこと!
だったら刻め! 真由美ちゃんを刻み続けろ!
この声が枯れようとも! 喉が壊れようとも叫び続けろ!
「……チェケチェケ。準備はいーかい真由美ちゃあん? いーかいいーかい真由美ちゃあん。マイクロフォンチャン……マユミチャアン……マユミチャアン…………」
研ぎ澄ませ。僕の部屋はステージ。遮光抜群のカーテンは観客席──。
イクゼ! 放つぜ! カマすぜぇっ!
これが僕のビートだ!
「Heyヨー! マユミマユミ! マンマ真由美! チェケチェケ由美ママユミ! マユーミゴーゴGO!」
いいぞ。初手から素晴らしいキレだ。
今日も僕のビートはキレキレだ。
さぁ、もっとだ! もっともっとイクぜ!
ヒアウィーゴー! フォオオー!
「マンマ真由美! ママMA由美! ユママユミ! 美由ミユYUMIマユッミー……──」
+++
そして二万八千回ほど真由美ちゃんを刻んだところで──。
玄関の開く音。階段を上る音。
来た! 陽葵が帰ってきた!
「センキューフォーベルマッチ! イェー! マタ・アシタ!」
遮光抜群のカーテンさんに感謝のお辞儀をして、ドアの前で陽葵が来るのを待つ。
けれども昨日までとは違う。
今日の僕は──。滾っている。漲っている。二万八千回に渡り真由美ちゃんを刻んだパワーが宿っている!
今日の僕ならイケる!
奇跡を日常に変えられる!
大切な妹だからこそ、僕はもう一度──。お兄ちゃんになれる!
さぁ、始めようか。
ここから先はずっと、お兄ちゃんTIMEだ!
イッツショータイム! チェケラ!
「ただーいま♡」
「おかえり陽葵! 僕ねっ! 今日もいい子に待ってたよ!」
いよしっ! うっかりお母さんはしていない!
ちゃんと陽葵と呼べている!
見たか! これが、二万八千回分の真由美ちゃんの力だ!!
「ふふん。えらいえらい♡ よちよち♡」
「うん! 僕、いいこ!! 撫でて撫でて!」
あっ──。れ?
気づいたときにはもう遅い。
第一声から既に、やらかしてしまっていた。
うっかりお母さんをやらかさない。そんな小さな目標のために、僕は今日一日、熱いビートを刻んでいたわけではない。
……のに。
寸前で意識が刈り取られた。
目の前の撫で撫でに心を持っていかれた。
「ほぉら♡ ぎゅーだよぉ♡ 夕飯の時間までベッドでいちゃいちゃしようね♡」
「うっ……ちょっ……あっ……──。うんっ! するぅ!! するするぅ!」
そして今日もまた。幸せいっぱい夢いっぱいの「いいこいいこ」「よちよち」「えらい!」の全肯定ループに突入する。
些細なことで褒められ甘やかされる。最高の時間が始まる。
「偉いね! すぅはぁ息が吸えてえらい!」
もっと、もっと褒めて……。
「すぅはぁすぅはぁ! すぅすぅはぁっ! ほらみてみてー! 僕、たくさん息吸えたよ!」
催促するのは当たり前。
「いっぱい息が吸えてえらい! お兄ちゃんはえらい! よちよち♡」
息を吸うことでたらふく褒められたら、次。
──パチクリパチクリパチクリ。
「みてみてー! 僕、たくさんまばたきできたよ!」
「わぁ! すごいね♡ えらいえらい♡」
「僕、がんばってまばたきしたんだよ! もっと褒めて!」
「うんうん♡ えらいえらい♡ お兄ちゃんはいいこ♡」
「もっと! もっと褒めてひなた!」
「生きててえらい! ぎゅー♡」
こうしてただひたすらに、ベッドの上で甘え続ける。
幸せだ。ずっとこのまま。
お爺ちゃんお婆ちゃんになっても、陽葵とずっと──。
間違いだとわかっているのに、今日も幸せいっぱい夢いっぱいに眠りに就いてしまう。
……かに、思えた。
ましゅまろにうずまりながら、僕は心の中で真由美ちゃんを刻んだ。
(まゆまゆ真由美。まっまま真由美。チェケラ。まゆまゆみ。チェケラ……──……)
僕の決意は固かった。
この夜。僕は一睡もせずに──。朝になるまで真由美ちゃんを刻み続けた。
(ちゃんちゃんマユちゃん真由美ちゃあん! マユちゃんユマちゃんミユユちゃーん……──……)
