第12話
すでに魔の森に踏み入れてから私は15分ほど走り続けている。その速度は元の世界の小型バイクに匹敵する。勇者の力があったときならともかく、今は普通の人族の少女ほどの身体能力しかないはずの私がそんな走りをできるのにはちょっとした理由がある。それは体に魔力を流すことで発動する無属性魔法、「身体補助」の力だ。本来の身体補助は魔力消費が少ない代わりに、精々疲れにくくなる程度の効果しかない。でも私はちょっと工夫することで身体補助をかなり強力にすることができた。普通、身体補助は全身にまんべんなくかけられる。でも私は元の世界で勉強していた生物学の知識を活かし、組織レベルでどこに効果を集中すれば身体機能を向上できるかイメージできた。この世界の魔法は、イメージが具体的になるほど強力になる。おかげで私の身体補助は効率がよく、しかも高性能だった。医者になるために勉強していたことがこんなことに役立つなんて、全く予想すらしていなかった。
<セムくんは確かにこの方向にいるの?>
私は姿が見えない、でも確実に近くに存在を感じられる相棒に問いかける。
<人族の男の子がこの方角へ走っていったって植物たちが言っているわ。でも現在地は正確に把握できない。どうやら今も動き回っているわ。>
返事を聞いて、私は顔をしかめる。迷子になったら大人たちに見つけてもらえるまでその場を動かないことはこの危険な世界の常識であり、それは小さいころから教えられるはずである。にもかかわらず迷子は移動している。そしてさっきから近づいていると感じる嫌な気配。そこから考察できることは。
<セムくんは魔物から逃げているみたい。>
どうやら時間がないらしい。
<仕方ない、ちょっと頑張るか。>
<あんまり無理しちゃだめよ、佑華。>
心配してくれる相棒に感謝しつつ、私は頭に強くイメージする。足の各組織に加え循環器系全般に、さらに聴覚、視覚にかかわる組織にも身体補助をかける。私はさらにスピードをあげつつ、耳を澄ます。遠くからかすかに地面を踏みしめる音が聞こえる。二本足で走る子供のものらしい軽い足音、それに加え、四足で走る獣の足音。
足音の聞こえた方向へ、木々の間を駆け抜ける。薄暗い中で目に魔力を込めると、木々の間に見えたのは走る子供の姿と、赤く光る一対の眼。
子供はすでに長時間走り続けているのかふらふらだった。それでも足を止めれば死ぬとわかっているので、必死に足を動かす。しかしもう限界だったらしい。
「あっ…。」
足がもつれ、子供は地面に転がる。必死に立ち上がろうとするが、もう足に力は入らない。
「ああ…。」
子供はおびえて迫ってくる影から這ってでも遠ざかろうとするが、距離はあっという間に縮まる。そして容赦なく影は子供を喰らわんと飛び掛かかろうとして。
私が発射した魔法弾に弾き飛ばされた。
「ギャンッ!?」
影は吹き飛んで木に叩きつけられる。そのすきに私は子供と影との間に滑り込む。
「…間に合った。」
つぶやく私をにらみつけながら、影は起き上がって姿勢を低くして襲い掛かろうとする。
「グルルルルル…。」
うなりながらその野犬の魔物は、赤い目を爛々と光らせた。
この世界の獣は元の世界と比べて強力なものが多い。中には魔法を使うものすら存在する。だがそれでも獣はあくまで獣、魔物とは別である。魔物は、獣に悪意を含む魔力が取りついた存在で、ほとんどは魔の森で発生する。その理由は、魔物の元になる獣が多く生息するから、この世界で発生する悪意や魔力が魔の森へ集まるから、などと考えられている。ごく一部の人族は魔物は魔族によって生み出されていると主張しているが、それは明らかに間違いであることを私は知っていた。
目の前の魔物を観察する。体こそ野犬のものだが、全身から不気味な魔力を立ち昇らせ、赤い眼で佑華をにらむその姿は明らかによく知られている魔物のものだ。ただの野犬ならば子供でも追い払えるが、魔物になった獣は全く別の存在になる。牙や爪は鋭くなり、体は頑丈かつ俊敏になる。一般人はとても太刀打ちできず、Eランクハンターが複数人がかりでようやく倒せるレベルになるのだ。現に目の前の魔物は木に叩きつけられたにも関わらず、ダメージを負っている様子はない。
警戒しつつ、目の前の魔物をどう仕留めるか考える。私の魔力弾は通常のものより魔力を込め、そして圧縮することで威力をあげている。さらに圧縮して魔力の密度をあげれば仕留めることができる威力になるが、目の前の野獣は正確に当てるには少々小さい。
魔力弾ではなく別の手段を使おうと一瞬で決意した瞬間、野犬の魔物が飛び掛かってきた。ローブの袖に仕込んでいた片刃の短剣を右手に握ると、向かってきた魔物の頭部の側面に添え、軽く力を込めて魔物自身の勢いを利用して右側に軌道をそらす。
そして私の横を通過していく身体に、魔力を込めた短剣を振るった。
魔物はそのまま地面に着地すると、力なく崩れ落ちた。すると体から黒い靄が浮かぶ。それは、獣を魔物に変えていた悪意を含む魔力の塊。そのままふわふわとどこかに行こうとする。これを放置すると、どこかで別の獣に取りついて新しい魔物を生み出す恐れがある。
もちろんそんなことをゆるすつもりはない。短剣で黒い靄を切り裂くと、かすかな、でも耳をふさぎたくなるような不快な音を立てて、黒い霧は霧散する。その場には魔石と呼ばれる小さな赤い石だけが残った。