そして奇跡は日常へと、あんよを始める──。
+
──全肯定よちよち七日目の朝。
一睡もせずに夜通し真由美ちゃんを刻み続けた僕だけど、眠気もなく普段よりも冴えていた。
刻んだ数だけ募る想い。
想いを力に、奇跡を日常に──。小さくも大きな一歩を踏み出したような、そんな朝だった。
されどもまだ、変化を求めるには早い。
「おはよぉおにーちゃん♡ ぎゅー♡」
モーニングましゅまろを顔いっぱいに押し付けられるところから、僕の一日は始まる。
寝汗をたっぷり帯びた芳醇でクリーミーなましゅまろは、本日もまごうことなき最高金賞──。
抗うことなく、顔全体で堪能する。
夜通し真由美ちゃんを刻んで冴えているからといって、驕りは禁物だ。それがわからない愚かな僕ではないのだ。
だから欲望のままに食らいつく。
おかわりまでキッチリと──。
「おはよ陽葵ぁあ! もっとたくさんぎゅーってして撫でて!」
「もぉ〜。朝から甘えん坊さんなんだから♡ はいはいぎゅーですよ〜♡ ぎゅー♡ 撫で撫でいいこいいこ♡」
時間が許す限り、たらふく堪能すれば見送りの時間はすぐに訪れる。
「あーあ。もう学校にいく時間だぁ……。今日もいい子に待てる?♡」
「うんっ! 僕、いいこだから待てる!」
「ふふん。お兄ちゃんはとっても良い子さんだね。えらい♡! じゃあ陽葵は学校に行ってきまーす!」
「うんっ! いってらっちゃーい!」
部屋に残された僕は陽葵の残り香を糧にビートを刻みながらお留守番に勤しむ。
くんかくんか。くんか!
と、ここまでが昨日までの僕だ。
だが今日は違う。夜通し刻み続けた、新鮮な真由美ちゃんパワーを宿している。その数、およそ三万二千。
だからできる。この先へと、進める──。
揺るぎない確信のもとに、ひとつの信条を掲げる。
〝陽葵が学校から帰ってくるまでに真由美ちゃんを四万回刻めたら、僕はお兄ちゃんに戻れる〟
強い意志で結論付ける。
──戻れる。
今までは思うがままに真由美ちゃんを刻んでいた。ビートとはそういうもので、自由のある世界だと、僕は思っている。
だから回数を決めて刻むのは間違っているんだ。
しかしどうにもこのままでは、間に合わないらしい。
夜通し真由美ちゃんを刻んだことで、頭が冴えている今の僕だからわかる。……もう時間は、幾ばくも残されていない。
僕の始まってもいない高校生活のデッドラインと黙されている七月──。
頭の片隅にある程度で、特段、気に留めたりはしていなかった。
しかしこの日が、僕と陽葵の『人生』のデッドラインになってしまっているんだ。
夏休みに突入すれば、陽葵はずっと僕の側に居ようとするはずだ。そして僕は抗う術を持たない。
すべてを受け入れ、幸せいっぱい夢いっぱいの時間を過ごすことになる。……およそ、40日間に渡り──。
そうなれば僕はもう、確実に戻ってこれなくなる。
今、こうしてまともでいられるのはビートの力にほかならない。真由美ちゃん刻むことで、どうにかこうにか保てている状態だ。
けれども夏休み期間中はビートに乗せて真由美ちゃんを刻めない毎日が続く。陽葵と四六時中、一緒に居るともなれば当たり前だ。
昨晩、寝ずに心の中で真由美ちゃんを刻めたのも昼間の蓄えあってこそ。
と、なれば──。
40日間に渡り、ビートで精神を繋ぎ止めることができなくなる。
夏休み明け、僕は今みたいに言葉を発せられているのだろうか。……きっと無理だ。僕の心は着実に幼児化へと進んでいる。
陽葵なしでは生きていけない人間が完成してしまうんだよ。
優しい陽葵のことだ。きっと僕の面倒を見続けようとするに決まっている。
だからもう、時間は残されてはいない。
そればかりか、今日がラストチャンスの日かもしれない。
僕は昨晩寝ていない。その反動は必ず体に現れる。次、寝ずにビートを刻める日があるとすれば、きっと夏休みに入ってからだ。それでは間に合わない。もう刻めない。
だからお兄ちゃんに戻るのなら、今日しかないんだYO!
「ヘイYO……」
イクよ。真由美ちゃん。今日はキミを四万回刻んでみせる!
「マンママンママユーミマンマ! ユマちんミユちんまゆゆちゃあん!」
だめだ。こんなんじゃ四万回へは程遠い。もっと、もっとだ! でなければ僕は永遠に赤ん坊のままだ。
されども現実は残酷で、今のペースでは四万回など夢のまた夢だった。
今日はがんばる。そんな気の持ちようひとつで成し遂げられるのなら、僕はこんなにはなっていない。
……だからって、諦めるわけにはいかない。ここで諦めたら、陽葵を一生縛り付けることになる。それだけは絶対にだめだ。……だめなんだYO!
その強い気持ちが僕を『頂』のステージへと押し上げる。
「ヘイYO……。チェケイラ真由美……」
僕の部屋はステージ。遮光抜群のカーテンは観客席……。
……違う。だからだめなんだ。
観客席はカーテンの向こう側にあるべきだ……。
ずっとわかっていた。目を背けてきた。
カーテンとは舞台幕。開いていなければ、観客席には成り得ない。
雨は止んだ。それなのに、ぼくの部屋のカーテンはずっと閉まったままだった。
ずっと遮光抜群のカーテンを観客席だと言い続け、開けようともしなかった。
………………………………。
始まりから既に、壊れていたんだよ。
だから僕は──。
「マイクロフォンチェケチェケマユーミ真由美」
今日まで僕を支えてくれた遮光抜群のカーテンに手を伸ばす。
「マンマ真由美真由美! マッマッ! マユーミ!」
ビートを刻みながらガムテープに手を掛ける。
僕と世界を切り離す、遮光抜群のカーテンを断固たるものにするガムテープに、触れる。
「チェケチェケ……チェケイラ真由美……」
震える手をビートで支えながら──。
「マユーミ真由美! マッマァッ!」
真由美ちゃんを刻みながら──。
「ヘイYO! みゆゆちゃあん!」
──ガムテープを、引っ剝がす!
「heyYO! まゆみまゆみ! マンマMAYUMI! まっまっ真由美! マンマMA・MAYUMI! ママまYUMI! ミユユちゃあん!」
必死に必死に、必死に──。ビートで心を支えて、引っ剝がす!
引っ剝がす。
引っ剝がす。
引っ剝がす。
真由美ちゃんを刻みながら、引っ剝がす!
「うああああああ! 真由美ちゃああああああん!」
+
「お天道さんが、眩しいや……」
あの日以来、初めて──。
僕の部屋に陽が差した。
遮光抜群のカーテンは役目を終えるように、けちょんけちょんのズタボロになっている。
窓を全開にして、サンサンと照りつく太陽を体いっぱいに浴び──。……たのは僅かに二秒間。
僕は即座に部屋の隅に隠れてしまう。
予想だにしない事態に、考えるよりも先に思うよりも早く──。僕の体は動いていた。
「……あ、開いてた……」
良い子は学校に行っている時間。この時間に家に居るのは僕みたいな悪い子だ。それなのに真由美ちゃんの部屋の窓が開いていたんだ。
……だ、だから……どどど、どうした。
僕は前へ進む。真由美ちゃんを四万回刻んでお兄ちゃんに戻る。……戻……るん……だ……。
わかっているのに身体は動かない。
「どうして……どうして僕って人間は……」
あれほどまでに勢いよくカーテンを引っ剝がしたというのに、前提条件に真由美ちゃんが不在であることが織り込まれていた。
一大決心の末の行動ではなく、単なる安全圏からの引っ剝がしに過ぎなかったんだ。
そのことに今、気付かされてしまった。
僕はまだ、真由美ちゃんを──……。
ここでさらに。追い打ちを掛けるように〝ブォォオオオオン〟と激しい音とともに風が舞い込んだ──。よもや、真由美ちゃんの逆鱗に触れたと思った僕は、頭を抱えて防御体制に入る。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
一瞬にして体は固まり、完全に動けなくなる。
しかし待てどもドスの効いた低い声は降ってこない。
「……あ……れ?」
当たり前だった。真由美ちゃんが部屋に居るのならカーテンを引っ剝がした時点で、ドスの効いた低い声に制圧されている。
いったいどれだけ僕は、情けない男なんだ……。
……でもじゃあ、この音は……?
出所は僕の部屋のエアコンからだった。
24時間エアコン完備の快適空間。窓が開いたことにより外気との均衡が崩れたみたいだ。
熱気と冷気が真正面からぶつかり合う──。
しかし勝敗は初めから決まっている。
季節は夏本番。そんな日に窓が開いている時点でエアコンに勝ち目はない。
それでも諦めずにエアコンは動き続ける。
電気代を撒き散らし、自らの寿命を縮めるように無駄な風を力強く吹き出す。
こいつは機械だから。命令に従うことでしか己の価値を見出せない。そういうふうにプログラムされている。
結果は関係ない。設定温度になるまで、がんばり続けるだけ──。
さしづめ、狂戦士バーサーカー。
そう思ったらなんだか、笑いが込み上げてきた。
「なんだよ、お前! もう無理だよ。やめておけって! 無駄無駄! 無駄だから!」
設定温度は18度。どんなにがんばったところで、窓を閉めない限りは意味を為さない。
──ブォォオオオオン!
けれども止まらない。止まることを知らない。……止まれないんだ。
その姿はあまりにも哀れで、滑稽に見えた。
まるで、写し鏡を見ているようだった。
「もういいよ。もう、いいんだ」
僕はエアコンのリモコンを手に取り、いつぶりだかもわからない。忘れてしまった命令を──解除した。
元気のない電子音とともに、静かに吹き出し口が閉じる。
お前はがんばったよ。負けるとわかっていても戦った。たとえそれが命令に従っただけだとしても、プログラムだったとしても──。
紛れもなく戦士だ。
僕にもさ、命令が下っていたんだよ。
『カーテンを開けるな』
だからこそ、わかることがある。
「ちっと待っててな。兄弟」
再度、エアコンのリモコンを手に取る。
今度は設定温度を16度にして、パワフル運転で起動させる。
そして風向きを窓の前に固定する。
ブッォォオオオオン──。
大丈夫。今度はちゃんと──。お役目、果たせるから。だからそのまま、風を撒き散らしてくれ。
「ヘイYO……。チェケイラ真由美……」
僕は静かに立ち上がる。
「マイクロフォンチェケチェケマユーミ真由美……」
向かう先は直風ターボが降り注ぐ特設ステージ。
扇風機なんてヤワな風とは違う。
炎天下に晒されようとも、此処だけは快適パワフル空間。
──ブッォォオオオオン!
「ヘイYO!」
僕の部屋はステージ──。
「ビクビッグなステージ! 真由美ちゃぁん真由美ちゃぁん! まっまっまっまっ真由美ちゃあん!」
観客席は…………真由美ちゃんの部屋!
あの日以来、目を背けて来た。
僕は怖かったんだ。きっと真由美ちゃんに言われてなくても、カーテンを開けることはなかった。
下ったのは命令ではなく──。縋るに足るだけの魔法の言葉。根源にあったのは陽葵に褒められるのと同じ気持ち。
だから僕は見る。もう目を背けたりはしない。
カーテンのその先の、さらに2メートル先──。決して届くことのない、空よりも遠い場所。
真由美ちゃんの部屋。
僕が本当にやり直さなければいけないのは、ここからだと、今ならわかるから──。
+
「チェケチェケ真由美! お前の部屋が丸裸! イェーア!」
兄弟が用意してくれた特設ステージに椅子を置き、窓に片足を乗り上げる。
「真由美ちゃあん真由美ちゃあん! まっまっまっまっ真由美ちゃーん!」
ビートを刻みながら半身を乗り出して、真由美ちゃんの部屋を食い入るように覗き込む──。
迷いはない。僕は前へ進むと決めた。真由美ちゃんを四万回刻んでお兄ちゃんに戻ると決めた。
だったら覗け! この目にしっかり焼き付けろ!
決して埋まらないと諦めていた距離2メートルは、半身を乗り出したことによって1.5メートルになった。
今なら見れる。目を背けてきた現実と向き合うんだ!
+
「まんまんまんっまっ真由美ちゃあん! ちゃんまゆまゆゆ! みゆゆちゃぁあん!」
忙しい朝を過ごしたのだろうか。真由美ちゃんの部屋は少し散らかっていて、ベッドの上には脱ぎ捨てられたであろうブラジャーがさっぽってあった。
レースで紫色。アゲハ蝶をモチーフにした♂を魅了するデザインで『絶世の綺麗なお姉さん』が健在であることを現していた。
それと同時に──。
衝撃的な事実をも映し出していた。
ベッドの上に置かれる脱ぎ捨てられブツはブラジャーのみで、パンティやパジャマの姿は見られない。
と、なれば……導き出される答えは──。
──ノーブラ就寝派──
真由美ちゃんはいつだって清潔感に溢れていて、綺麗なお姉さんの模範とも言える存在だ。
その理由のひとつは外出前のシャワーを欠かさないことにある。
それは登校前の忙しい朝でも変わらない。
たとえ遅刻になろうとも、真由美ちゃんは必ず『絶世の綺麗なお姉さん』として家を出るんだ。
遅刻しても尚、普段と変わらずにクラスのマドンナとして君臨していた姿を幾度なく見てきたからわかる。
ゆえに就寝前に外したブラジャーの存在を忘れ、シャワーを浴びたとすれば──。
ベッドの上に脱ぎ捨てられる紅一点との辻褄は合う。
……なんてことだ。
今更過ぎる事実を前に、ビートを刻む口が止まる。
「まっ……まゅ…………うっ……ま……」
脳裏を過ぎるのは朝一番の挨拶。
起床して窓を開けたタイミングで真由美ちゃんと窓越しに「おはよう」の挨拶を交わしたことは何度もあった。
つまり……。
あの朝もあの朝も、あの朝でさえも──。
澄まし顔をしながら「おはよ~」と言っていた真由美ちゃんはノーブラだったということになる……。
まさに事の顛末を模写したような事実。
僕は真由美ちゃんの表面しか見ていなかった。
パジャマの内側がノーブラだという事実に、今日まで気づきもしなかった。
露出度高めで極めて布面積の少ないパジャマ。
そんなものはもう、ほんの少しでも胸元に視線を注げば気づけたはずなんだ。
好きだのなんだのと言いながら、僕は真由美ちゃんの内面を知ろうともしていなかったんだ……。
2メートル。こんなにも近くにいるのに、空よりも遠い。
高嶺の花なんて言葉で片付けられるほど、遠くから見ていたわけじゃないのに──。
……誰よりもきっと、遠かった。
だからこそ。目を背けて来た嘘だらけの13年間に終止符を打たなければならない。
でなければ僕は、一歩たりとも前へは進めない。
あの日僕は、振られるつもりだった。
振られたのに、こんなになってしまった。
嘘のまま綺麗に、終わらせたかったんだ。
その弱さが、矛盾だらけの今を作った。
真由美ちゃんは絶世の綺麗なお姉さんなんだと……信じて止まなかった。偶像を虚像に変えて……恋い焦がれ、盲目と化した。
だから進め。見ろ! 目を背けるな!
「ヘイヨー真由美! お前の汚部屋が丸見えイェー! チェケチェケ!」
──ブォブォブッォオオオオオオン!
「ああ、行こうぜ! 兄弟! もう見ないフリは終わりだ!」
なんせ今日は窓が開いている!
偶然にして奇跡。絶好の覗き日和なんだYO!
「チェケチェケ乙女の汚部屋が丸裸! マルミィエYO! マユーミ! マママッマユーミ!」
そもそも──。窓が開いているからといって、普段はこんなにも丸見えにはなっていない。
距離2メートルの間に窓が向かい合わせになっているともなれば、それなりに気遣うもの。
僕は真由美ちゃんの部屋に一度も入ったことがない。窓から見える僅かな景色がすべてだった。
その記憶を拾い集めても──。真由美ちゃんの部屋は整理整頓が行き届いた『綺麗なお姉さん』の模範ともいえる部屋だった。
けれども今は見る影もない。
ゴミ箱はパンパンで、飲みかけのコップもそのまま。床には一日の役目を終え、脱ぎ捨てられた靴下(紺ソ)が丸まっている汚始末。
こんな部屋は僕の知っている真由美ちゃんの部屋じゃない。
……ううん。わかっていたんだ。
だから僕は真由美ちゃんの部屋を覗く決断に至った。
あの日、真由美ちゃんは言っていた。
「いろいろと気を使うんだよね。部屋の窓を開ければ向かいにあんたの部屋があるし。いい加減、うんざりしてたの」
僕はその言葉の意味を考えようともしなかった。
〝誰だ、こいつ?〟
〝僕の知っている真由美ちゃんじゃない!〟
目を背けて、塞ぎ込んだ。
あまつさえ『ダークネス』として切り離した。
その結果。
真由美ちゃんにとって、向かい側の窓は壁になってしまった。
僕の部屋の窓はずっと閉ざされていた。
僕だけの時間がずっと、遮光抜群のカーテンとともに止まっていた。
時の流れは残酷だ。……けど。だからこそこうして、形を変えてチャンスが巡ってきた。
カーテンを死守した時間は無駄ではなかった。ちゃんと意味があったんだYO!
されどもこれは単なる一歩。小さくも大きな、一歩!
進むは四万歩!
「Heyヨーイクゼ! 真由美ちゃあん!」
僕の部屋はステージ。真由美ちゃんの部屋が観客席──!
「さぁさぁイクYO! イクイクイクYO! イッチャウYO! ヘイ! 真由美ちゃあん! 真由美ちゃあん! まんっまんっまんっまん真由美ちゃあん!」
ノッてキたところでビートのギアを一段階上げる──。
「ヘイYOチェケラ! 視線は真っ直ぐアゲハ蝶!
視界も良好ホックもクッキリ! タグまで見えるG70! Hey!」
それは今更過ぎる──。今となってはどうでもいい答え合わせ。かつての僕なら枕に持っていき、夢うつつに夜を過ごしたであろう答え。
大丈夫。とっくに吹っ切れている。僕はもう、真由美ちゃんを卒業している。
真由美ちゃんはビートを奏でるための道具。三文字の言葉に過ぎない!
だから刻め! 四万回! その先に奇跡があるのなら、刻み続けろ!
「ヘイYO、チェケチェケマユミ。マミーユ真由美……──ジージージーGカップ!」
………………………………。
……………………。
…………。
……。
「アゲハ蝶! アゲハ蝶! あっあっあっアゲハCHO! ジージージージーGカップ!」
……あ、れ?
「ノーブラノーブラGカップ! ななまるななじゅうドドンのドーン!」
脳内でカウントされる『真由美ちゃん刻みカウンター』が一万回を手前にして、完全に止まっていた。
「あの朝も! あの朝も! えちえちパジャマにノーブラON! 朝起きて、してないYO! ジージージージーGカップ!」
無意識下で雑念に支配されていた。
されとて──。
「まっまっまっまっ真由美ちゃあん! まゆまゆまゆ真由美ちゃあん!」
意識さえすれば真由美ちゃんを刻むことは容易い。
しかしこれではだめなんだ。
呼吸をするように意識せずとも刻めなければ四万回には届かない。
どのように真由美ちゃんを刻むのかを考えているようでは、だめなんだ。
ビートとは感じるもの。あの日、絶望の淵で雨音にビートを感じたように──。気づいたときには奏でていないと、だめなんだ。
……だめなんだ、YO!
「チェケチェケ……マミーユ……。まみまみ真由美!」
感じろ。真由美ちゃんにとって、向かい側の窓は壁になった。
それは僕、輝池良男の消失。
存在を消されてしまったんだ。
僕はここにいるのに。ずっとここにいたのに。
遮光抜群のカーテンがすべてを閉ざしていても──。僕は居た。……今も此処に居るんだYO!
「ヘイYO! この窓は壁じゃないんだよYO! ないないないないないんだYO!」
だから僕は、禁断の一歩を踏み出す。
それがいま、本当に進まなければいけない一歩だと思うから──。
「ななまるななじゅうGカップ! どどんのドーンのカップジィー! ノーブラぷるるんGカップ! ヘイヘイYOYOまゆまゆ真由美! ノーノーノーノーブラまゆまゆまゆみ!」
僕の部屋が此処に在ると証明するために──。
ビートを刻みながら──。
──ホップ。
「マミマミユーユーマユミちゃあん!」
──ステップ。
「ヘイYO! チェケチェケマユミ! マミーユ真由美……──ジージージージーGカップ! ヒアヒアウィーウィーゴーゴGO!」
──ジャンプ。
僕は飛んだ。距離にして二メートル。空よりも遠い場所に──。産まれて初めて着地を果たす。
僕の部屋が壁ではないことの証明。
僕がずっと、此処に居たことの証明。
腐ってしまった、今日までの自分との決別。
たった二メートルのジャンプ。されども空へと足を踏み入れる大飛躍──。
──シュタッ。
「真由美ちゃん。真由美ちゃん!! 僕は!! ここにいるよ!!!!」
生まれてはじめて──。
空へと着地を果たした、瞬間だった。
そして──。
「……はぁはぁはぁっ!」
乱れる呼吸の中でアゲハ蝶を掴む。
勝鬨を上げるように天へと掲げる。
「取ったぞぉおおおお!」
雄叫びとともに、兄弟がキンキンに冷やす特設ステージへと舞い戻る。
──シュタッ。
ふたたび──。真由美ちゃん刻みカウンターが動き出す。
「まっまっまっまっ真由美ちゃーん!」
右手で握ったアゲハ蝶を振り回しながら、刻み続ける。
「まんまんっまゆみ! ままんま真由美! みゆちゃんゆまちゃん真由美ちゃあん! 真由美ちゃあん……──」
………………………………。
……………………。
………………。
…………。
……。
…。
そして僕のビートは生まれ変わる──。
「マーユミ! マユミマーユミ! ミンミン! マーユミ! マユミマーユミ! ミンミン!」
気づいたときにはテンポが変わっていた。
穏やかな暖かい風が僕の体を通り抜ける──。
「真由美……ちゃん……?」
そうか。そうだったんだ。
今までの僕はやり場のない想いをビートにぶつけていた。けれども矛先はアゲハ蝶に変わった。
だからこそ、わかる。
ビートとは本来ぶつけるものではない。
リズムを体で楽しむものじゃないか!
「マーユミ! マユミマーユミ! ミンミン! マーユミ! マユミマーユミ! ミンミン!」
なんだよ、これ。楽しいな!
こんなに楽しいのは久しぶりだ!
「マーユミ! マユミマーユミ! ミンミン!」
一緒に踊ろうか真由美ちゃん!
今日は踊りながらビートを奏でようよ!
アゲハ蝶の両端を握りしめ、社交ダンスさながらにくるくるまわる──。
ポカポカ陽気のお日様の下、僕は『真由美』ちゃんという三文字の言葉と踊り続けた。
「マーユミ! マユミマーユミ! ミンミン! マーユミ! マユミマーユミ! ミンミン! マーユミ! マユミマーユミ! ミンミン! マーユミ! マユミマーユミ! ミンミン!」
その数、実に五万二千八百九十六回。目標に掲げていた四万回を大きく上回る結果となった。
そして僕はお兄ちゃんに戻る。
止まった時間が、動き出す──。
Heyヨー、チェケラ!
「ひーなた! ひなたひーなた! たんたん!
ひーなた! ひなたひーなた! たんたん!」
準備はもう、出来ている。
出来上がっているんだYO! チェケ! ラッ! チョーッ!
「センキューフォーベルマッチ。アゲハCHOooooOO! アデュー!」
アゲハ蝶を元居た場所へと羽ばたかせると同時に──。僕の部屋のドアが開く。
「ただーいま♡ おにぃちゃん♡」
待っていたぞ。妹よ──。
さぁ、始めようか。
お兄ちゃんTIME! レッツスタート!